第16話 生活指導の教師と占い師の女①
これは昭和の時代の、とある温泉場におけるお話。ここは奈々恵が言うところの「蟹座温泉」である。蟹沢温泉という名の一文字を変えて、占星術の「蟹座」から名付けた「蟹座温泉」は、その名の通り蟹座の集まりを表わしているかのように、奈々恵には思えた。
ここ「蟹座温泉」の大地から湧き出る掛け流しの湯の町の、ここに住みここで働く人々の物語。
旅館には様々なところから商売人がやって来る。滞在して宝石や着物などの高級品を販売する催事を行うような人たちがやって来るのはもちろんのこと。
ゲームコーナーや大浴場などに向う通路の少し広めの踊り場にコンパクトなテーブルと椅子があれば、そこは即席の占いの館となる。東洋の占術、西洋占星術、姓名判断、タロット、霊能など様々な占い師の人たちもまたこの温泉場に働きに来ているのだ。
占い師が所定の位置に座る時間は宿泊客がチェックインする時間以降、あとはお好みでその日の担当の占い師が店を畳んで帰るという流れだ。
評判というのがあって、これまた噂は早い。よく当たるとか面白いとなると、仕事が終わった後に着替えて、何かを求めてお姉さんたちは占い師の元へと通う。
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「いらっしゃい」
今日も開店から喫茶&ラウンジ「
最初に入って来たのは、笹田さん。「悩める眼鏡のパンダさん」の「笹田さん」だ。今日もいつも通り新聞を手にしてカウンターの奥の端っこに座る。前は何の会社の社長さんなのかわからなかったが、マスターとの話を聞いているうちに本屋さんの社長だということがわかった。この町の中にある近くの本屋さんだと思われる。店頭に出ているのを見たことは無いが、奈々恵も何度か買いにいったことがある本屋だ。どうも二代目の社長らしい。
次にカウンターに座ったのは例のいつもの二人連れだ。店が開店すると同時にやって来る。今日も二人とも黙ったまま、カウンターの手前の端に静かに座った。奈々恵はお冷やとおしぼりを「いらっしゃいいませ」と言いながら置いていくが、二人とも特に大きなリアクションは無い。
若い女性の方はほんの少し頭を下げたように見える。男性の方は動かない。普通なのだろうが、機嫌が悪いかのように見えるのもいつもと同じだ。
やがて順番にマスターが淹れ立てのコーヒーを配るかのようにお客さんの前に「はいよ」と低い声で置いていく。この二人は誰とも話をしない、というかなかなか話す姿自体を見ないので、まだ誰なのかわからない。わからないけれどこの二人連れは印象が強くて覚えてしまった。男性の方が預けているコーヒーチケットには「山田」とある。いかにもだ。いかにもそれは、きっと「嘘」なのだろう。
だが、そんなことはどうでもいいこと。お姉さんたちに仕事上の名前である「源氏名」があるのと同じ、そう考えると違和感はあっという間に無くなっていった。奈々恵の中では「山田さん」はなかなかに触れてはいけない感じがするお客さんだった。
最初の淹れ立てのコーヒーの香りが広がっている間に、また次のお客さんたちがやって来る。
「おはよう」
そう言いながら入って来るのは、持田さん。この町にある米屋の社長さんだ。
奈々恵の中では相変わらずの人の覚え方は続いている。何しろ顔が覚えられないし、ゆえに思い出すことも出来ないので、この動物とか仕草をセットにして絵や映像で自分の中にファイルしていく方法でなんとか対応しているのだった。
米屋の「持田さん」は、奈々恵の中では「もっち餅のモチダさん」となっていた。ほっぺたがふっくらしていて、日々の温泉が効いているのかツヤツヤの顔が特徴である。体格もいい。随分と昔、学生の頃には柔道をしていたこともあるらしい。
この町の中央には銭湯がある。町の人は皆いつでも掛け流しの温泉に入ることが出来るので、朝早くから入りに行く人も多い。
(もっち餅のモチダさんは、毎日まずは朝風呂なのかな)
そんなことを思いながら、モチダさんのお冷やとおしぼりを奥の席ヘと運んだ。少しするとマスターがまた「はいよ」と言うので、奈々恵はそれを受け取ってお盆に乗せて運ぶ。モチダさんは、パンダ社長と同じでミルクも一緒に運ぶ。
「はい。どうぞ。お待たせしました」
「おっ、ありがと」
背後では続いて入って来た常連さん達の声がする。カウンターはあっという間に定員となる。
「おっ、アルバイト慣れたか」
ニヤニヤ笑いながらそう声を掛けてくるのは、毎度調子のいい牛崎さん。店にいる時に、頭を下げる張り子のべこ人形のように頭がよく動いているのを見て、あっという間に名前が決まってしまった人だ。
「赤べこのウシザキさん」というのだが単純すぎてもう一つひねりたいといつも考えていたが、ウシザキさんが元々は東北の出身、それが福島県の会津地方なのだと後で知って「おおっ!」と小さく跳び上がったのを覚えている。なかなかイケているではないか、自分。
首を振る「赤べこ」の牛の張子は、福島県会津地方の郷土玩具として知られている。この張子の赤色には魔除けの効果があるとされていたらしい。歴史が古いようだが奈々恵はそのくらいのことだけを知っていた。
「路々」の店内、背後のお酒が並んでいる棚に張子の小さな赤べこがひとつ置いてあるのは、もしかしたらウシザキさんのお土産なのでは、と思っている。長い間赤べこはそこに居たのだろうと思われた。
そんな赤べこの顔や背中に白っぽく埃が溜まっていることに気が付き、昨日、時間のある時に、その埃を拭いて取り除き、最後にティシュペーパーで磨いておいた。真っ赤な赤べこが再生したかのように見えた。
「おかげさまで少しずつ慣れてきました」
「おっ、そうか。そうか。よかった」
牛崎さんは、奈々恵の顔を見て、やっぱり頭を何度も下げていた。ほぼ毎日通っているらしい赤べこの牛崎さんの仕事はまだ知らないが、何年も通い続けている人のようだ。
お姉さんたちもよく知っている人らしく、時々わざと声を掛けて挨拶していく人もいる。冷蔵庫とか厨房がという話が時々聞こえて来るので、そういう関係の仕事なのかもしれない。
開店した後にコーヒーを淹れたりしながら、お昼の忙しい時間帯に入るまでにマスターがよく話をしている人の一人だ。
「あっ」
牛崎さんが声を上げた。
「あっ?」
その顔を見ながら、奈々恵は声を出した。
「あ、あ、あっ、ベこが、なんだか赤くなった!」
奈々恵は笑ってしまった。笑いながら、お酒の瓶に囲まれている赤べこを見て頷いた。
「えっ、奈々恵ちゃんなの? 赤べこがさぁ赤いってば今日!」
「はい、きゅきゅっとね」
「あぁ、そっかぁ。ありがとうね。普段気にしてない時にはさっぱり気が付かないけど、そうやって磨いてもらうといやに目立つっていうか、光るっていうか、さぁ」
「はい」
「そっかぁ。べこも元気にしてもらったから、俺もがんばんねぇと、なぁ!」
マスターも笑っていた。やっぱりこの赤べこは牛崎さんなのだろう。
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