第10話 喫茶&ラウンジ「路々」②

 カウンターに座っている固いままの表情の二人連れは、マスターの淹れたいつも通りの濃いめの熱いコーヒーをゆっくり飲んでいた。それぞれが横を向くことが無い。二人とも前を向いて黙ってコーヒーを飲んでいた。この二人は毎日同じ時間に来る。


 マスターの傍らには、出勤したばかりの美登里さんがいた。彼女はこの店に長く居る日中のアルバイトの女性で四十代後半。ランチタイムの忙しい時間に間に合うように出勤して十六時には帰る、忙しい時間だけいる人だ。


「あとは美登里さんに教えてもらって」


 マスターはいつものようにそう言うと、奥の調理場へと消えていった。


 美登里さんはハッキリした性格の主婦で、良く動く人だった。この温泉場の人とは違い夜の匂いのしない会社員風の人で、この店で働いていること自体が不思議だったが、一般のサラリーマン家庭の主婦ということらしかった。面倒見も良かったが性格はキツかった。ズバズバものが言える性格が、逆にこの職場には向いているようにも見えた。


 美登里さんの横に付いた見習いの奈々恵は、その時十五歳。高校生としての初めての長期アルバイトだった。学校では通常はアルバイトは禁止となっていたが、特別な理由がある場合には申請の上で生活指導の先生が許可した場合のみ可能とする、ということだったため、申請書に記入して申し出た。「家計の為」というまことしやかなアルバイトをしなければならない理由を演じて手に入れた許可だったが、夜の時間にはお酒の出るラウンジになるということは説明しなかったし、当然だがカウンターの背後にはたくさんのお酒が並んでいるなんていうことは申請書に書きもしなかった。


 ここでアルバイトをしなければならない理由は無かったが、奈々恵は早くに社会に出たかった。勤めればいいというわけではなく、社会の底辺の動きを知りたかったという方が大きい。わざと苦手な世界へと自分の背中を無理に押す形で、このバイト先も探して、自分で決めた。普通の環境ではいけない気がしたのだ。むしろ苦手な、謎だと思って来た世界に近いところに行くことで、自分のまだ知らない重要なことの何かがわかるかもしれないと考えた。

 自分の家だけという環境では、知らないことが多くあり過ぎることを自覚していたために、何処に行っても仕事していけるし食べていける自分を用意したかったというのもある。それ以上に自分で自分のことを考えた時、今のままでは無理だ、世の中も人の間も渡っていけないし難しいと無性にそう思えていた。当時の自分としては随分思い切った行動だったが、一番若い時に一番イヤな仕事にワザと縁して少しの間でも自分を鍛えたかった。



 高校一年生ということで面接では驚かれたが、話しているうちにマスターが奈々恵に言い出したことがあった。この店に採用された流れである。


「お父さんのこと、よく知ってるよ」


「えっ」


「お母さんのことはもちろん知ってるけど。お父さんには大変な迷惑を掛けたことがあってね。申し訳ないことをしたんだけど、ちゃんとその後のことは出来てないんだよ。ずっと会ってない」


「は、はい?」


「何にも知らないで来たんでしょ、ここに」


「はい、何も」


「うーん。こちらからお願いします。働いてください。ご縁やね。お願いします」


 面接に行って逆に大きな身体の強面のおじさんから頭を下げられてしまい、そんな流れであっという間にアルバイトは採用となった。

 日曜の十時~十七時。春休み、夏休みなど学校が休みの時には平日も週四~五日プラス。

 休憩は一時間。お昼の賄い付き。日替わりおやつ付き。服装は自由。

 注意事項は、日中とはいえ場所が場所名だけにお客さんには酔っぱらいもいる、それなりに出会うこと。ランチの準備をメインの料理以外のことは美登里さんに教わって完全に覚えて一人で出来るようになること、などである。


