第22話 生活指導の教師と占い師の女⑦
生活指導の岩田先生を見送ったその後、翌日は学校で先生という先生の顔を直視するのが怖かった。でも何も無かった。翌日も、その次の日にも何も変わったことは無く、担任もごく普通だった。
何週間経っても学校で何も起きたりはしなかった。遠くであの先生を見かけることはあったけれど、自分の方に近寄ってくることも無かったし、呼び出されるということも起きなかった。拍子抜けするくらいだった。
生活指導の先生は、学校に何も言わなかったのだろうか。何かを言ったから何も起きないのだろうか。それはわからない。
わかっていることは、岩田先生が関係も無いだろう温泉街の喫茶&ラウンジ「路々」という店に私服で週末にやって来て、一杯のコーヒーを飲みながら、新聞と雑誌を読んで、一時間半ほどは居て、それで帰っていったということ。その後は来ないままなので、マスターの淹れたコーヒー目当てだったということでも無いらしい。確かに顔を合せた、目を合わせたということ。声も掛けなかった。先生は、奈々恵に声を掛けなかったままだった。店でも、学校でも。
ある時、岩田先生と学校の廊下で出くわした時があった。向こう側から一人で歩いてくる先生が居た。奈々恵は職員室にクラスの皆から集めたアンケートのプリントを持っていく途中だった。ちょうど同じ場所が目的地だった状態で、奈々恵の方がほんのちょっと先に職員室の入口に到着した。
奈々恵は向かい側に歩いている先生を見ている間はぴりっと緊張もしたが、入口に到着した後は無自覚に動いている自分がいた。職員室の入口を開けて、ちょうど到着した岩田先生に軽く頭を下げつつ手を出して「どうぞ」とは言わなかったけれど、そのように身体は動いていたのだ。無自覚にそうしていたということに気が付いたのは、先生がくすっと笑ったからだ。
(えっ? わ、笑ったー!)
先生はそのまま軽く頭を下げて、先に職員室へと入っていった。
あの岩田先生が笑っていた。初めて見た。無表情に近い先生しか知らなかった。急いでプリントを担任の机に置いて、そそくさと職員室を後にした。
それ以上のことは何も無かった。おかげでその後もアルバイトは静かに続いていた。
そして思い出す。あの日のあの時の占いの先生は、なぜ最後に自分に声を掛けてしまったのだろうか。名刺には住所と電話番号が書いてあった。先生の名前も書いてあった。名刺だからそれは当然のこと。だけれども、それを渡された瞬間に落胆した自分がいた。がっかりしたのだ。そんな自分に興味があった。そこに何があったのか、何を感じたのか、何かあるからこそ、自分はそれに落胆し、おそらく何らかの答えが出たのだ、その時に。
(この人じゃない……)
そう感じたような、気がした。何かがこの人では無い、のだ。いや、何かをわかっていない、わかっていたならそんなことはしないはずだ、という意味での、この人じゃ無い、って言うことなのかもしれないと思った。何か、それは自分にとって重要な何か、なのだ。まだよくわからない感情だった。
名詞を渡す、そのひとつの行動で、その先生は奈々恵のオーディションに簡単に落ちた。あの時、何か凄いことを言われたような気がしたが、途中で、あるいは最後に、あの先生は負けてしまったのだ。自分の個人的感情から出た行動を選択したのだろう。
何かを思い、名刺を一枚、渡そうと決めて、動いた、というそこにある小刻みな数々の感情と選択が、奈々恵をガッカリさせているのだ。これからの自分を心配して、いざという時の助けになればということだったかもしれないが、だとしたら、名刺を渡すタイミングがどことなく違う気がしたのだ。
間違っているということでは無いが、正しくも無かった。ええと、もっと違う言い方がいい。奈々恵には自分が価値を感じる言動というものがあるらしい、ってこと。
そして目の前で起きたことはその逆だったっていうこと。それはその先生にはわからないことかもしれないし、けれど、少なくとも岩田先生の方が、まだわかっているのかもしれないと思った。それでも、それは敢えて言えばのことであって、奈々恵が魅力を感じるというほどのことでは無かった。ただ、人の折々の場面においての「選択」ということそのものにとても興味があった。
岩田先生のことはそれ以後、徐々に忘れていった。ありがたいことに関わることは無かった。
あの日、占い師の三人が帰った後、その日の名刺は持ち帰りはしたけれど、自分の居ないところで家の中にも残してはいけないと思ったので、学校の通学途中の駅のゴミ箱を借りて、封筒に入れて名刺だとわからないようにして投入した。手離した。捨てたとも言うだろう。二度と会うことが無くても後悔はしない、連絡先が知りたいと思うことも無いだろう、と迷うこと無く思っている自分がいるっていうことを自覚していた。
「選択」と「行動」のセットはとても重要に思えた。特にそれは小さな、小さく思えるような場面において、何かに試されているかのような気がした。きっとそれは人生を大きく左右する。そう思った。選ぶ、選ばない、ということに意識があるかどうかは重大だ。
「この一つの、さようならは、それは私を決めるってこと。きっと」
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奈々恵のアルバイト日記
・灰皿は時折変える。店内巡回。
・ランチ用の味噌汁を作らせてもらった。味の最終調整は美登里さんに。まだまだコツがつかめていない。
・生活指導の岩田先生が黙ってる理由はわからないまま
・占い師の先生が名刺を渡した理由も本当のところわからないまま
・美登里さんは占いの先生に健康で長生きって言われたそうだ。孫の世話して生きる晩年だと言われて、嬉しいみたいだった。
・奈々恵の占いを見ていて、美登里さんは、わからないけど何かわかる気がするよ、って言ってた。
・名刺はいらない。
・貯金は重要
・学校はあまりに普通
・知りたいことがたくさんある。どうして人は何かを信じてしまうんだろうか。どうして人は信じて、信じた上で動くのだろうか。それだけじゃ無い。人はどうして、思い通りにならない人生を歩いていくにだろうか。好き勝手にして生きているように思えるのに、感情で選んでいるのに、その感情で選んだこと自体は長続きしなかったりする。忘れる。変わらない人生っていうのがやって来る。
・それで満足しては居ないのに、変わらない、変えられないという人生。そういう人生って何? 言われたことや聞かされた来たことを信じ込んでいく私たちって何?
・世界って、その環境の持っている世界観、条件によって、人も違ってしまうの?
変われるっていうことでもあるの? 変わりたいって思うことは、もっと知りたいって思うことは、悪くないこと?
・自分の出生場所や状況がわからないまま、兄弟姉妹も親戚も、お爺ちゃんやお婆ちゃんと呼ばれる存在も私にはいない。田舎や実家と呼ばれるようなものも無い。父と母は、おそらく「駆け落ち」あるいは「脱走」的な二人だろう。過去が消されている。教えてもらえない。自分はあまりに知らないことが多すぎる。自分のことも、この町以外のことも。足元が不明なまま、ちゃんと生きていけるだろうか……
これらの日記はすべてローマ字や筆記体で書いている。
たった三人の家族だとは言え、身体を壊して徐々に動けなくなっていく父の不安が大きくなっていいる気がする。奈々恵がいない時に部屋のあちらこちらを見ているようなのだ。理由はわからない。
日記が見られていたと思う日があった。隠さなければ。
「とにかく、貯金しよう」
そう最後に呟いて、ノートを閉じた。
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2024/06/17 スタート
2024/06/25 公開 約二万一千字
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