第2話 あの声に出会う、その日まで②
いつの間にか気を失っていたようだ。
「もう、治ったんか?」
その尖った声でハッとして目が覚める。
布団を丸めて傾斜の高い山を作り、その山に身体の前の方からもたれかかるようにして、眠っていたのだ。これは喘息の発作の時には必ずそうすることに決まっていた。呼吸が少しでもラクに出来るような体勢なのだ。
その山を作ってくれたのは父親だった。背中をそうっと擦ってくれている。きっとずっとそうしてくれていたのだろう。家に居る時の父はいつもそうだった。
そこで掛けられた突然の声は静けさを遠慮も無く破った。
「もう、治ったんかって。どうなんや?」
(なおる、わけなどない……)
すぐに返事が出来ない、声が出ない。
ようやく酷い状態の発作が治まったところであって、目覚めた後は呼吸を意識しながら肩で息を吸って、肩で吐いてを繰り返していくことがしばらく続く。一回の呼吸をするのに力がいる。
一度大きめの発作を起こすと体力がごっそりと抜けていってしまい、一ヶ月ほどは全身に力が入らない状態が続く。それを見て知っているはずの人がそう言っていた。
今もこれまでに無いような発作の直後で疲れ切ってしまって眠っていたのだろう。そこで静かになっていた姿を見て声をかけてきたのだ。
「もう、いいんか、終わったんか?」
そんな状態を見ていないのか、見えていないのか、あるいは見たくないのか、母親という存在のその人は、目の前にいる娘にイライラしながらそう言ったのだった。
「本当に忙しいのに。困ったもんや。根性が弱いからや。そんなんなるのは。寝ていられるなんて、頑張ろうっていう気が無いからや。休めるもんならこっちが休みたいわ。私なんて病気でも熱があっても休んでなんておられん。毎日働いとるわっ。考え違いもいい加減にせえや。根性が違うんや、根性がっ」
正しいことを言って相手にわからせようとしているかのような、言いっぷりだった。その声に感情は動かなかったが、自分のすぐ横に居た父親のひと言で、それが望ましいものでは無いのだということを知った。
「こんな時に……心配じゃないんか! うるさい!」
そうだった。どちらにしても自分が今居るここという所は、呼吸がしにくいところだったと、そう感じていた。父の言葉に母は文句を言いながら逃げ出すように階段を降りていった。
父が家に居るようになってから母はより荒れていた。段々と身体の具合が悪くなっていくほどに父は家に居ることが増えていった。旅先ではなく、この町で仕事をするようになった。それが始まったのが小学生入学時の時あたり。父は旅館のメンテナンスの仕事を主にしていた。母はこの土地にやって来た時から、旅館を転々としながら仲居の仕事をしていた。初めての、仕事らしい仕事だったらしい。
(そして一体あれは誰だったんだろう)
今はいない、どこに行ったんだろう?
あの声のおかげで助かったのだ。とんでもないことが起きた気がした。あの声の指示が無かったら、呼吸困難からの旅立ちだったのだろう。小学校を卒業出来るか出来ないか、長くは無いだろうと専門医からは言われていたそうだ。後々、そう父から聞いた。
自分からすると父親も母親も怖かった。きっとたぶん何故かわからないけれど、したい話が通じないということが怖かった。この現場そのものが怖く思えていた。ここでは無い何処かへ行きたいのにそれが何処なのか、わからなかった。
お酒の匂いのする母、父と母の止まない口喧嘩、家の外では酔っ払いの暴力や女性の叫び声が聞こえる毎日だった。怖い町。怖い人たち。毎日をどうしたらいいのか、小学校一年生になる前にこの地にやって来てから、ずっとわからなかった。
声を出すこともなく、ただただ、吸って吐いて、気管支のヒュー、ヒュー、という音がもっと小さくなっていくことを祈りながら、呼吸をしようしようと意識していた。もういつもの手順でよかったので、安心していた。両方の肩で息をしなくてもいい状態に早く到着して、眠りたかった。落ち着きたかった。
おそらくは辛い。自分は辛いんだろう。
自分に話し掛けてくる父親の声は優しかったが、聞いているうちに何故か悲しくなってしまう自分が居た。小さな頃から泣くということには慣れていなかった。赤ちゃんの頃から泣かない子だったとも言われていた。しかし涙は勝手に流れていく。声を出さずに奥歯を噛みしめて呼吸に意識を向けていた。
娘はこの夫婦にとっての一人っ子。
名前は「奈々恵」である。
この大きな発作の時、それはとある温泉地で小学生の低学年だった。
「こきゅうの……か、た」
(それって……なに?)
それが「呼吸の型」という漢字表記だろうということを知ったのは随分と後々のことである。当時は意味もわからないまま、ただそうしろと言われたようなことを、そうした自分がいた、そんな気がしていた。夢とか妄想とかじゃない。自分はその的確な指示のおかげで助かったのだ。息が出来るようになった。
それ以後、発作の度にこの言葉を思い出すことになった。それを頼りに呼吸に意識を向けて、その中で段階的に発作は治まっていく。やがて通常の呼吸が自分のところへと帰って来るのだ。それは、知らずトレーニングになっていた。
(あの、こえ……のおかげ)
そう思っていた。
身体に任せる、のではなく、身体の動きに付いていくのでは無いということをその時に知った。それはあまりにも衝撃的だった。
自律神経の働きというのは本人の感情や意思とは関係無く動いてくれているものだが、意思の働きによって身体の動きを先導するというやり方があるのだということを初めて知ったのだ。
知ったということは大きかった。誰もそんなことを教えてはくれない。そんなこと起きないって、嘘だって言われてしまうかもしれない。これは黙っておかなくてはならない。あの聞こえて来た声から教わったのだということも誰にも言ってはいけない、そう感じていた。そして実際、長い間誰にも言わないまま、このやり方は何度も自分の実際的な救いとなっていった。
奈々恵は信じていた。
名も知らぬ、形も見えぬ、あの声だけの存在のことを。
きっといつか、何かわかる時が来る。
探そう、探し続けよう、心はそう決まっていた。
小学生の奈々恵の中に芽生えた、大切なことのひとつだった。
目の前にいる自分のことを責めている人、それはそれまでお話の中で聞いたことしか無かった「鬼」と呼ばれているものに見えていた。それ以後、いつも心の中でそう呼んでいた。
「鬼……鬼婆」
(おに……おにばばあ)
(きっと、ここにいちゃいけないんだ)
そう思いながら、早く大人になりたいと思った。いつかここを出て行こう。そう決めていた。
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