上階の住人

今から9年ほど前、生家であった団地が老朽化により住めなくなってしまった為に、私は父と母と共に隣町のマンションへ引っ越した。

このマンションは旧家に比べて築年数が短いが、それでも周りのマンションに比べるとかなり古く、そのせいか近隣に小中学校があるにも関わらず空き部屋が目立っていた。我が家の上下階も空き部屋で、両隣もそれぞれ物静かな老夫婦が住んでいるのみだったので、盆と正月に両隣の息子か娘の一家が帰省してくる時以外はマンションに我が家しか住んでいないような錯覚に陥るほど静かだった。

それが住み始めて1年半ほどが経った頃、上階に引っ越してきたという『渡部』なる若い男性が挨拶に来た。暦が夏を示して間もない頃の夕方のことで、渡部氏は緊張の為か張り詰めた顔に汗を伝わせながら「子供がうるさくしてしまったらすみません」と申し訳ない程の低姿勢で言った。私は「お互い様ですから」とだけ返したが、小さな子供を持つ若い父親が賃貸でもない古いマンションを購入したのを内心珍しく思っていた。

それからというもの、上階からは時々音が聞こえるようになった。玉のようなものを転がす音、什器を動かす音、足踏みの音。様々な生活音が聞こえることに天井の薄さを思い知ったが、とはいえ生活に支障が出る程の音ではないので何も気にしないでいた。

渡部氏とはマンションの中で度々すれ違った。市内の鉄工所に勤めているそうで、毎度水色のツナギにスニーカー、巨大なリュックサックを抱え、緊張を窺わせるぎこちない笑顔で挨拶をしてきた。父も母も時々渡部氏と何度かすれ違ったそうだが、いずれの時も渡部氏は常に1人でおり、妻子を連れているところを見たことが無かった。彼の妻子らしき女性や子供もマンション内で見かけたことは無かった。




渡部氏が越してきて半年程が経った頃、彼との間でトラブルが起きた。

それは平日の真昼間のことだ。専業主婦である母が家事を終えて一段落していた矢先、上階から激しすぎる水の音が聞こえてきたのだ。

様子がおかしいと思った母は上階へ行き、渡部氏宅のインターホンを押した。しかし応答は無く、相変わらずゴゥゴゥと水の音が響いていたので母は何度もインターホンを押した。やがて渡部氏が慌てた様子で出てきて「本当にすみません、子供が洗面所で水遊びをし始めて」と頭を深く垂れて謝ってきた。その時、母はたまたま目にした部屋の様子に愕然とした。

玄関から延びる2メートル程度の廊下の奥、掃き出し窓から射し込む明かりだけを頼りにした薄暗いリビングに沢山の人がいた。子供から老人まで幅広い世代の男女が十数人、正座をしてじっと母を見つめていた。

母は驚きで声を上げそうになったのをグッと堪え、渡部氏に注意喚起だけをした。渡部氏は丁寧にも「お宅まで染みていたら修繕費をお支払いします」とまで言ってくれたが、リビングの人達の視線が気まずく感じられた母は「そこまでは気にしなくていいから」とだけ返して逃げるように家に戻った。

仕事から帰宅して早々この話を聞かされた私は「色んな家があるもんや」と難しい顔で呟く母の隣で、正座して一斉にこちらを見つめる老若男女の姿を思い描いて背筋が寒くなるのを感じていた。




この2ヶ月後、渡部氏は突如マンションを出ていってしまった。引っ越しの日、私は仕事が非番であったので、共用廊下の縁から駐車場を見下ろし引っ越しの様子を見ていたが、段ボールが何十個も運び出されるばかりで人の姿は渡部氏しか見当たらなかった。

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