第11話 蟹座温泉 湯の町哀歌①
わかってはいても、お姉さんたちは恋をする。
それがどんなに掴み所が無いものであろうと、例えそれが嘘だとわかっていても、短い夢に手を出す。奈々恵は早い間にそれを知った。
この町で言う「お姉さん」たちというのは、旅館に勤める仲居さん達のことだ。
喫茶&ラウンジ「
自分が担当している宿泊客の全てがチェックアウトして居なくなると、そこからが仲居さんであるお姉さん達の休憩時間となる。夕方の次の宿泊客がやってくるチェックインの時間になるまでが休憩ということで、それぞれ担当の部屋と内容が決まると、それぞれのお客さんが到着するまでの間に自分の用事をしたり休んだりするのだ。食事もその時間内に取ることになる。
働く仲居さん達の年齢も幅広い。十代後半~七十代という幅の広さである。長年働いている人は自宅や寮に帰って睡眠を確保すると言う人が多い。何しろ夕方のチェックインの後は最後まで休み時間は無いのだ。
フロントでチェックインの際に担当の着物姿の仲居さんが、お客様が旅館の玄関を入って来るのを待って出迎えるところから旅館の午後は始まる。各部屋まで担当の仲居さんが案内をする。部屋に案内し、トイレ、バス、金庫、大浴場など一通りの説明をし終えると一旦部屋から出て消えるが、すぐにいい案配で戻ってきて、今度は目の前でお茶を淹れて、お茶菓子を添えて出しながら、宿帳を書いてもらう流れになる。しかしこの宿帳も一応のものであって、書かれる名前や住所などの内容も本当のこととは限らないが、一応なのである。お忍びの旅のお客さまも少なくないので、多くのことは聞かないことになっている。
お茶を出して、少し話をしながら、夕食の内容や時間の確認をする。苦手な食材やアレルギーの確認はもちろん必要だが、食事会場が宿泊する部屋とは別になっている場合や、広間という大人数対応の宴会場でという場合もあるし、個別の部屋出しという場合もあって、全て対応が違うため毎日の大変な作業のひとつとなっている。料理も当地方の焼き物のお皿に乗るのでどれもこれも重たい。数多く出て行くビールやお酒も重たい。誰に聞いても重労働だという声が聞こえてくる。
食事や大浴場にお客様が行っている間に、分刻みで各部屋に布団を用意して敷いていく。毎日毎日布団が敷かれる数も多いわけだが、これも仲居さんがやっている場合もあれば、布団敷きのアルバイトの人もいる。夜間に飲むかもしれない氷水をポットに入れて用意するのが終わると、仲居さんの仕事もその日の終わりが見えてくる。
それ以後も仕事を続ける仲居さんは、担当したお客様と、旅館内のラウンジ、カラオケ、飲み屋、食事処などに一緒に行く約束をした場合である。時にお好み焼きや焼き肉、ラーメンを食べに旅館の外に案内する場合もある。仲居さんはお客さんに驕ってもらう形となる。
羽振りのいい時代というのがあった。大きくお金を使って落としていくお客様が多い時代があったのだ。その頃は、外に食事に行く際には何人もの仲居さんを引き連れてハシゴをし、飲んで騒いで、そして仲居さん達に出来たての料理をお土産も持たせていたりしていた。しかし、次の日の早朝には朝ご飯を出す仕事が待っているので、遅くなるほど眠る時間が削られていく。若い間は飲み歩く人も多いが、歳を重ねるほどに若い人たちにそういうところを任せて、早く休むために寮や自宅へと帰っていく人が多くなる。
何しろ次の日の朝のご飯というのは、早い人も多い。六時、六時半というのも当り前であった。お膳の用意から、朝からいくつもの器に料理が用意され、目の前で燃料に火をつけて煮炊きするものや、味噌汁など熱いものは熱いようにして朝食を出す必要がある。水の綺麗なこの町では朝食に出される湯豆腐も人気の一つだ。調理場の人たちは、さらに早く来て準備をしている。
何度もこの温泉にやって来るお客様といつの間にか付合っていると思い込む、そんなお姉さんたちも少なくは無かった。日本全国からやって来る男性客たちにはしかし帰るところがあるという人が多かった。時折やって来るということは常だったが、彼女たちをこの町から永遠に連れ出してそのまま、というような王子様は残念だがいなかった。
こんな所に居るのはイヤだイヤだと言いながら、ようやく出て行くことが出来たというのに、いつの間にか帰ってきてしまう人も多くいた。「来てはいけない」と言っていたのに、そう言っていたお姉さんたちはほどなくしてこの町に戻ってくる。そしてお姉さんたちは、何処で何をしていたのかを話すこと無く、なぜかまた次の夢を見ることを手離さない。
「だから、他では働けんようになるんやってばぁ」
そんな声も多かった。
この土地に閉じ込められて出られなくなる、ということでも無いらしい。自分で帰ってきてしまうのだから。それなのに「牢獄」とも「地獄」とも呼ぶ。土地そのものに閉じ込められるよりも、もっと大きく怖いことなのかもしれなかった。取り返しの付かないような、他の何かを選べなくなってしまうような…
それがなんなのか、奈々恵にはまだわからなかった。
旅館という場所では、多くの人たちが長い時間働いている。眠るかのようにひっそりとする時間はほんのわずかである。過酷とも言えるような職場で何故働く人がこうも多いのか、不思議なことだがそれぞれにそれぞれの理由や事情があるのだ。それを知っている人ほど、他人のことを詮索しない。相手が口を開いて何かを言い出すまではお互い知らない顔をしている。旅館という現場で何があっても、何が見えても。
そんな忙しい毎日の中にあっても、休みが十日に一回しかないような日々が続いていても、お姉さんたちの多くは恋をしていた。この場合の「恋」には年齢は関係無い。いくつでもいくつになっても「女」は「女」であることを誇示していた。それはこの町特有のことなのかもしれないが、八十になろうかという人もそうだった。
この町ではいくつなったとしても旅館で働いている仲居さんのことを「お姉さん」と呼んでいた。この仕事から足を洗って卒業したとしても、町で出会えば「お姉さん、元気?」であるからして、結果的にはこの町に居る以上は「お姉さん」として生涯現役ということになる。この温泉場では、たくさんの物語が日々生まれている。
休憩時間になると、若い十代二十代の人たちは集って近所に食事に出かけることも多い。お姉さんたちはいつだって話すことがたくさんあるのだから。
「路々」にもそういった「お姉さん」たちがそれぞれの仲の良い人と待ち合わせて食事をし、そして寸暇を惜しんでお喋りをするために日々通っていた。
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