第29話 【堕落浄土】

「【堕落浄土】の組み立ては簡単です。だからこそ、恐ろしい魔法でもあります」


 薬液に濡れた手を布切れで拭き取るエレイナは眼帯で隠れた目を私に向ける。


「やることでいえば【スレイブシープ】の方が多いですし、難易度も上です。しかし、だからこそ恐ろしいのです」

「簡単なのに、恐ろしい?」

「はい。簡単であるが故に、僅かなミスも許されません。一つ一つ、丁寧に、行っていきましょう」


 私から顔を逸らした母は再び指先に薬液を染み込ませ始める。白から赤へ、赤から紫へと変わる指先を私は見つめる。


(魔法を組み立てる工程は頭に叩き込んだが、この速さで出来そうにない)


「何もかもを不可能だと判断するのは貴女の悪い癖ですよ、アビゲイル」

「……当たり前のように、思考を読むな」

「貴女は一見すると複雑そうに見えて、その実、かなりわかりやすいですから。長所であり短所ですね」


 エレイナはクスクスと笑い、舌で指についた薬液を舐める。味を確かめ、匂いを感じ取り、己の体液を混ぜることで【堕落浄土】に用いる薬液は完成する。


「話を戻しますが、貴女は合理を理解し損得を判断し行動しています。それは決して悪くありません。むしろ、魔族として生きるのならそれくらいしなければ、生きていけません。しかし、同時に可能性を狭める事にも繋がります」

「……この身では叶えられない願いが多いからな。諦めなければならない事ばかりだ」

「その願いとは?」

「人族の中で生きること」


 ハッキリと。


 私はエレイナの問いかけに対し、迷わず答えた。


 魔族が『破滅』を有する種族である以上、一つの場所に留まり生きることは難しい。

 ならば、いっそ人族の軍門に下り、人族の中で自由に生きる事も考えた。

 人族の知識や文化、言語を学んでいたのはコミュニケーションを円滑にする他に、そうした事が出来る可能性を模索するためでもあった。


 しかし、私がバジリスクであり、魔族である以上、人族の中で生きる事は不可能であった。


「人族の領域で捕まれば即死刑。余程の例外措置で無ければ、人族の中では生きることを許されない。……何より、魔族としての自由が無くなる」


 人族の法、価値観は理解はできる。


 弱者でも輝く事ができ、平穏と安穏を肯定する。


 美しく、尊く、同時に窮屈極まりない。


 故に、人族社会で生きる事を望んだ魔族――『名誉人族』は数多くの制約で縛られることになる。その縛りは強固であり、魔族としての尊厳を否定するものでしかない。

 そこに魔族の幸福は存在しない。ただ、人族の社会で飼い慣らされるだけの『家畜』が存在するだけだ。


 故に、


「私は私の自由を求めたに過ぎない。そのために不必要な事を諦めただけだ」

「フフッ、なるほど。後悔も、憎悪も、魔族の業の全てを呑み干さんとする貴女、嫌いではありません。……さて、完成しました」


 エレイナは黒い薬液に濡れた指先を女の下腹部に置く。上気する女の柔肌が黒く光り、蝕むように肌がゴムのように黒く変色し始める。

 毒薬でもある薬液は、人族が触れれば肉体の性質が歪められる。前世にはない、異世界ならではのドクだ。


「幕間の時間は終わり。今から【堕落浄土】を始めます。では手始めに、シジルからやっていきましょう」


 エレイナはそう告げると、女の下腹部に指を走らせる。指は魔族語の文字――前世で言うところのカタカナにも似た記号――を組み合わせ、紋様を作っていく。


「シジルとは願望達成のための印章。願いを満たすための命令文と言ったところですね。作成方法としては、一度文章を簡略化し、その中から同じ発音の言葉を消すことで作れます。では何故、このような方法論を取るでしょうか。はいアビゲイル、簡潔に答えてください。満点は100点です」


