第32配信 陽菜さんはド天然

 頭の中で本能と理性が全面戦争を繰り広げる中、俺はゆっくりと起き上がった。すると太田さんは目を潤ませながら何度も頭を下げて俺に謝る。


「ごごごごご、ごめんなさいっ!! 色々と助けて頂いているのに転ばせてしまって……!!」


「気にしないでください。大丈夫……俺は……ダイジョウブ……」


 どうやら俺が彼女の下着を見てしまった事には気が付いていないご様子。

 いやさ、身体の上に乗っかられて胸押しつけられるのも相当凄い体験だけど、もう全部がインパクトありすぎてこの短時間に起こったイベント全てに優劣つけられないよ。

 本能と理性の戦争によって頭の中は焦土と化し、俺は荷物を運ぶだけのロボットとなった。外に置いてある段ボールを持ってリビングに置く。その単純作業を淡々とこなしていく。

 かくして全ての段ボールはリビングへと運び込まれ俺の任務は完了した。


「終わったぁ……犬飼さん、ありがとうございました! 何かお礼を……」


「お気遣い無く。それじゃ、俺はこれで……」


 このままここに居ると、俺の理性はどうにかなってしまう。犯罪者になる訳にはいかない。

 俺が逃げるようにこの場から去ろうとすると「クゥゥゥゥゥゥン!」と子犬の鳴き声みたいな音が聞こえてくる。何音かと思い耳を澄ませると再び同じ音がする。

 ふと見ると太田さんが顔を真っ赤にしてお腹を押さえている。時計を見ると丁度お昼時。すると今度は俺の腹から「グルルルルルルルルルルゥゥゥゥゥ~!!」と獰猛な野犬の唸り声みたいな音が聞こえてきた。

 これ……お腹が空いた音だよね? 別のナニかに飢えた唸り声じゃないよね?


 子犬の鳴き声と野犬の唸り声が何度もリビングに木霊する中、俺は当初の予定を思いだした。そして何を血迷ったのかこう言ってしまう。


「今から近所の蕎麦屋に行くんですけど、もし良かったら一緒に食べに行きます? ほら、引っ越し蕎麦になるし……」


 言ってしまってから自分の意味不明な行動に気が付き慌てて訂正しようとすると、その前に太田さんが頷いた。


「はい……私、お蕎麦好きなので……食べに行きたいです」


 もの凄く申し訳なさそうな、消え入りそうな声で彼女は言った。結局二人とも空腹には抗えず、一緒に近所の蕎麦屋に行くことにした。

 この人、少々……いやかなり男性に対して防御が甘すぎやしませんかね? ノーガードと言っていいほどガードがゆるゆるだよ。

 この先悪い男に騙されやしないか心配だよ。そして俺も悪い男にならないように気をつけるよ。


 昼食の時間帯ではあったが運良く待たずに席に座ることが出来た。メニュー表を見ると美味しそうな蕎麦や天ぷらの写真が載っていて嫌でも腹が減る。

 蕎麦を食べようと思った時から既に注文するものは決まっていたので、俺はそっとメニュー表を閉じた。すると太田さんは焦った様子でメニュー表をのぞき込む。


「急がなくて大丈夫ですよ。俺は注文するのはいつも大体同じなのですぐに決まるんです」


「はい……はわわ、どれも美味しそう。どうしよう……私はすぐに決まらなさそうなので犬飼さんは先に注文してください」


 急かすのも悪いのでお言葉に甘えて注文する事にした。この店は個人経営している小さな蕎麦屋で注文用のタッチパネル等は設置されていない。

 その為、手を挙げると店員さんが来て「ご注文ですか?」と訊いてくれる。こういう何気ないやり取りも情緒があって俺は好きだ。


「天ざる蕎麦を大盛りでお願いします」


 一切の迷い無く注文する。俺は蕎麦やうどんは冷たいのが好きなので大抵はざる蕎麦かざるうどんの大盛りを注文する。今日は暑いからざる蕎麦を食するには丁度良い。

 それにしばらく天ぷらを食べていなかったのでそれも一緒に食べようと思っていた。


「お連れ様はご注文は如何いかがしますか?」


「え? 私は……それじゃ同じ物をお願いします」


 注文を確認すると店員さんは奥に行ってしまった。


「同じので良かったんですか? 今なら注文の訂正間に合うと思いますよ?」


「いえ、大丈夫です。私も天ざる蕎麦にしようかなと思っていたんです。ただ……その……普通にしようか大盛りにしようか悩んでいただけで。その……大盛りを頼んだら……よく食べる女だと思われるんじゃないかって……。友達にもよく言われるんです。ガb……陽菜は良く食べるねって」


「そうですか? ご飯をいっぱい食べるのは健康的で俺は良いと思いますよ」


 顔を赤くして恥ずかしそうに話す彼女を見て可愛い人だなとつくづく思ってしまう。

 女性と一緒に外食するなんて家族以外では初めてだから、そんな事で恥ずかしがるんだと思ってしまう。新鮮な発見だ。

 ……ん? ちょっと待てよ。俺……母親以外の女性と外に食べに来たのは初めて……初体験か、これ? 

