第11話 九条直哉

 うちの学校の生徒が、うちのビルで転落死した――。

 

 九条直哉くじょうなおや 24歳、私立高校養護教諭、心理士。資産家の息子、九条ビルのオーナー。趣味は絵画。


 僕は資産家の一人息子で、父が60歳、母が25歳の時に生まれた。家には たくさんの使用人がいて、欲しいものは何でも手に入り、美しいものに囲まれて育った。忙しい両親と顔を合わせることはほとんどなく、使用人が常に僕の傍で世話をしてくれたものの、いつも孤独を感じていた。


 母はとても美しい人で、外に愛人がいたようだが、父がそれを咎めることはなかった。父にとって母は、跡継ぎさえ産んでくれればよかったし、その役目を果たした母はお金も愛人も自由が認められていた。父と母が仲良く会話をしているのも見たことがなく、夫婦とはこういうものだと思っていた。

 

 10歳になった頃、父が急に僕を近くに置くようになった。僕は嬉しかった。父が望むことは何でもしてあげたかった。


 ある日、父はベッドルームに僕を呼んだ。そこには大人とも子どもともわからない年齢の男の人と女の人がいた。そこからの記憶はほとんどない。僕は裸にされ、父は椅子に座ってニヤニヤと眺めていた。

 父はペドフィリア(小児性愛障害)だった。

 

 僕は誰にも打ち明けることができず、自室へ籠るようになった。でも、ついに耐え切れなくなり、僕は、母に助けを求めた。母の部屋への立ち入りは禁止されていたが、何とか理由をつけて入り込んだ。


「お母さま、あの……、部屋に入ってごめんなさい。僕……あの……お父さまが……変で……あの……変なことするの辞めさせて……。助けて……、お母さま」


 うまく説明できず、必死で乞うた。


「なんで、あなたがここにいるの? 触らないで! 汚らわしい! あなたの顔なんて見たくもない。気持ち悪い!」


 この世で一番汚いものを見るかのように嫌悪感を爆発させて言い放った。その美しかった顔がこの世のものとは思えない程、醜く歪んだのを忘れられない。母はすべて知っていたのだ。母も使用人も、見て見ぬふりをしていたのだ。誰も僕を助けてはくれない。僕は汚い。大人も汚い。気持ち悪い。僕はすべてのことを諦めた。この日以来、僕の心は死んだ。

 

 中学に上がった頃、九条家の情報を外部へ一切漏らさないという念書を書いて、母親は自分の有り金を全部持って出て行った。あの異常な家に籍を置くことが嫌になったのであろう。


 『逃げられるものなら僕だって逃げたい。でも、こどもの僕には無理だ。お母さまはいいな』心からそう思った。


 

 ちょうどその頃、不景気のあおりを受け、九条家所有の空きビルがいくつかあることを知った。その一つ、九条ビルがほしいと、父に要求した。父は欲しいものは何でもくれた。ビルをもらったからといって何をするわけでもない。ただ、誰もいない、一人になれる場所が欲しかった。


 ある時、ビルの屋上で、『ここから落ちたら死ねるじゃないか』とふと思い立った。ここで僕が死んだら話題になり、父が罰せられるんじゃないか?そうだ飛び降りてやろう!そう思って身を乗り出した。でもちょうどその時、たまたま通りかかった当時大学4年生の広瀬琴美さんに阻止されたんだ。

 

 琴美さんは、非常階段を全速力で駆け上がり、僕を羽交い絞めにして身を挺して止めた。突然のことで、何が起こったのかわからない僕は、後ろで脳震盪を起こして倒れている琴美さんを見て、茫然としていた。しばらくすると、パチッと目を開けて、天使のような笑顔でこう言った。


「ねぇ、お腹すかない?」


 さっき死のうとしていた僕にかける一言目がそれかと、何だか拍子抜けして笑ってしまった。声を出して笑うなんて何年ぶりだろう。笑いながら涙があふれていた。僕達はそのまま並んでおにぎりを食べた。いつも食べているシェフが作るコース料理より、琴美さんがにぎったおにぎりは、何百倍もおいしかった。


「こんなにおいしいものを食べたのは初めてだよ」


「そう? ただの塩おにぎりだよ? ここで食べるから美味しいのかなぁ! 空が近い! 気持ちいいー!」


 二人でごろんと寝転がって、伸びをする。穏やかな時間が流れた。その時から、琴美さんと僕は、時々ビルの屋上で会うようになった。

 さすがに父からの異常な行為を打ち明けることはできなかったが、家庭に居場所がない事や、幼少期からの孤独感を相談するようになった。初めてできた唯一信頼できる大人だった。


 僕が中学3年生になる年、琴美さんは長栄市の児童福祉課へ就職した。虐待を取り扱う部署だと聞いた。これまでのように頻繁に会うことはなくなったが、僕を助けたいと仕事に専念しているようだった。


 ある時、児童相談所の人が来た。ついに僕は、あの家を出て、遠方にいる母方の祖母に引き取られることになった。


 『琴美さんが何とかしてくれたんだ!』僕はどうしても会ってお礼が言いたくて、市役所へ向かった。ちょうど、琴美さんが市役所の入口から入るのを見つけ、声をかけた。


「琴美さん!」


 僕は満面の笑みで手を振った。振り返った琴美さんに、いつもの笑顔はなかった。それどころか、声の主が僕だとわかると、さらに顔を曇らせ、無視をしてそのまま走り去っていってしまった。


 『どうして……? もしかして、父と僕のことをすべて知ってしまった? 僕が汚い人間だとわかってしまった?』


 やはり、琴美さんも同じなんだ。汚い大人なんだ。もう誰も信じられない。


 ***


 そのあと母方の祖母に引き取られ、中学・高校・大学・大学院を無事に卒業した。大学在学中、父が亡くなり、すべての遺産は僕のものになった。働かなくても暮らしていけるだけのお金は十分にあったが、大学院卒業後は、長栄市に戻り、私立高校の養護教諭になることにした。


 赴任して早々、子ども食堂の手伝いをすることになった。そこには、貧困家庭や養育環境が良いとは言えない子ども達がたくさん集まった。

 まともにご飯を食べられない子、孤独を感じている子、見た目には課題を抱えているようには見えない子、ただ遊びがてら来ている子、様々だった。


 大人の都合で不利益を被るのは、いつだってこどもたちだ。弱き小さき人は、大人には決して逆らえない。何をされても、何もしてくれなくても、家からも親からも逃げ出せない。そして我慢の限界を超えた時、心が死ぬのだ。


 でも少なくともここに来ている子どもたちの目はキラキラと輝いていた。今ならまだ間に合う。この子たちの力になりたい。この子たちの笑顔を守りたい。心からそう思った。


 その一方で、僕には邪な気持ちが芽生えていた。時の流れは残酷で、今度は僕自身が、あれほど嫌悪していた大人へと成長してしまったのだ。


 『 純粋無垢な子どもは、なんて美しいんだ。愛おしい 』

 

 そう、僕もまた『 ペドフィリア 』だった。

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