月の影 見上げる太陽 ~七色書房の七色処方~
PRIZM
第1話 あの声に出会う、その日まで①
(あぁ……)
目を開けた。その時、視界に入ってきたぼんやりとした風景には、妙な重たさがあった。そこには見慣れないものがある気がした。
何かを自分が見上げているというのも変な話だ、と感じている。
なぜだろう?
これまでにそういうことをしていなかったような、だからといってじゃあ何をしていたのかハッキリとわからないし言えない。ただ、そこに見えている薄茶色く見えるものが、何か大切なものを遮っているようなそんな気がしていた。
そこにある、見ているものは天井だ。
(これは前からあったっけ? あったよね、いや、あったかな?)
それが「天井」だと思えば思うほど、変になっていく。繰り返し「てんじょう」と何度も頭の中で呟き続けるほど、何が何だか段々わからなくなっていった。
「てんじょう」というものをそこに見ていたけれど、そもそもその「てんじょう」って一体何だろう? 自分に起きているこの現象自体に名前が付いているなんていうこともその時には知らなかった。
目の前に見えている木造の家の天井というもの自体について、ではなく、自分がなぜこのような物の下に当り前のように居るのか、頭の上にどうして物があるのか、ということ自体が不思議でならなかった。
(これは……あたりまえ、なの?)
どう思ったとしても毎回答えは出なかった。発作を起こす度に同じようなことを感じ、考えている自分がいるような気がした。それも何度も忘れてしまうけれど、発作を起こしてはまた同じことを思い出す。繰り返して、あの天井を見ていて、答えは出ないままだけれど。それをじっと見つめながら呼吸をすることで、今ここにある身体の苦しさから逃れている気もした。
息が苦しくて、身体の中に必要な酸素が入っていかない。そうだ、喘息の発作の最中だったのだと、思い出した自分がいた。
なんとか呼吸をしようと両方の肩に力を入れて稼働させようとするが、いつもならもう少しうまくいくのに、なぜかうまくいかない。空気か止まったかのように、時間が止まってしまったかのように、何も動かない。初めてのことだ。
今日は自分の気管支や肺が動いてくれない。鼻や口から風が入っていかない。何一つ自分から出て行かない。恐怖が走った。パニックになる。慌てるほど起きている事実に呑み込まれていく。それをもう止められない。
この身体の動かない静寂さに意識を向けてしまうほど、段々と気が遠くなっていく。
(ええと、なんだったかな……)
何も考えられなくなっていく。
あんなに苦しかったのに、おかしい。身体の感覚が無くなっていく。
何かの坂を越えたかのように、苦しさを感じなくなった。感じないから大丈夫になったのかというと、そうでもないらしい。なぜなら、段々と先ほどまで居た所から遠く離れていってるような感じがしているのだ。全てが薄くなっていく。
(わたし……が、いなくなって……いく……)
これは正しいのだろうか。自分は終わっていくのかもしれない。
「呼吸の型を意識してください。吐いて、吸って」
それは突然聞こえて来た声だった。
アナウンスのようにクリアーに。頭の中とも心の中とも言えないようなところで、はっきりと聞こえて来た、女性の声だった。
「入っていかなくても、出ていかなくても、その型を繰り返してください」
(かた……?)
強い声だった。「カタ」という言葉の意味がわからなかったが、考えること無く付いていくように、その声の通りにしようとしていた自分が居た。
「やがて、身体の方が言うことを聞くようになります。大丈夫、繰り返して」
(吐いて、吸う、その真似をするということ?)
そう思ってそれを繰り返した。
一向に入って来ないし出て行かないような、そんな気がしながらいた。身体は言うことを聞いてくれないはずだ。
それでもその型を繰り返せという声の主の言う通りに、イメージの中で身体の中に口や鼻を通して風が入ってくる、口や鼻を通して風が出ていくという絵を繰り返し描いていた。繰り返して行くほどに描いた風景が色濃くなっていくのが見えた。
(あ……)
すると先ほどまでのように気が遠くなっていくという、そのままの状態では無くなっていることに気が付いた。どこかに向っての移動という動きが止まって、とある場所に留まってホバリングしているような感じだ。
自分が身体と共に居ようとしているような、やがてあの声が言ったように、身体の方が自分の言うことを聞き始めるようなそんな気がした。あり得ないけれど進む方向は変わったのだ。
聞こえて来たいくつかのその声からの言葉は、最初から最後まで落ち着いていた。
両方の肩を動かして、リズムを取るように、呼吸をしている振りを続ける。そのうちほんの少しずつ帰って来始めるのがわかった。もう帰って来ないだろうと思えていた何かが帰って来たような感じがしていた。小さくではあるが、呼吸が出来ているのだ。ああ、生きている、生きられる、そう思った。
同時に小さく浅い呼吸をゆっくりと繰り返して行くことに意識を向けていた。もっと、もっと、こっちへ、そう、帰っておいで、と。
気が付くと苦しさも帰ってきていた。息が苦しい。苦しいけれど、入っていく、出て行く。呼吸が作用している。生きている。
どこからか聞こえていた声は、聞こえなくなった。耳を澄ましても、じっとしていても、まだ苦しさの残る呼吸をしている最中に自分はまだいたけれども、あの声はもう聞えることはなかった。
(まっすぐ、流れるような……声)
迷いの無い的確な指示だったと思われた。その声を思い出しながら、あれは一体誰だったのだろう、なんだったのだろう、繰り返しそう思いながらいた。危機を感じていたはずの自分の恐怖と全身の緊張が少しずつ和らいでいく。
知らない間に眠ってしまったようだった。
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