 待て待て待てよ、ちょっと待て。今日、それも出会ってから二時間足らずの女性と一緒にご飯食べに来るって、いつから俺はそんなプレイボーイになったんだ?

 それにこの場合、何を話せば良いんだ? この人について何の情報も持ってないんだぞ俺は。とにかく差し障りの無い話題を……!


「今日は良い天気ですね」


「そうですね。こんなに暑くなるなんて思ってもみませんでした」


 ……会話終わっちゃったよ。どどどどどどどど、どうしよう。天気以外に何か話すネタはないか? 

 「好きなVTuberは誰」とか「推しはいますか」とか? いや、アカンだろ! 

 もうね、オタクとして真っ当な道を進んできた俺には一般女性とどう会話をすればいいのか分かんないよ。


「お蕎麦楽しみですね」


「え? ええ、そうですね」


「天ぷらは、つゆ派ですか塩派ですか?」


「うーん、つゆ派かなぁ? でもサクサクの食感が好きだから、つゆに浸けたらすぐに食べますね」


「分かります! 私もつゆ派です。それに天ぷらのサクサク食感って良いですよねぇ。日本人に生まれて良かったって思います」


 なにこれ……とても楽しい。配信雑談の時はコメントを打つだけだから、こうして自分の声を使って会話するのって何だか不思議な感じだ。でも、これが楽しいって事だけは良く分かる。

 そうかなるほど……今ならキャバクラにハマる人の気持ちが何となく分かる。楽しいよ、女性との会話のキャッチボール。

 それに、太田さんは俺が会話に困っているのを察して気を利かせてくれたんだろう。この人の方が俺なんかよりもよっぽど優しい性格をしている。


 太田さんはそれからも色々と話題を振ってくれて会話が途切れることは無かった。そのお陰で楽しい時間が過ごせている。

 ただし、視線だけは下に向けてはいけない。何故なら太田さんはその巨乳をテーブルの上にずっしり乗っけているからだ。その影響で胸が押し上げられて谷間が結構見えている。


 現在俺の視界の下方ではギリその光景が見える。楽しそうに笑顔を見せているすぐ下はセンシティブな情報が満載だ。うっかりそこをもろに見てしまえば、多分俺は数秒間そこに目が釘付けになるだろう。

 そうなれば彼女はきっと汚物を見るような目で俺を見るに違いない。嫌だ! せっかくこんなに楽しいのに汚物は嫌だ。まだルーシーにメスガキムーブかまされてクソザコ言われる方が百倍マシだ。


「あ、犬飼さん来ましたよ」


 太田さんが笑顔で言うと天ざる蕎麦大盛りが二人の元へ運ばれてきた。天ぷらは黄金色に輝いていてまるで宝石みたいだ。

 口の中は唾液の洪水状態なので、油断して口を開けるとエラい事になる。


「わあ、美味しそう。いただきます」


「いただきます」


 空腹だった俺たちは、そこからは夢中で食べ進めた。途中、太田さんの様子をそれとなく見てみると本当に幸せそうな顔をして食べている。

 なるほど。世の中のカップルはいつもこんな楽しい食事をしているのか。いいなぁ、リア充爆発してくれないかなぁ。


 俺たちはほぼ同時に天ざる蕎麦を食べ終えた。だが、正直まだ食べ足りない。他のテーブルでデザートを食べている様子が目に入った。俺は甘い物も好きなので非常に惹かれる。

 再びメニュー表を広げてデザート欄に目を向けると太田さんは、まさかみたいな顔でこっちを見ている。

 

「太田さん、俺……デザートを食べようと思います。あなたはどうしますか?」


「……素敵な提案だと思います。私も食べたいです!」


 本人が食欲旺盛と言っていただけあって太田さんは快くデザート追撃プランを受け入れた。

 こうして二人でデザートの白玉ぜんざいを食べて楽しい外食は終了した。食事をしていてこんなに楽しく美味しいと感じたのは本当に久しぶりだった。


 食事が終わると彼女は席を外してお手洗いの方に姿を消した。席を立つ際に首を曲げて素早い動きで移動したのでビックリしたがあれは一体なんだったんだろう?


 さて、この間に俺は会計を済ませておこう。

 とても楽しい時間を過ごせたお礼と引っ越し祝いも込めて二人分の会計を終わらせる。太田さんが戻ってくると事情を説明し店の外に出た。


「本当にいいんですか? 荷物運びも手伝って貰ってしまって、その上お昼ご飯もご馳走になっちゃって……」


「俺も楽しくご飯を食べられましたし、引っ越し祝いだと思って貰えれば。それにこれからはご近所さんですし、よろしくって事で」


「はぅぅ……それじゃお言葉に甘えて……ご馳走様でした。とても美味しかったです!」


 本当に楽しい時間だった。今日は特に何事も無く終わる予定だったのに、まさかこんなに楽しく過ごせるとは思いもしなかった。

 太田さんの家の前に到着し挨拶をして帰ろうとすると、彼女がとんでもない提案をしてくる。


「あの、もしよかったらウチでお茶でも飲んでいきませんか?」


「……はい?」


 この人は男に対する危機感という物をお母さんのお腹の中に忘れてきたのだろうか? 

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