第35配信 マネージャー香澄の萌え地獄 始動編①

 陽菜が引っ越して来た翌日。陽菜とマネージャーの香澄は配信スペースの作業をしていた。


「本当にこの防音室は凄いですね。確かぶいなろっ!!スタジオの防音室を参考にしてるんでしたっけ?」


「はい。自宅での歌配信とかASMRにもっと力を入れたくて、特に防音室にこだわって家を建てて貰ったんです。ローン三十年……頑張って働きます! それと――」


 香澄が振り返ると陽菜は嬉しそうに人の頭部の形をしたマイクに頬ずりをしていた。

 そのマイクの名はKU百式――ASMR界隈では有名なダミーヘッドマイクでハイクオリティの音声を提供する事が可能である。


「えへへ、ルーちゃんが持ってるのをコラボで使わせて貰ってから欲しくて欲しくて仕方が無かったんですよぉ。だから、この家を建てるついでに買っちゃいましたぁ! これからは自宅でこのKU百式を使ってASMRをやるんですぅ。ああ、楽しみだなぁー」


「お願いですからルーシーさんみたいにエロ方向に行かないでくださいよ。ガブさんがやったらまたBANされますからね! セリーヌさんのエロ系ではなくフェニスさんの安眠をもたらすタイプでお願いします」


「以前BANされたのはルーちゃんのASMRが過激だったからです! 心配せずとも私はフェニママ路線でやっていきます。ワンユウさんや使徒さんにはゆっくり休んで貰いたいので。既にフェニママから修行を受けているので大丈夫です」


 ガブリエールがセンシティブではないASMRを目指していると知り香澄は心底安堵する。

 ガブリエールの無自覚から生まれる色気はぶいなろっ!!のセクシークイーンであるセリーヌに匹敵するレベルを叩き出すことがあるので非常に危険なのだ。

 セリーヌは自分の色気をコントロールしてBANされないギリギリを攻められるが、ガブリエールはコントロール出来ないので全速力でコーナーアウトする。


「ASMRを本格的にするなら配信時のロリ声よりも地声に近いお姉さんボイスも良いかも知れませんね。かなり声質が変化しますからリスナーさんは驚くと思いますよ」


「そこはちょっと悩んでいるところなんです。あまり地声にはしたくないのでガブリエールの時と地声の中間あたりで最初はやってみようかと思います。そこからはリスナーさんの反応を見て調整していこうかなって」


 今後の配信の方向性を相談しつつ配信部屋への機材の設置は順調に進み昼過ぎには完了した。これにて後は最終調整をすれば配信が可能な状態になる。

 こうして引っ越しの作業が完了し、香澄はスタジオに戻るため陽菜に今後の予定を説明する。


「先日お話したように明日はぶいなろっ!!のスタジオにて社長と今後のスケジュール……主にデビュー一周年イベントの話と新居の状況確認があります。多分いつもの雑談みたいになると思いますが。それからは配信部屋の最終調整をしつつゆっくり休んで頂く感じですね。新居先の周辺の散策などしてみると良いと思いますよ。ガブさんは普段かなり高い頻度で配信をしていますから、休憩と言う意味合いで一週間休みを取りましたからね」


「分かりました。香澄さん、忙しいのに昨日今日と引っ越しを手伝って貰ってありがとうございました」


「気にしないでください。これはあたしの仕事兼趣味みたいなものですから。特等席でガブさんの配信が観られるだけで頑張れます。それでは明日スタジオで待っていますね」


「はい、ありがとうございました」


 香澄は陽菜の新居から出ると犬飼が住んでいるマンションを見やる。

 出来れば昨日の陽菜の粗相に対して謝罪しておきたかったが、部屋に押しかける訳にもいかないし何より何号室に住んでいるのかも分からない。


「謝罪するのはまた今度の機会にするか……」


 しょうが無いと思いながら最寄り駅まで歩いて行くと、その道中香澄は犬飼と遭遇した。


「犬飼ゲットだぜ。……じゃなかった、犬飼さん!」


 いきなり女性から声をかけられビクッと身体を震わせる犬飼の反応を見て、香澄は「あ、この人明らかに女性慣れしてないな」と推察する。


「確か昨日の……太田さんの友達。相良さん……ですよね?」


「はい、そうです。あの、犬飼さん。今お時間ありますか?」


 


 犬飼と香澄は近くの喫茶店に入ると改めて挨拶を交わす。すると香澄は即座に昨日の陽菜がかました無自覚なセンシティブ行為を謝罪した。


「本当に申し訳ありませんでした! あれから陽菜にはキツく注意をして本人も深く反省しているので今後はあのようにはならないと思います」


「そうでしたか。それなら良かったです。正直心配だったんです。太田さん、結構隙だらけなところがあったし、今後酷い目に遭わなければ良いなと思ったので……」


 意外にも犬飼は昨日の件を全く怒っておらず、それどころか陽菜のこれからを心配してくれていた事に香澄は感嘆していた。

 そして、この親切な青年に対し興味が湧きたずねずにはいられなかった。


「差し出がましいようで恐縮ですが、何故そこまで陽菜を心配してくれるんですか?」


「うーん、何ですかねぇ。何となくあの危なっかしいところと言うか、放っておけないところが俺の知り合い……で良いのか分からないですけど、とにかくその人物に似てる気がしたんです。だから傷ついて欲しくないと言うか……」


 曖昧な回答ではあったが、逆に言えばそれだけの理由でここまで気遣ってくれる犬飼に対して香澄は好感を抱く。しかし、だからこそ伝えておかなければならない事があった。


「ありがとうございます、犬飼さん。昨日、陽菜に手を差し伸べてくれたのがあなたで本当に良かった。だからこそ伝えておいた方が良いと思ったので話しておきます。陽菜がこの街に来たのは半分は仕事のためで、もう半分は好きな男性が住んでいるからなんです」


