第4話 契約の終わり、その約束の日まで①

 彼女は泣いていた。

 少なくとも泣いていたように見えた。助けたいとも思った。けれど自分にはどうすることも出来なかった。いや、助けようとしたが、それは助けにはならなかった、と言った方が事実に近い。奈々恵は、うろたえたのだ。


 一体どうしてその日だったのか、それはいつまでもわからなかった。その日に限って彼女は話をしたのだ。黙ってきたことを。隠し続けてきていただろうことを。その日、彼女は口を開いた。


 その日は、朝からずっと雲一つ無くよく晴れていた一日だった。


 学校の後の帰り道で、いつも通りに土手に座っていた時のことだ。中学に入ってからは彼女とは少し距離が生まれた。自分にも友達が増えたということもあったし、喘息の発作で小学生の時以上に学校を休むことも少なくなかった。休まない日はあったが、途中で思い付くままに発作を理由に早退していた。本当のことを言えば居られないほどの状態でもなかったとも思う。だからそのせいでも無かったけれど、辛かったのは本当だった。身体も思うこともしんどかった。


 元気な人ばかりがたくさん居る学校という所には最初から馴染めなかった。発作を理由に逃げ出したものは多かった。テストの成績は常に上位だったので、それを叱る人も止める人もいなかった。


 早退した天気のよい日は、家に直接帰るわけでは無く、一人の時間をそこで過ごすことも多かった。川が流れていて、その水は案外と澄んでいて、上流の川を思わせる。山からの水を使っているこの地域は、何処の家でも水道をひねるとキンとした冷たい水が夏でも流れていた。

 土手には様々な花が咲く。様々な草も生えている。車が通ることも多くなかった。川の水の流れが聞こえて来る。そして空が近い気がする場所だった。近くには例年より多く降った雪をてっぺんに被ったままの白い山が見えていた。そこに居る方が世界を学んでいる気がした。


(それは、誰にも通用しないだろうけど……)


 その風景の中で、数日ぶりに雪乃と会っていた。後からやって来たのは彼女の方。自分のそれまでの当り前の日常世界を壊したのは、その日の彼女だったが、思えば雪乃との友人関係も変わっていったのだと思う。ゆっくりと、その日をきっかけに。


 その後のとある日には、彼女は笑っていた。夢だったのか、嘘だったのかもしれないと思った。けれど、彼女に射していた影は、影のまま、明るくなることは無かった。学校でも外れていたし、彼女自身も友人や仲間を欲しがっているようには見えなかった。それは元々からだと思ったけれど、その影は暗さばかりでは無く、どこか大人びていて意味不明な色気のようにも感じられた。

 そう見ている自分が変なのか、現実から逃げだそうとなんてしていないように見えている彼女が変なのか、結論は出ないまま過ごしていた。


 奈々恵が、それを知ったのは中学一年生の初夏のことだった。

 彼女は小学生からの友人の一人だった。家が近かったというのが大きな理由の一つだった。子供の足で徒歩十分ほどの帰り道が同じだったのだ。そしてもうひとつ別の理由もあった。彼女の家も自分の家も両親が共に働いていて家には居なかったのだ。違うのは彼女には仲良くもなさそうな兄が居たっていうこと。自分には兄弟姉妹は居なかった。一人っ子だったから。


 明るいとは言えない、最初に出会った時からそんな子だった。小学生二年生の時に友達になった時には、彼女は友達も居なくてほとんど独りぼっちでいる、すでにそういう子だった。だから彼女にとっては珍しく、そしておそらくは自分は彼女にとって唯一の友達だった。


 一人で居るときも一緒に居るときにも、彼女はよく独り言を呟いていた。ずっと話をしているとう印象である。それが彼女の抱えてきていたことに裏打ちされていたのだろうと思われるが、本人から聞かされるまでそれは想像だにしなかったことだった。

 雲ひとつ無い青空、爽やかな初夏の風吹く午後の、早退した日のことだった。二人だけしかいない土手だった。


 ある日のこと、いつものように寝ていたが、物音がして目が覚めたそうだ。物音が止まったので薄く目を開けて様子をうかがった時、そこに見えたのは人の姿だった。それは五歳違いの兄だった。彼女が十歳になったばかりの時だった。

 それが事件の始まりなのだと思って聞いていた奈々恵だった。衝撃だった。


 内向的な兄は、勉強しなくてもそれなりの成績で、友達も少数持続系で外に遊びに行くこともあまりなかった。悪目立ちするようなタイプでも無く、集団の中で馴染むタイプだった。部活にも力は入れず、時々行く程度でもまかり通っているような、もともと力の入っていない陸上部だった。多くの場合、学校からの帰りはそんなに遅くない。小学生だった彼女の部屋に夜になるとは通うようになったという。彼女はその現実を受け入れているかのように見えた。

 それぞれが別々に接客業、飲食業を営んでいる両親はほとんど仕事でいない。夜の時間は稼ぎ時である。誰も帰ってくるわけなどなかった。


 大きな事件を聞かされて、心臓がバクバクしていた。実際に身近でそんなことがあるということを聞かされて、現実なのだということを受け入れるのに時間がかかった。被害者である彼女は目の前に存在するのだし、その彼女が重い口を開いて話すことなのだから、疑う余地なんて一つも無かった。川の流れも花も白い山も全部吹っ飛んでいった。

 なにしろ友達だったのだ。小学二年生からの友達で、何を話していたのか内容はあまり覚えてはいないけれど、よく一緒にいた。自転車で走り回ったり、川の土手で四つ葉のクローバーを探したり、座り込んでは日が暮れるころまで話をしていたのだから。


 一緒に笑っていた今までの彼女の顔を思い出す。被害者だという告白を自分は聞いているのだが、そんな彼女が笑っていた、その昨日までの笑顔が全部嘘に思えてしまった。


 良くない、良くないことだと、考えながらも、今までそうしか出来なかっただろう彼女の笑顔が怖く感じたのだ。自分の中の何かが、彼女を否定していることに気が付くと、自分へのなんとも言えない気持ち悪さを感じた。


 その彼女が十歳になったばかりの時の事件なら、自分も十歳だった時のことになる。十三歳になる年の中学一年から数えると、すでに三年あまり経過していることになる。自分は何も気が付かなかった。気が付いていなかったということになる。



 さらには続いていた、というのだ。いつまで……


「それからずっと、今も」


 彼女は空中に向ってそう言った。


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