第12話 蟹座温泉 湯の町哀歌②
「いらっしゃいませ」
美登里さんの声の後にすぐ、小走りに入って来たお姉さんたちが順々に注文を投げるように口にして、当り前のように続々と奥の席へと向っていく。
「生姜焼きね! ご飯大盛りで」
「わたし、カツ丼」
「ハンバーグ定食、で!」
「あ…、今日はカレーライスやな」
美登里さんはしっかりこれらを覚えて、奥の調理場でスタンバっているマスターに大きな声を張り上げて入った注文を届ける。すると奥からマスターが気合いが入った返事が聞こえて来る。一日で一番忙しい時間の始まりだ。奈々恵にとっては緊張でしか無い。一日に二度来ることもあるような常連さん達は、日替わり定食というところから外れて他の何かを注文することも多い。
「はい、生姜焼きね」
「はいー、カツ丼」
「ハンバーグ」
「カレーね、さぁて、いくよー」
奈々恵は急いでお冷やとおしぼりを人数分、お姉さんたちが座ったテーブルへと運ぶ。慣れてくると、氷が入ったお冷やと熱々に蒸された布おしぼりを直接渡したり、テーブルに置くのも早くなるが、奈々恵はまだお姉さんたちが顔を寄せて話をしている中で、ディフェンスされているかのようにお冷やとおしぼりをテーブルのそれぞれのお姉さんの前に置くのに右往左往して困っていた。
話に夢中なままな人も多い中で、時々妙に落ち着いて周囲を見ていたり、縁も無いようなアルバイトを気に掛けるお姉さんもいる。
「ありがとうな」
いつも奈々恵の顔を見てそう言うのは「ハルエさん」という二十代後半だろうお姉さんだ。もちろんその名前は本名では無くて、源氏名という仕事用の名前である。この町では名字で人を呼ぶことは多くない。仲居さん達はもちろんのこと、他の部署の人たちも下の名前で呼ばれたり、姉さん、兄さん、という呼び方になっていたりした。それが通用する町なのだ。年齢は関係無い。
ハルエさんのことは、黒目が大きくて細身で手足が長いので、奈々恵の中では「バンビ姉さん」と呼んでいた。テーブルに置く前に、手を伸ばして次々お冷やとおしぼりを受け取って、お姉さんたちの前に置いてくれる。
後に、遠い田舎にまだ学生の妹がいて仕送りをしているのだと美登里さんから聞いて知った。奈々恵に自分の妹を重ねて見ているのだろうと言う。それを裏付けるように、時々一人で店にやって来た時には「バンビ姉さん」は奈々恵に珍しいお菓子をくれたり、時には「何か好きな飲み物をあげて」と言って驕ってくれたりした。
「いえ、いいです、そんな」
そう言うと美登里さんは近寄って来て小さな声で対応の仕方を教えてくれた。
「その方がいいんだよ。ごちそうさまですって言うの」
そして言われたその通りに飲みたいものを選ぶというか、もう思い付きだ。
その後、ジュースを美登里さんが用意してくれて、また小声で言う。
「いただきまーすって、お姉さんに聞こえるように言えばいいのよ」
再び、その通りにする。ぎこちない。頑張って声をそちらの方に向けようとしてみる。
「オオレンジジュース、いただきまーす」
「はいよーっ」
奥に座っているバンビ姉さんの声がする。返事が帰ってきたことにドキッとした。嬉しそうな声が不思議だった。どうも自分は姉さんとやり取りをしたらしい。そしてカウンターの中でオレンジジュースを飲むのだが、最初の頃はなかなか喉を通らなかった。美登里さんは、いいのいいの、それでいいの、と言わんばかりに笑顔だった。時々運ばれてくるお菓子も、受けとっておきなさいと言われて受け取っていた。
注文した料理の準備が厨房で手際よく進んでいく。マスターは一人で色々な料理を作って、違う料理でもそのテーブルのお客様たちにうまいことほぼ同時に届くようにしていた。そのための準備として美登里さんは大活躍だ。
