第4話 聖贄姫


 闇の中に浮かぶ濁った灰色の瞳が自分を見下ろのをみて、少女は初めて混沌を認識した。


 喉がひきつり声が出ない。本来であれば救いを求め神の御名を唱えるところであろう。

 だがそのようなことも頭に浮かばない。


 手足が縛られていなければ頭を抱え蹲ることが出来たろう。だがそれも叶わぬ。ならばせめて瞼を閉じ顔を背けるしかできなかった。


 こちらが見なければ怖いモノもこちらをみないだろうと、根拠のない思い込みだけが心の防波堤だった。


 だが、冷たいなにかが手足に触れたとき、泣き出しそうな悲鳴を上げてしまった。

 そのせいで手足の縛が解け自由になった瞬間、少女は渾身の力を込めてそれを振り払ったのだ。


「痛っ」

「ご。ごめんなさい」


 聞き覚えのある声に、少女は思わず反射的に謝罪の言葉を漏らした。


「逃げるぞ」


 鳥面の女ーーシスルが少女の手を力強く引いた。


「ボサボサすんなお姫様!」


 祭壇に引っかかったスカートの裾を手で持ち、少女は転がらぬよう走りだした。 


「どうして…」


 シスルの背に問いかけるも返事はない。


「アレはいったいなんなのですか?」

「濁灰神……マッディアシュ」

「マディアシーー?」

「そう。この世界をグチャグチャにかき混ぜて食らうもの。混沌の申し子…濁灰神マッディアッシュだ」

「うっ…」


 初めて耳にする名だったが、その不吉な響きに少女は言葉を失う。そしておぞましさに身を震わせた。


 そのせいで急に足を止めたシスルの背に、少女はぶつかってしまった。


「どこへいくのシスル」

「ロシェ」


 シスルの前に女が立ち塞がる。奇妙な魚を象っていた面は半分に割れ、その下から黄色く濁った瞳がこちらを睨んでいる。


「この方…」


 もう駄目なんだーーと、少女には分かった。


「ロシェ。やっぱ、無理なんだよ濁灰神を御するなんて。いいから早く逃げようぜ」


 周囲で激しくうねる不気味な触手を見てシスルが声を強める。


「駄目よ。供物を持ち逃げなんて許さない」


 ロシェと呼ばれた女の黄色い瞳が、ギョロリと少女を睨みつける。

 まるで死んだ魚のような気味の悪さに、少女は無意識にシスルの背に隠れた。


「いくら未来の聖女サマとはいえ、アイツはこんな小娘一人で御しきれるもんじゃねぇよ。もう村は諦めるしか……」


 シスルの肩が力なく震える。

 だがロシェの首はシスルを否定するように激しく振られた。

 

「お、おいロシェ……」

「皆みんなみな、まじる…の一緒いっしょょ……よ溶けてほどけてグチャグチャぐちょぐちょーー」


 首の骨が外れてしまったかと思えるほど、ロシェの首が大きく激しく揺れる。


「ロシェ!」


 シスルが手を伸ばしかけたその瞬間。

 ロシェの黄色く濁った瞳を突き破り、不気味な触手が飛び出した。


 この世に存在するあらゆる色彩を乱雑に塗りたくったような不気味なそれは、毛の生えた蜘蛛の脚のようであり、蛸の足のようであり、蛇の鎌首のようでもあった。


それが疾風の速さでシスルに襲いかかったのだ。


「ダメ!」


 咄嗟に少女が腕を引かなかったら、シスルは触手に喰われていただろう。

 寸前のところで二人は地面に転がりやり過ごせた。


「礼は言わないぜ」

「どうかお気になさらず。お互い様ですから」

「お互いさま?」

「先程、縄を切って助けてくださったでしょ」


 手に残る縄の跡を指差して、少女は微笑んだ。


「バカか。元はといえばあたしらが…」


 その時、シスルの顔から鳥面が落ちた。転がった拍子に割れたのだろう。


「あら。粗野な言葉つかいな割に、お綺麗な顔立ちをされているのですね」


 少女のような可憐さはない。だが灰色がかった髪に切長の瞳は、野生の猛禽のような凛々しさがある。


「うるさい。黙れ」


 深緑をした瞳が、少女を睨みつけた。


「シスルさん……とお呼びして良いのかしら。私はイオ。イオ・モ・エリオンと申します」


 イオと名乗った少女は、スカートの裾をつまむと、深々とこうべを垂れた。その何気ない仕草が、なんとも言えぬ品格を滲ませている。


「知ってるよ」

「あら。光栄ですわ」

「知ってるからあんたを攫ったんだ」

「あら。そうだったのですね」


 なんとも場違いなまでに邪気のない微笑みだった。


「そんなこと言ってる場合じゃあないだろ」 「それはごもっともですわね」


 穢れに満ちた瘴気が濃くなっていくのをふたりはひしひしと感じていた。


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