第5話 契約の終わり、その約束の日まで②

 彼女は空中に向ってそう言ったのだ。


「それから時々、今も」


 表情は見えなかった。彼女の横顔を見たまま、それを聞いていた。彼女はぽつりぽつりと喋り続けた。彼女は雪乃ゆきのという名だった。


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 ある日の晩、とはいってもまだそんなに遅い時間ではなかった。

 物音で目覚めた時に、薄く目を開けて見ると、ベッドの横に人が立っていた。部屋のドアが開く音がしたのだ。足音らしき音が洋服のすれる音と一緒に聞こえて来た。近付いてくる。兄だと思った。そのまましばらく眠ったふりをしていたが、部屋の中にあるゲームか何かを取りに来たわけでも無さそうだった。

 カーテンの隙間かたほんの少し外の明るさが入って来ている。その明かるさを頼りに様子をうかがっていた。静かだった。その明るさから浮かび上がっている影は、そんなに大きくは無かった。この時間は、そもそも兄しか居ないだろう。

 両親ともに別々に朝方帰って来るような人たちだった。母は小さなカウンターだけの飲み屋をやっていた。父は三十人ほど入るような飲み屋をやっていた。

 寝たふりを続けていた。身体を動かさずにじっと息を殺すようにしていた。やがて音がしたと思ったら、 兄は静かに部屋から出て行った。戻っては来なかった。


 数日後にまた同じことがあった。

 兄がベッドの横に立っている時間はわからなかったが、五分、くらいに思えた。

 何度か同じことが続いた後、兄はタオルケットを掛け直してから出て行った。

 数日ごとの間隔だったが、やがてそれは増えていった。


 日中には普通の会話をしている兄妹だった。自分的には、ということではあるが、両親不在の中で小さな頃から二人で一緒に居ることが多かった。


 小学校二年生の時に出来た友達がいた。わりと近所だった。学校へ行く道すがらその子の家の前を毎日通っていた。お互いそれがわかっってから仲良くなるのは早かった。七歳の頃のこと。

 二人でよく遊んだが、よく兄が探しに来た。いつも機嫌が悪かった。


「来いって。父さんが店を手伝えって」


 兄はそう言って迎えに来た。断ることは出来なくて一緒に父親の店に行く。兄も自分もゴミ拾いや掃除、洗い物など出来そうなことをやらされていた。自分が望んでやってはいなかったので、兄も嫌々しょうが無くやらされているのだと思っていた。

 従業員の女性も男性も居たが、主に開店後に働く人たちで、閉店後の午後から夜の入口までの準備中の時間にはアルバイトを一人か時に二人雇っていた。父親は主に仕込みをして、夜の開店準備をしている。子供たちが手伝えばアルバイト代が掛からなくて済むのだ。嫌々ながらも兄はてきぱきと動いていたように見えた。


 それが終わると帰っていいと言われる。二人で一緒に帰る時もあるし、兄が用事を頼まれて先に店を出てそのまま帰るということもあった。


 晩ご飯は自宅で二人で食べていた。パンだったり、おにぎりだったり。兄は料理に興味があるようで、小学校四年生になると火を使って料理をし始めた。目玉焼きやハム、ソーセージが焼かれて出てくるようになった。


 母親代わりとでも言うのだろうか。兄が居てくれるおかげで困らないことがたくさんあった。見えていない、気が付いていないところで兄は家のことを黙ってしていたのだろう。家の中も両親が何もしないわりには荒れてはいなかったのだ。


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 雪乃ゆきのは、どうにもならないんだと言った。

 なぜ?

 そう思った。そんなわけ無い、そう思った。何とかなるはずだ、ならないわけが無い、そう思った。けれど、声にはならなかった。言えなかった。


「どうして…… どうしてそれを……」


 どうしてそれを自分に話したのかと言いたかったのだ。だが、途中で止まってしまった。そんなことどうでもいいことに思えてきたからだ。

 それを察した彼女は言った。


「聴いてくれる、そう思ったから」


 返事に困ってしまった。自分は聴いているのだろうか。そんなことはない。彼女の昨日までの笑顔に不信感とも言えるようなものを感じてしまっている自分がいるのだ。彼女は悪くないのに、被害者だというのに、自分はその彼女になんとも言えない気持ちを持ってしまったのだ。自分とは同じじゃ無いってことがとても大きく感じられた。だから話を聴いていない。聴けてなどいない。聞いてはいる。どうしたらいいのかわからなかった。


「まだ、働けないしね」


「えっ」


「家、出て行っても」


「あ、そう、そうだね」


「うん」


「でも……」


「でも?」


「でも、なんとか、何とかならないのかな…」


「ならないよ」


「え……でも……」


「そーいうもんでしょ」


 そう言って、彼女は薄く笑った。その笑顔に違和感を感じたが、それがどういうことなのか説明出来ない感情だった。到底笑えない自分がいた。

 その話は途切れたが、二人並んで土手で流れる水を眺めながら、その日はいつもより長く一緒に風に吹かれていた。


 今は十三歳だとして、兄という存在は十八歳。

 当時は十歳と十五歳。

 今までに会ったこともある、喋ったという記憶は無い。



 話は続いた。


 その日のその後、家に帰ってもいつものように一人だったので、やはりいつものようにインスタントコーヒーをマグカップに入れて保温ポットのお湯を入れた。これは飲むというより嗅ぐ為に入れていると言ってもいい。幼い頃からの喘息の発作の中で見つけた方法の一つ。上がるコーヒーの蒸気を吸い込むこと、そして匂いも一緒に飲むことで、気道が広がっていくのだ。体験上そう思ったということであって、正しいかどうかはわからないし、調べるつもりも無かった。ただ実際呼吸がラクになっていくのだ。けれどいつもとは違っていた。


 マグカップに顔を近付け、コーヒーの匂いを嗅ぎながら奈々恵は考え続けていた。それだけが今出来ることのような気がしたのだ。呼吸に意識を向ける。これまで人間が痛む話ばかりを沢山聞いてきた、見てきた気がする。


(どうしてここには……この手の話が多いんだろう……)


 ここ、とは、自分のみの周りのことだが、違うのかもしれない。この町全体なのかもしれない。いや、この市とか県なのかもしれない。自分にはそれを確かめる方法がわからなかった。ただ、幼い頃からこの手の話には縁があることは事実だった。そういう意味では、奈々恵は驚いてなどいないのだ。


 いくつもの似ている話を思い出しているうちに、やがて、さらにずっと前のことを思い出していた。


「あれは……鬼ごっこ、だった」


 

 

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