定食用の四角いお盆をカウンターの内側に横一列に並べる所から準備が始まる。箸を置く。漬物を小皿に用意してお盆に乗せていく。人数分の味噌汁の準備をする。大体の人数予想をして直前に作っておいた味噌汁を小鍋に移して温め直すのだ。わかめを入れて温まった味噌汁椀に注いでから刻んであるネギを乗せる。そしてお盆にのせていく。
完全な作り置きでは無いから手間は掛かるが、出来るだけ作り立てというのを店では出したいらしい。そこはマスターも美登里さんも考えが同じだった。
「そろそろいくよー」
その声が聞こえて来たら、ご飯をお茶碗に多めに盛る。これも料理が出来上がるギリギリにという決まりになっている。冷めないように。
順番に続々出来上がった料理が出てくる。
カレーライスはご飯を持った皿をタイミングを見て厨房側の台の上に置く。連係プレイを見せられてはため息を付く。
カツ丼は丼にご飯を盛って、やはり厨房側へ。やがて半熟玉子で綴じられたカツがご飯の上に乗って戻ってくる。それをお盆にのせて、セットが出来上がった順に、カウンターの外側からお盆を盛って運んでいく。これらをひとつずつ見ながら覚えていくのも奈々恵の仕事だった。
段取り、タイミング、狭いカウンターの中でのムダの無い動きは集中するほどうまくいく。奈々恵は出来上がった料理がセットされたお盆を運ぶことから始まって、徐々に様々な作業を覚えていった。
バンビ姉さんは、いつの間にかこの店の新しいアルバイトが高校一年生であるということを聞いたらしい。話すのは美登里さんに違いない。遠い田舎の妹は、度々姉に電話や手紙を送ってくるような状態では無いらしい。どのような事情があるのかわからなかったが、美登里さんは時々バンビ姉さんに定食の漬物大盛りとか種類を増やすなどのサービスをしていた。きっと美登里さんは他の何かを知っているのだろう。
「今日の漬物は増量だよ。菜っ葉の新しいの入ったからどうかな。食べてみて。ご飯も好きなだけお代わりしてね」
「あ、りがとうっ! 頑張るわ、今日も」
知る限り、バンビ姉さんはいつも元気で、奈々恵には優しかった。
ハルエさんは脳内でカタカナだけど、でも「バンビ姉さんで晴れてる姉さんのハルエさん」なのだ。いつも生姜焼き定食、時々日替わり定食。食後には、アメリカン、ノンシュガー、ノンミルクの熱々のブラックで。それは皆で来る時も一人で来る時もそう。もちろんコーヒーチケットの常連さんだ。
食事の後、コーヒーで一服して、よいしょと立ち上がり支払いを終わらせる。
「ちょっと寝てくるわぁ。寝不足も溜まるとつらいねぇ。じゃぁ、おやすみぃ」
元気にそう言って手を挙げて、バンビ姉さんは店から寮へと帰っていった。
奈々恵が片付けに、銀のステンレスのトレーと布巾を手にテーブルに向うと、飲み終わった白いコーヒーカップの横に灰皿があった。
(バンビ姉さん、吸うんだっけ……)
そこには吸い殻が三つ。それはどれも三分の二ほど吸われた状態で、口紅の付いたタバコの先はどれもぐにゃっと潰されていた。
笑顔の奥にはきっと知らないことがある。奈々恵はその灰皿を持ち上げながら吸い殻に向って小さく言った。
「バンビ姉さん、いつもありがとう。ごちそうさまです」
背後で店のドアが開く。また次のお客様がやって来る。
「いらっしゃいませー。宇津木さん」
テーブルを吹き上げて、季節のメニューのお知らせや灰皿をセットする。次へのお客様が座るためのリセットが完了する。次の新しいスタートを作り出すのだ。何度かやっているうちに、それは自分がちょっとお気に入りの仕事だってことがわかった。背後で、美登里さんの元気な声が聞こえた。
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