 高校そのものには入学してすぐにクラスが振り分けられ、勝手に進学クラスに入れられていた。同級生のどの人と話しても、先生と話をしても新しいことも無く、もう飽きていたので、他にすることを探していた奈々恵にとっては「こっちの方が人が生きて居る現場」に思えた。学校の時間は退屈で長く、不要なものにさえ思えてしまっていた。そこで何かが出来るとは思えなかった。


 中学の頃から続けていた占星術の勉強は少しずつだが続いていた。書店に寄っては立ち読みしていたり、小遣いを貯めて手に入れた書籍からの勉強と、あとは独学である。手描き計算の出生図(ホロスコープ)を描くのだが、何度も何度も間違えては描き直し、何度読もうとしてもなぜか覚えられず、意味がわからないことだらけだったが、質問できる相手は居なかった。それなのに完全に離れるということは無かった。


 占星術や不思議な世界のことは好きだったが、それらは現実を生きていくためには役に立たない。いつかは役に立つかもしれないが、今ではないと思っていた。理由も無く十年以上先のことになるだろうと予測していた。そして今は、もっと生活に近いところのこと、具体的なことを自分は早く知った方がいいと思ったことが、アルバイトへのきっかけだった。



 バイト初日からカウンターの中に入って、美登里さんに教わりながらお客さんにおしぼりとお冷やと呼ぶ水を出すところから始まった。この町を出て行くための始まりに思えた。


「いらっしゃいませ」


 常連さんかどうかを早く覚えなければならない。ほぼ毎日やって来るため、コーヒーチケットという回数券を先に買ってくれている人たちだからだ。十枚綴りのチケットは九杯分の金額で十杯飲むことが出来る。一杯無料になる。チケットはホットコーヒーやアイスコーヒー、紅茶などがオーダーできるが、だいたいの常連さんは「いつもの」を頼むことが多い。中には何も言わずにただ座って「いつもの」が出てくるのを待っている人もいる。何を頼むのか聞こうものならキレられる、という気配があって聞くに聞けない。


 コーヒーチケットも壁に吊してある状態が多い。名前が書かれていて、来た時には店側がチケットを点線から切り離す。お客さんが持って帰るのでは無く、店側が常に預かっているのだ。壁にはたくさんのチケットが吊されているので、名前と顔をセットで覚えなければならない。いきなりかなりのハードルの高さだった。


 そこで思い出す。奈々恵には人の顔がどの人も同じか、あまり違わないよく似た顔に見えてしまうのだ。子供の頃から人の顔の違いがわかりにくい。なので覚えられない。それが理由でちょっとしたトラブルは起きやすかった。よりによって、考えもしなかったところでのピンチである。

 簡単に覚えられないのは当然だという美登里さんのおかげで、時間的にはゆっくりと覚えていくことが出来た。工夫をしなければ時間がいくらあっても難しいため、困っていた時、常連さんの一人が動物の動きに見えたところから思わぬヒントはやって来た。


 いつも開店と同時に店に入ってくるおじさんは太い黒縁の眼鏡を掛けていて、カウンターの一番奥に座る。いつも首を傾けて新聞を長い時間をかけて読んでいる。このお客さんはやがて笹田さんではなく「悩める眼鏡のパンダさん」の「笹田さん」となった。奈々恵の命名であるが、それは誰も知らない。内緒である。コーヒーチケットの常連さんを覚えた最初のお客さんである。


 パンダさんはホットコーヒー。ミルクあり。時々二杯目を頼む。二杯目も同じホット。喋ることもほとんど無く、ひたすらに新聞をゆっくりと読んでは首を傾けて何かを考えている様子。それが奈々恵にはコーヒーを飲む「悩めるパンダ」に見えた。首を傾げてコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる笹田さんは、何かの会社の社長さんらしい。それを知った日から「悩めるパンダ社長」の「笹田さん」になった。


 奈々恵はこの町をもっとよく知ることで、この町で生きて生活している人たちのことをさらに知ることで、何かに名残ること無く、いつかここを離れていけるような気がしていた。そのためにもこのアルバイトは学校よりも重要だった。


 




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