第9話 喫茶&ラウンジ「路々」①
「いらっしゃい」
マスターの低い声にいつものように返事をしないままの客が入って来た。
毎日その人は同じ時間にやってくるらしい。一人では無い。二人連れである。いつもの二人は変わること無く表情は固かった。
今日最初のコーヒーを淹れている。マスターは、ネルドリップ方式を好んでいた。
コーヒー豆の缶を取り出して、人数分のコーヒーの豆を挽く。準備が出来ると、ゆっくりと湯を注ぎ、粉になったコーヒー豆の中央が膨らむのをしばらく待つ。
店内には今入って来た二人よりも先に男性が二人いた。店内は静かで、誰も喋らない。マスターの仕事を待っている。やがて店内中に広がっていく香ばしい匂いに、待ってましたと言わんばかりにどの人も小さく深呼吸をする。ここに来るそれぞれの人の一日の始まりだ。
マスターはコーヒーの淹れ方のひとつずつの手順をアルバイトの奈々恵に実際を見せながらカウンターの中で教えていた。強面の鬼瓦のようにも見えるマスターはごま塩状態の白髪頭で、この町では昔から結構怖がられている人らしい。そんな噂を聞いた。店にいる時の姿しか知らないが、白い調理人用の服に腰に巻く白いエプロンという格好をいつもしている。
奈々恵は教えられたことを忘れると思い、用意していた小さめのメモに手順やコーヒーの量などをマスターがいなくなってから急いで書き込んでいた。
アルバイト初日からずっと奈々恵は、ストレートのジーンズにTシャツという簡単な姿でカウンターに立つことが許されていた。もうすぐこのバイトも一週間になる頃だった。
そこはとある老舗温泉旅館の程近くの、飲泉街の一角にある喫茶店。昼間は喫茶風、夜はラウンジと言った方が近いだろう。
この店は十時頃に開店し夕方までが、マスターが担当している喫茶の時間である。ランチを平日週末関係無く夕方まで長い時間提供していて、それが人気だ。洋食屋のようにハンバーグステーキ、生姜焼き、チキンステーキ、ヒレカツ、日替わりまど全てが定食仕様である。さらに人気なのがナポリタン、カレーライス、オムライスと続く。マスターが元々から調理人であったことで日中からかなりの人気の店だった。奈々恵も母の仕事の合間に用事で呼び出されて、何度か一緒にここで昼ご飯を食べたことがあった。奈々恵の母はこの近くの旅館で仲居として働いていた。
ダウンライトに切り換える頃になると、マスターは仕事を終えて自宅へと帰っていく。今度はママが奥にある自宅から出て来て、朝方まで接客をする、お酒の時間である。マスターとママは長年連れ添った夫婦。もう六十代になろうかという二人とアルバイト数人で、この店を回していた。店は「
店は、玄関から入ってすぐの場所に濃い茶色の長いカウンターがあって六人ほどが座れる。奥には小と中のテーブルと椅子があって十五人ほどが入れる。長細い形の店の一番奥には大きな全面窓ガラスがあった。そこから採光していて、昼間の明るさが店全体に差し込んで入って来ていて、電気を点けなくてもちょうど良かった。
昭和の時代の温泉場の喫茶兼ラウンジというと、出口の無いような洞穴のようなところを思い描いてしまいがちだが、この店は穴蔵のような場所では無く、外の緑を眺めることの出来る、息が出来る喫茶兼ラウンジだった。それだからか、開店した途端にお客さんが待ってましたと言わんばかりにやって来る。男性の場合には一人客が多く、必ず新聞を座席に持っていって小一時間ほど読み続けている、という風景があった。
遅いモーニング、といったところだろうか。二人連れのお客はコーヒーが出されるのをいつものカウンターに座って待っていた。一人は若い女性で浴衣のような着物を着ている。もう一人は五十代に見えるおじさんで、ノーネクタイでごく普通の格好をしていたが、普通の仕事で無いことは誰が見てもわかった。静かにしてはいるが、この男の方はどこかしら気配が冷たく感じるのだ。そして常連さん達はこの二人が何者なのかを知っている。そして話し掛けたりしない。二人は夫婦では無さそうだ。
ここはとある寒い地方にある温泉街である。
冬にはぐんと雪が深くなる。春と夏が短く感じられる地域だった。雪解けの山からの水の綺麗さと、海も近いため新鮮な魚介類が毎日抱負に獲れるということで人気の場所だった。中でも蟹は身が詰まっていて美味しいので評判である。さらに米の産地としても知られていたし、地粉で作ったうどんや蕎麦が人気の土地でもあった。飲むものも食べるものも美味い。水の良い綺麗な地域で作られた酒は格別旨いとあって、この温泉場には年中日本各地から、特に東京方面からのお金持ちの客が多く来ていた。気に入った場合には滞在といって、数日間泊まっていく人もいた。
特に寒い季節には雪に覆われて全てが止まってしまうような一面真っ白になる時が来る。そんな時には車も電車もあてにならない。往来は簡単では無くなる。町も静かにひっそりとする。皆が館内で過ごす。そんなこの地のことを、人によってはまたとない秘境と呼んで何度も通っている者もいた。また別の人は決して抜け出ることの出来ない蟻地獄か牢獄か、と呼んでいた。その呼び名の通りなのか、奈々恵はこの町で、この町を出ること無く旅立っていった人たちをすでに何人も見てきていた。
「ここには来てはいけない」
「来たら、もう、どこにも行けなくなるから……」
この町で働く女性たちは、お酒が過ぎるそんな日には、そう言っていた。
小学校に入学する直前にこの町に連れられてやって来た奈々恵は、いつしかこの町をいつか必ず出て行く、そう思うようになっていた。ここにはおそらく自分の先も終わりも無いだろう。そもそも自分が住み続ける場所では無いと思っていた。だからといってアテがあるわけでは無かった。いやむしろ、何処にも無いのだ。それでも最後まではここに居ない、そう思っていた。
「来てはいけないって……でも、なぜか来ちゃったんだよ。これが」
自分がこの土地にやって来た理由があるはずだと思った。母と父の二人の都合とか理由では無い。それはどうでもよかった。
知りたいのは、自分がここにいなければならない、居る必要のある理由だ。ここにいる間に知る必要があることがきっとあるのだろうと思えた。それが何なのかを知るためには、まずは何時かはここから出て行かなければいけないだろう… そう思っていた。自分でもよくわからない、意味不明だった。
(ここはいったい…… 本当に、豊かな地と呼ぶのだろうか)
大気汚染の無い空気と雪解け水は美味しいけれど。
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