「……やっぱりそうだったんですね。昨日の太田さんの表情を見て、何となくそうなんじゃないかと思っていたんです。それじゃ、あの家ではその男性と一緒に暮らすんですね。正直、その人が羨ましいですよ」


「はは……そう、ですね……」


 ここから先は説明のしようがないので香澄は苦笑いする。その時AINEの着信音が鳴り、犬飼に了解を取ってスマホを取り出し確認する。

 それは陽菜からのAINEで引っ越しの手伝いに対する感謝のメッセージが綴られていた。香澄はそのメッセージを確認し、ふふっと笑みをこぼす。


「あ、済みませんでした。犬飼さ……んんんんんん!?」


 香澄が犬飼に視線を戻すと、彼はさっきとはまるで別人のようにギラついた目で香澄を見ていた。

 その変貌ぶりに驚いていると、犬飼が香澄のスマホを見ながら恐る恐る訊ねる。


「あの、相良さんのスマホに付いてるストラップってぶいなろっ!!のガブリエール・ソレイユのストラップですよね? もしかして、ぶいなろっ!!のファン……なんですか?」


「え? ええ、そうですけど……」


「まさかこんな所で同志に会うなんて! そのストラップを付けてるって事はガブリエール推しですか?」


「そうですけど。……まさか、犬飼さんも!?」


「はい! 実は俺もぶいなろっ!!のファンなんです。うわぁ、嬉しいなぁ。ガブリエール推しの人と知り合えるなんて!」


 香澄をぶいなろっ!!、それもガブリエール推しと知った犬飼の嬉しそうな表情を見て、香澄の中で一つの可能性が頭をよぎった。なので確認してみる。


「本当に奇遇ですよねぇ。犬飼さんもガブちゃん推しなんですよね? 推し歴はどれくらいなんですか?」


「四年です。リアルのガブの推し仲間なんて初ですよ! 嬉しいなぁ」


「そ、そうですねぇ。あたしも嬉しいです」


 香澄はニコッと笑みを浮かべながら、心中穏やかではなかった。なぜなら――。


(えっ!? 今、この人推し歴四年て言ったよね? 言ってない? いやいや、言ったよ言った! 明らかにおかしいじゃん。だってガブちゃんはデビューしてまだ一年経ってないっつーの! 四年て言ったら、陽菜さんがVTuberを始めて少し経った頃だよ。前世の太陽ちゃんとして活動始めたばかりの頃だよね? え、それってつまり太陽ちゃんの最古参のファンって事だよね? 嬉しさでナチュラルに言ってるあたりホントっぽい。と言うか、それが真実だとしたら……まさか……まさか……)


「それにしても犬飼さんは本当にガブちゃんが好きなんですね。ゲームも歌も上手いですし、可愛いですもんねぇ。犬飼さんは、ガブちゃんのどんなところが好きなんですか?」


「そうですねぇ。ゲームも上手になったし、歌なんて本当に……本当にメチャクチャ上達して、今じゃガブリエールの配信の名物になりましたから。でも、何よりも最後まで諦めずに頑張る姿を見ていると俺も頑張ろうって思えるんですよね」


(何か遠い目をして嬉しそうに話してるんですけどーーーー!! これ明らかに太陽ちゃんの初期の頃からの付き合いだよ。あたしよりも長期にわたって陽菜さんの成長を目の当たりにしている忠臣の中の忠臣だよ!)


 ふとした女の勘が現実のものとなり始め、香澄はついに核心に迫るべくあの人物の名前を出すことにした。


「ガブちゃんって言えば、外せないのがリスナーのワンユウさんですよね。使徒さんに総帥って言われて慕われていますよね。犬飼さんはワンユウさんをどう思います?」


 その瞬間、今まで笑顔で語っていた犬飼の表情が一変し一瞬にして汗だらけになる。香澄から視線を外し、申し訳なさでいっぱいいっぱいの雰囲気が彼を包んだ。


「そ、そうですねぇ。俺はその……なんて言うか……もう少し静かに視聴したいかなって。いや、俺じゃないですよ! きっと彼はそんなに目立ちたくないんじゃないかなぁ? 相良さんは彼が目立たなくなるには、どうすればいいと思いますか?」


「さ、さあ……ガブちゃん本人も使徒さんも放っておかないのでワンユウさんが静かに視聴するのは無理かな、と。彼がコメントを打たずに居ると皆騒ぎ出すし……」


「くっ! そう……なんですよねぇ……。あ、ごめんなさい。ちょっとお手洗いに行ってきます」


 犬飼が男子トイレに入っていくのを確認すると香澄はテーブルに両肘をついて手を組み額をこつんと当てた。

 そして「はぁ~」と深い溜息を吐いて小声で独り言を言い始める。


「もう確定じゃね!? 犬飼さんがワンユウさんで確定でしょうよ! 途中からどうすれば目立たないか質問するし、配信中のワンユウさんと同じ切実な雰囲気が出てるし! いや、でもワンチャン違う可能性も……ちょっと待って、ユーザーネームのワンユウってまさか……犬飼優……イヌカイユウ……イヌ、カイ、ユウ……イヌ、ユウ……イヌの鳴き声はワン。ワン……ユウ……ワンユウ……ひぇっ!!」


 犬飼の名前からユーザーネーム『ワンユウ』にあっさり辿り着き、香澄は震え全身から汗が噴き出す。

 これはもう犬飼がワンユウと同一人物では無いことを証明する方が難しい状況であった。

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