第6話 契約の終わり、その約束の日まで③

「鬼ごっこ……」


 奈々恵は自分が三歳だった頃のことを思い出していた。ある日突然その土地から消えるまで、数年間はそこに居た記憶がある。近畿地方のとある場所、そこに来る前のことは思い出せない。大阪に居たらしいことは後に父親から聞いた。


 そこはアパートの二階だった。ほとんどは母と二人だったように思う。出張と言っていたようだが、二ヶ月に一回という程度で、父がやって来たという方が合っている。帰って来たというよりやって来た、という方が近かった。「おいしいものを持ってきてくれる優しいおじさん」だと思っていた。

 このおじさんが来る時には母は天使のように優しく、そして綺麗になる。おじさんが居なくなってからは、段々と怖い人になる。だから嫌いだった。


 アパートには子供が多かった。一緒に遊ぶ友達もすぐに出来た。とはいえ三歳なので、付いて歩くとか、向こうが遊んでくれるということだったかと思うが、それでも毎日同じ顔を見て、声を掛け合って、子供たちの多くは喜怒哀楽がハッキリしていて元気だった。いつも相手をしてくれる、面倒見のいい小学生のお兄ちゃんがいた。


 その環境の中に居て体験したことは、地球の人の持っている主体性の無い奇妙さと出会う、その始まりだったのかもしれない。


 奈々恵には変な記憶が気が付いた頃から当り前にあった。ここという場所が「仮の場所」であることを実感していたのだ。説明は出来なかった。だからもしかすると、自分が経験によって痛みすぎていて、そう思ってしまうという状態なのでは無いかと、何度も何度も自分の病を疑って、それについて考え続けていた。


 目の前で起きることが遠かった。一枚フィルターがあるかのように遮られている気がしていた。直接触れないことは重要そうだった。

 相手側からすると、それは見えないし感じられないことだったと思われる。何かが他の人と違うな、という印象は持たれることが多かった。 子供たちの間でもそれはわかることらしい。


 アパ-トに住んでいる子供たちは赤ちゃん、三歳程度、低学年と高学年の小学生の男女がいた。当り前だが、鬼ごっこという遊びは時々行われていた。それはこのアパートに住む二人姉妹が好んで選んでいた遊びだったらしい。奈々恵は三歳ほどで、やっと自分で好きな方向へと動けるようになった頃で、それは初めてといっていい社会参加である。それは記憶から消えることの無い鬼ごっこになった。


 あの姉妹からすると外からやってくる鬼がいる。鬼に捕まってしまうと自分も鬼になってしまう。自分たちが用意した陣地にさえ入れば、もう鬼に捕まることは無い。だから安心だよ。誰にとってもその方がいいでしょ。ということだった。


 その陣地の入口には関所があった。誰でもが入れるわけでは無い。関所に設けられたものを受け入れるかどうかが試される。受け入れるなら陣地に入っていいのだという。入ってしまえばもうそこには鬼などやって来ない、狙われることもない。だから安全な場所だという。陣地があって良かったね、良かったでしょ、ということになっている。陣地を用意した存在の側は一段高い所に居るようで、頭を下げるかのように関所に人が並ぶ。


 入口で用意されたものを受け入れないと決めた者は、当然だが陣地には入ることは出来ない。「鬼に食われてしまいなさい」ということなのだ。それは陣地側からすると気の毒なことで、可哀相なことのようだった。


 やって来た子供は陣地に入ろうとし、後のものも続いていたのを見ていた。そこで起きていたことも見ていた。見ろとも言われた。姉妹はお手本だと言って数分間の手順を見せていった。小学四年生の姉と小学三年生の姉妹だった。


 棚か何かを置いてあって一段二段高くなっているような場所だった。アパートの二階の奥の方はあまり人が来ない場所で、その一番上に姉は座って建物の壁を背にしている。そこで下着を脱いで露わになった部分を来る人に見せつけていた。妹が陣地にやって来る子供ひとりずつに手順を教えている。妹がお手本を見せてから交代し、陣地に入りたいという子が真似をし始める。順番待ちには男の子も女の子もいる。


「さぁ。鬼から助かる」


 たぶん姉はそう言った。

 姉がもういいよと言うか、声を上げて脱力するまでそれは続けられなければならなかった。


「知らないの? 楽しいんだよ」


 姉を背中にして妹はそう子供たちひとりずつに教えていた。


 次は姉と交代して妹の番らしい。順番待ちの一人の子供にそう言っていた。姉が今度は周囲の警戒をする。命令されているわけでは無いはずなのに、誰もが言うとおりにしていた。流れているのか流されているのか、不思議な風景に見えていた。


 奈々恵はその陣地の入口でその風景を受け入れるということをしなかった。身体全身で逃げたというか、身体を反らしたような形で示した。流れに逆らったのだ。相手側からすれば拒否をした存在となったわけである。

 陣地には入れないが、何の価値も感じることが無かった。姉妹は怒っていた。言うことを聞くように説得していたように思えたが意味がわからなかった。「鬼から逃げなさい」「ここは安全だから」って言っていたような気がする。


(おに……は、どこ)


 自分からその場を離れて、言われていることとは逆に鬼の居るだろう方へと移動をし始めた。その時、元気な鬼がやって来た。その声に子供は反応して逃げようとする。すると陣地の番人は澄ました顔をして座ったまま、スカートの裾を動かしながら鬼をも誘う。


「陣地に入りたいか?」


 鬼の少年は小学五年生だった。よく覚えていないが、少年は奈々恵の腕を捕まえて自分の方へ引き寄せた。


「あっちへ、行こう」


 少年はそう言って、陣地の番人たち姉妹に背を向けた。怒っている。

 その後のことは覚えていない。



 この一件は奈々恵の中で大きな問題として、その後十五年以上残り続けていた。男を考え女を考え、人間を考えた。


 鬼ごっこをしている姉妹の側からすると、自分たちを受け入れた人以外は鬼だったのだろう。追いかける方が鬼なら、実は逃げる方も鬼だった。

 あの姉妹は大人達の真似をしていたのだろうと思われる。身体的な快楽そのものもあったのだろう。姉妹の両親のことや環境はわからなかったが、後年考えるに、なかなかの環境の中に居たのではないかと思われた。姉妹は第一世代の鬼では無いと思われる。きっと連鎖しているのだ。何かが……

 簡単手続きで「安心、安全」という、そういう上手い話には気を付けた方がいい。違う世界に住む者は、時にお互いが相容れない鬼なのだと思った。


 姉妹たちはそう時間を置かずに引っ越していった。奈々恵の知らないところでどうも大事になったようだった。一つの事件として。

 あの時以後、そのアパートで鬼ごっこをするものはいなくなった。



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