第14話 蟹座温泉 湯の町哀歌④
この温泉場では様々な物語が日々生まれている。
そしてその温泉場の中にある喫茶&ラウンジ「路々」には、毎日多くの人たちがやって来る。この店では大きな事件は起こらないことを誰もが知っているかのようだ。
毎日通うのが当り前になっている常連客もたくさん居る。カウンターにはその常連客たちが朝から自分専用の座席に座っている。マスターはいつも変わらない味の濃いめのコーヒーを淹れていた。それを皆が楽しみにしている。
(まるで、ここは砂漠の中のオアシスみたい。マスターって凄いな)
奈々恵の中では、この店は誰もが一時休戦して食事をする特別な場所に見えていた。そこには時々は不穏な存在もやって来るが、あえて排除はしない。その存在が仕掛けた罠に引っかかるも良し、引っかからないのも良し、なのだ。多くの人がわかっていたとしてもお節介はしない。部外者がよかれと思って声を掛けるとどうなるのかを皆知っているのだ。多くの場合、いや、ほとんどといっていい、それは火に油を注ぐことにしかならないのだ。
先日も常連のマキ姉さんが、後輩のサオリ姉さんにキレられていたのを見た。
旅館にも催事がある。旅館の一部を借りて高額な物品を売りに来ている会社があって、それは例えば一週間とか二週間という契約で、その間はこの町に滞在している会社の社員が五~六人いたりする場合もよくある。多いのは宝飾品、そして着物やスーツ、毛皮、などだ。
宝飾品を売る会社の男たちはスーツをぴしっと着てネクタイを締めていた。もちろんこの店にもミーティングや食事にやって来る。通りすがりのそういう人たちにはマスターも美登里さんも通り一遍の接客しかしない。
その中のひとりの男に、サオリ姉さんが入れ込んでいるのを知って、マキ姉さんが注意をしていたが、案の定キレてしまった。
「自分に来なかったからって、ひがまないでよっ」
(あああ…… サオリ姉さん、言っちゃった)
声を荒げたサオリ姉さんに、マキ姉さんはひどく落ち込んでいた。こんなにずっと仲良くしてきていたのに、どうして、わかってくれないの、あの子のことを思って言っているのにと、一人で店に来たときに泣きながらマスターと美登里さんに話を聞いてもらっているのを奈々恵は見ていた。
また別の日には、今度はサオリ姉さんがカウンターに座って美登里さん相手に楽しそうに喋っている。今度東京においでって言われたとか、一緒に来ないかって言われたんだとか、きっと彼が本気で考えてるから…っていう話だった。、美登里さんは、軽く相づちを打つ程度。非難も否定も、そして肯定もしない。
「あんたにもわかる時が来るって」
洗い物をしている奈々恵に、サオリ姉さんは続けて言った。
「ええなぁ。まだ高校一年か…なりたいものとかあるんか?」
「まだ、ですね……」
「あたし東京行くわぁ、行こ。そうしよう…… でもなぁ」
そういう話は時々聞いていた。他のお姉さんたちもそんな話をするのだ。日本中を旅しながら滞在しては物品を売っている会社の人たちがいる。彼らは日本中のあちらこちらで同じようなことをしているのだろうか。
彼らが店を畳んで居なくなってしばらくすると、夢見たお姉さんたちの多くは、またそれまでのことを忘れてしまったように次の夢を見る。その度ごとに借金が新たに出来たり、貯金が減ることもあるらしい。今回は何人かのお姉さんたちの手元には宝石が輝いていた。
「あの人じゃ無かっただけ。きっと今度こそは……」
お姉さんたちの夢に冷や水を浴びせてはいけない。奈々恵も少しずつ知っていく。
いつも一緒に寝起きをして食事も仕事も共にあるとしても、お姉さんたちは皆が「女の人」である。友情は儚い。夜になると顔が変わる人もいる。わかっていても「嘘」に乗っかってラクに明日の可能性の夢を見たい、早くこの生活から出て幸せになりたいのだと、とあるお姉さんが話しているのを聞いたこともある。
(ならば、他の方法の方が……)
奈々恵はそう思ったが、それはまだ背負うものが無い人の考えることだったということを後で知る。