 紋様を作るエレイナからの問いかけに、私は顎に手を置き、知識を掘り出す。

 少しの間を作り出し、思考を巡らせる。


「……複雑すぎる命令文の簡略化、だったか?」

「50点ですね。しかし、及第点をあげましょう」


 エレイナは口に優しげに笑みを溢す。


「呪詛魔法、特に、種族変化や精神汚染、死霊操作の系統において、命令文は呪いの方向性を定めるために必要となります。しかし、複雑な命令文を書くとなると、人間の体や羊皮紙では足りなくなります。そのため、命令文の簡略化という方法論を取りました。ですが、この魔法はテンショウ大陸発祥の魔法です。命令文の簡略化、というだけでは半分程になってしまいます」

「……もう50点は?」

「刑罰のためです。テンショウ大陸では魔族と人族との関係が歴史的、環境的にこの大陸ほど悪くなく、結果として呪詛魔法に関しても寛容な文化をしています。そのため、罪を犯した者に対して呪詛魔法を施し、刑罰を処すこともあったそうです。その際、体に刻むシジルや紋章は目立つため使用されました。……最も、罰を過度に恐れさせるための精神汚染が凶悪過ぎて、使い物にならなくなってしまいましたが」


 肌に走らせて指が止まり、離れる。下腹部を覆うように描かれた紋様――シジルを見下ろしながら、


「『汝、堕落の徒として罰を下す』――このシジルはそういう文章ですね。次は詠唱。これは集中力が入りますので、話しかけず、離れてみていて下さい」


 エレイナの言葉に従い、首を縦に振る。私が立ち上がり、三歩後ろに下がるとエレイナは側に置いていた両手にナイフを持ち、シジルに合わせ薄く切っていく。

 瞬間、周囲に満ちていた甘ったるい香の空気が変わる。魔力に反応し、青い光を放ち始め、青い鱗粉が宙を舞う。


「【堕落の罪、異質の罰。邪なる者に下す罰は堕落にして隷属なり。二度と帰れぬ淵で悪を悔い、懺悔の祈りを罪人に述べよ】」


 エレイナが歌を唄い、同時に魔力が掌から流される。魔力が流されたシジルは赤く光り、肌が黒いゴム製の光沢に包まれていく。


「【罪をここに。汝の罪、汝の悪に裁きを与えん。――故に果てろ、浅ましき者よ】」


 歌を唄い終え、エレイナが女から手を離す。


 すると、ゴキリ、という音が女の身体から響き渡たる。黒い光沢が薄れていくと共に、ゴキリ、ボキリと骨が砕かれ、伸ばされる音が聞こえてくる。


 痛々しい音は、人族の女を粘土細工のように魔族の雌へと作り変えていく。


 手始めに、羊を思わせる黒く捻れた角がこめかみから生える。


 全体的に肉付きが良くなり、特に乳房は大きく膨らんでいく。


 背部から蝙蝠を思わせる翼が生え、神経が通りパタパタと動く。


 肉体から発する魔力は次第に収まると、私は女を見下ろす。


 ヒュームであった女はサキュバスの女へと成り下がった。


「これで【堕落浄土】は終わりです。後の事はこちらで片付けますので、明日に備えて眠りなさい」

「わかった」


 片付けを始めるエレイナに背を向け、テントから出ていく。満天の星空の下、雨に濡れた草の上を踏みつけ、広場へと出向く。


(……【堕落浄土】、か。悪趣味極まりないが、ある種の救いでもあるか)


 堕落の果てにある人欲に塗れた浄土があるとし、肯定する行為はある種の救いである。

 現実から逃げ出したいと思う者に、新たな人生を授ける行為でもあるのだから。


「さて、と。眠る前に体を動かすか」


 シャツを脱ぎ、影の中に放り投げる。


 人のいない広場、色白の肌を湿った空気に晒し、成長を始めた胸が上気する。


 体中を巡る魔力を意識し、肉体の中で神経を作るように体を満たすように操作しながら、体の動きを確認する――体術と魔法を重ねるための基礎的な訓練を繰り広げるのだった。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る