第25話 二人連れの理由③
近くの旅館のひとつから電話で注文が入って来た。お姉さんが走って先に店にやって来て「できる?」とマスターに聞いてからのことだ。コーヒーを五人分運んでくれないかという内容だった。コーヒーの出前である。それは普段はほとんど無い。珍しいことだった。
今回は、前日宿泊したチェックアウト後のお客さんがロビーでもう一服、休憩したいと言い出したのがきっかけだったらしい。通常はそういうことはなかなか無い。チェックアウト後は次の観光や食事に移動するのが通常だからだ。今回のお客さんは、ロビーのソファに座り込んで話をし始めて、何かコーヒーでもと言い出したらしいが、 どこの旅館も休憩に入るため、モーニングの時間を過ぎると喫茶コーナーもお休みに入って準備中となる。
そこでお姉さんが思い出したのが「路々」で、走ってやって来たというわけだ。コーヒーカップとコーヒーと、それらをうまく運べるかどうかの確認のために。
確認を取ったお姉さんは「助かった。じゃぁ、よろしく」と言って、お客さんの元へと急いで戻って行った。
マスターも美登里さんも軽くOKを出していた。店のどこからか
というわけで、初めての出前に出くわした奈々恵だった。
五人分のカップ&ソーサー、スプーン、そしてミルクピッチャー、砂糖を用意する。紙ナプキンを多めに、美登里さんが用意している。コーヒーは冷めないようにステンレスボトルに。そうして出来上がったコーヒーの出前セットが奈々恵の目の前に用意された。
「行ってくるか?」
マスターがそう言ったので即座に返事をする。今まで出前ということをしたことは無い。美登里さんがお釣りの用意をしてくれている。いくつかのパターンでお客さんが支払おうとした際のお釣りの出し方を簡単に説明してくれた。それをポケットに入れて、送り出される。
「行ってきまーす」
軽く返事をして、重たくなっている岡持ちとステンレスボトルを持って、歩いて二分もかからない旅館の入口入ったところすぐのロビーへと向う。運びながら、あ、どうするんだっけ? とわけがわからなくなった自分に気が付いてしまった。どこで声を掛けたらいいのか、何て掛けたらいいのか、どの順番で、どこに岡持ちを置いて、お皿やカップを出せばいいのか、ちんぷんかんぷんでリアリティが無いのだ。わぁ、わからないー、ということに気が付いてしまったので、考えて想像してはみるが、結局はカップを出してコーヒーを注げばいいのだから、と開き直ることにした。
旅館の入口に到着すると、お姉さんが待っていてくれて、こちらへと案内してくれた。それで第一段階をクリアーする。ホッとした。
次にテーブルに到着する。隣にもソファとテーブルがあったので、そこに岡持ちとステンレスボトルを置く。岡持ちの蓋を開けると、お姉さんがスッとやってきて、岡持ちに入っているものを次から次へと出していってくれる。
その流れに乗って、奈々恵はセットされたカップにコーヒーを注いでいくことにした。お姉さんの手際が良いのは当然のことなのだが、あまりにスムーズに流れていくので、想像していた不安が実際となることは無かった。助かった。
コーヒーを配り終えたお姉さんがお客さんの横に座る。お客さんの中で一番偉い人だろうと思われる六十代位の体格の良いおじさんが、座ったまま胸の内ポケットから財布を出して支払いの準備を始めている。奈々恵が料金を伝えると五千円札が一枚出て来たので、お釣りを用意しようとポッケに入れた釣り銭袋を出そうとしていると、そのおじさんが急にジーンズを履いた奈々恵のお尻を横から触ってきたのだ。
「はっ! おっ、お金っ、頂きますよっ」
驚きと緊張の中で、思わず口からぽんっと出た言葉だった。それも無表情で。
(し、しまったーっ……)
そう思うやいなや、おじさんと、そのお仲間も、お姉さんも一緒に声を立てて笑い出したのだ。さらにおじさんは笑いながら、追い打ちを掛けるように奈々恵のジーンズのお尻をぽんぽんっと軽く叩くようにした。さらに笑っている。
(えっ?)
わけがわからない奈々恵におじさんは言った。
「お金払ったら、ええんかぁ?」
そう言って声を上げて笑っている。
(いや、いや、いや、そうじゃないでしょ……ああぁ、やってもーた……)
どう回収していいのかわからなかったので、困ってしまい、それ以上面白いことも気の利いたことも言えなかった奈々恵に、おじさんは笑いながら言った。
「釣りはええよ。」
「えっ? えっ」
誤作動しているロボットみたいになっている奈々恵に、先ほどお手伝いしてくれたお姉さんが言った。
「いただいとき」
「えっ、あっ、はいっ」
「わははっ。後で好きなもん飲んだらええ」
おじさんは笑って頷いている。
「あ、ありがとうございます」
「ありがとう」
「おう、お疲れさん」
「勉強して、人生は選びぃや」
お姉さんやおじさんたち、さっきのおじさんの声が最後に背後で聞こえていた。
なんとか「ごゆっくりどうぞ。ありがとうございました」声をワザと張ってそう言って頭を下げ、急いでその場を離れた、というかもうそれは「逃げ出した」に近かった。
もちろん追いかけてくる人は居ないのだが。恥ずかしかった。うまく立ち回れていない自分が恥ずかしくてたまらなかった。ため息ばかり出る、どーんと落ち込んでの帰り道だった。それと同時に背後で聞こえて来ていたおじさん同士の会話が、頭の中で再生された。
「この娘もあの娘と同じくらいやろ、あの
「ああ、昨日の芸子さんなぁ。借金が終わるまでなぁ」
「あの娘は、気の毒やけどなぁ、人の人生ってなぁ……」
確かかどうかはわからなかったが、聞き覚えのある名前だった。
「どっちも十五歳やわね。この子は高校生のバイト。あの娘の場合は、しょうが無いんよ。親の借金返すしか、それしか……ないわぁ」
お姉さんの言葉がさらに刺さった。
(借金……親の……)
それでもおじさんたちとお姉さんの声は、その後は笑い声に変わっていった。とんでもない話のはずのことを聞いたのに、その話自体はもう何処かへと消えて行ってしまったかのようだった。
けれど、奈々恵の中には重く残った話だった。
時々、ここで働いているとこういう話を聞くことになる。それでもこの町の中で働くことを選んだのには理由があった。
それは、綺麗事でオブラートしているわけじゃなくて「あからさま」だからこそ、その中に居て、社会をもっと知るということに自分を置きたかったのだ。
もっと知らなきゃ、もっと知りたい、そういう感情が自分の中からぐいっと押し出されてくるような気がしていた。居ても立ってもいられなくて、こうして人が生きて居る現場に立つことにしたのだ。高校生とか、親の家という仮にも帰る場所がある間に、というのがある意味保険のように思えて理想的だった。
(
それは、残酷なことだが、奈々恵の中では顔が浮かぶ。
その一人以外いなかった。
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