この町で働いているということ自体がそうなのだ。どの人にも理由があり、事情がある。奈々恵の家だってそうだ。母は「お姉さん」を十年以上している。自分の家のの事情もよくわからないままここに居る。隠しているわけでは無いが、あえて店に来るお姉さんたちには言わなかったし、母も店には来なかったので知られることは少なかった。
人それぞれに理由がある。借金返済や夜逃げ、DVからの逃走、シングルマザーやシングルファザー、許されなかった二人が一緒になるためにこの町に逃げてきたという話もある。後々犯罪を犯して逃げていた人が温泉場で働いて潜り込んで逃げていたということがわかる場合もあった。ここは隠れ里でもあるのだ。
夢見ているのが全員というわけでは無い。昼も夜も変わらない人もいる。大金を貯めてこの町を出て行く人も居ないわけでは無い。五、六年に一人居るか居ないか、という程度だったけれど。そういう人にはどうしても果たしたい「目的」というものがあった。毎日の生活の中で、そういう人たちは流されるということをしない。いくら疲れていても日々使う金額は考えていて、しっかり締めるところは締めている。友達も作らないし、人の相談にも乗らない、飲みにもかないのだ。
夢見るお姉さんたちは、奈々恵から見ると特徴があった。「気前がいい」のだ。情に流されやすい、ほだされやすい。そういうお姉さんたちは、喜怒哀楽も激しい。言うこともやることもコロコロと変わるが、まるでその自覚が無いように見えた。
そうして時々、お姉さんは居なくなることもある。昨日まであんなに夢見ていたというのに、もう着物姿を見ることも無いし店に来ることも無い。奈々恵の目の前で起きていること自体が夢であって、お姉さんはこの町からようやく出ていくことが出来たのだと、そう思いたかった。
中身がどうであれ、それがどう見えていたとしても、恋する気分のお姉さんに何か言いたくなっても、それはよした方がいい。
江戸の末期に作られたという都々逸(どどいつ)に「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」というのがある。都々逸(どどいつ)とは、初代の都々逸坊扇歌という人によって作られた口語による七・七・七・五で作られる詩のこと。男女の色恋や三味線や琴、酒、タバコというのが、この町にはよく似合う。
お姉さんたちの多くは「白馬に乗った王子様」を待っていた。
でも黙っていよう。いつか夢が覚める時はやって来るから。それが本当に姉さんの未来を拓いていく出会いでは無いなら、どこかで本人が気が付く時は来るのだ。
いつか連れ出してくれる人が来る。いつか多くの女性の中から自分だけを望んで、その手を掴んで離さないで居てくれる人が現れる。そんな夢を見続けているように見えた。おそらく「恋」は、誤魔化しのためのもの。
サオリ姉さんはしばらく居なかったが、いつの間にかまたこの町でお姉さんをしていた。長めの休暇だったらしいと聞いた。そう言いながら美登里さんは苦笑いをしていた。
いつの間にか仲直りしたのだろうか。サオリ姉さんを心配していたマキ姉さんと変わらず食事にやって来るようになった。心なしかマキ姉さんは前よりも嬉しそうに見えた。
「奈々恵ちゃん。こんな人お手本にしたらあかんで」
「もう、やめてぇ。マキ
奈々恵は笑いながら、二人の定食に、こだわって選んでいるお漬け物増量で運んだ。
「お疲れ様です!」
「いやぁ、ありがとう! 美味しい漬物にご飯って最高や!」
「奈々恵ちゃんも上手になってきたなぁ。向いてるんちゃうか」
そんな風景を見て、美登里さんは嬉しそうに笑っていた。マスターは渋い顔してタバコを吸っていた。
やがてまた夜がやって来る。
酒と宴、歌声、嬌声が小さな町に広がる。誰もが欲しい「幸せ」という言葉を決して相手に向って口にすることの無い時間。それは今宵偶然のように出会った誰かへのアンダーメッセージとなって、大人達の嘘の時間が始まる。
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