第二章 PPC


第二章  PPC


 月曜日。


「はぁっ、はぁっ……」

 見覚えのある河川敷だ。ふたりの少年が走っている。朝六時半。まだ少し空は薄暗くて、月が見えるほどで、それでいて太陽が存在感を表す頃合いで、徐々に街が照らされてゆく。河川敷の雑草、木々は朝露に瑞々しく照らされていた。



「はぁ……!」


 橋の袂でふたりが止まる。片方はだいぶ息が上がっていてバテている様子で、掌を自分の膝についた。


「あんた体力ないな。このくらいでヘバるなよ。頑張るって言ったのあんただよな?」

「ん、うん……はぁ、はぁ……はぁー……」

「ボイトレ、筋力つける、体力つける……いろいろやるんだからな。ほら、もう少し。走らなくていいから」

「うん……」


 もう走らずに、並んでふたりは歩き出す。

「れいと君、毎日走ってるの?」

「あー、親次第。弟たちの飯用意しなきゃならない時は朝忙しいから」

「ええ……? 大変だねぇ……」


 同じように早朝のランニングをしている数人のシニアとすれ違う。挨拶をされて、なぎとれいとも挨拶を返した。

 片方の少年も落ち着いてきたようで、ぐっと伸びをして朝日をめいっぱい浴びる。

「帰ってシャワー浴びて学校行って……えーと、今日は予定なんだっけ……」

「久しぶりの本社呼び出し。俺たちはまだメリ(仮)なんだ。多分その話だろう」

 メリ、かっこかり。

 そう、このふたりが、本編の主人公凪屋なぎと、それから、なぎが勧誘した新メンバー白樺れいとだ。

「わかった! じゃあ放課後ね。熊ちゃんに送迎してもらうけど、れいと君もそうする? れいと君学校どこ? 車、どっち先回った方がいいのかな……」

「俺は三中。だから、あんたの高校が先の方がいい。熊谷ならそのくらいはわかるから大丈夫だ。また放課後に……」

 なぎの足が止まる。れいとも釣られて止まる。


「?」

 れいとがなぎに近寄る。なぎは非常に面白い顔をしていた。驚いた表情。自分は何か変なことを言ったろうかとれいとは考える。

「れ、れいと君……」

「なんだ?」


「中学生なの⁉︎」


 早朝のさわやかな河川敷に、なぎの大きな声がこだました。



——————



 あの騒動から一週間たった。

 会見の中止騒動の次の日は流石に登校するのが気が引けた。昇降口で同級生、上級生に囲まれて質問攻めにされた。なぜならあの会見で、なぎが乱入して、れいとを勧誘するまでのほぼすべてが、ネットにニュースとして載ったからだ。テレビでも流されてし、今でもフルで動画サイトで見ることもできる。もちろん、黒瀬が確保されるところなども。ワイドショーも数日はその話題でもちきりで、しかし一週間経って、ようやく煙が落ち着いたようだ。この一週間、なぎはあまり自分の仕事まわりのことには触れないように、ぼかして話した。もちろん、熊谷を通して会社からは余計な事を言わないように釘をさされたし、なぎもそのつもりだった。そして会社はこの一週間でいろいろを調整するようで、なぎ、れいとはPPCには丸一週間行っていない。多分、謹慎めいた意味もある。ただではすまない。それもふたりとも分かっていた。熊谷が毎日、様子を伺う連絡をくれた。なぎは、れいとがメリに入ると言ってくれて、満足していて、その後の事務的なことが多少止まるくらいでは動じない。なぎは、れいととこんな歌が歌いたいとか、ギターを熊谷教えてもらおうとか、作曲について勉強をしようとか、学校にいても家にいてもとにかくいろいろ考えるのが楽しくて、更にれいとと数回会ってボイトレや筋トレをしたり、朝ランニングに付き合ったりと、この一週間は満足して過ごせていて、時間が過ぎていくのがとても早かった。


 放課後になり、熊谷の車が学校の駐車場に来た。

「熊ちゃん!」

「なぎ君、お久しぶりです」

 熊谷に会うのも一週間ぶりだった。

なぎが車に乗り込む。いつもの社用車。ドアが閉まるなり、なぎが話し出す。

「熊ちゃん! ちょっと、れいと君中学生だったの⁉︎ 俺、年上かと思ってた!」

「あれ、プロフィールを見た時に確認したかと……」

「よく見てなくて……びっくりしちゃった。あんなに背が高いのに、俺より二歳も下だって。……あれ、てことは十四歳⁉︎ 信じられない!」

 熊谷がくすりと笑う。なぎが元気そうにしているのを見て、安心したのだろう。過保護な面がある。

「ちなみに一ノ瀬君も十四歳ですよ」

「え⁉︎ るき君⁉︎ うわー……今の子って、皆大人っぽいよね……」

 車が発進する。なぎの次にれいとを迎えに行く。彼も公立だ。それからふたりは他愛もない話をした。なぎはご機嫌だ。しかし熊谷は、本社でのこれからの話が決して明るい内容ではないと思っていた。

「なぎ。……とマネージャー、どうも」

 れいとの学校に着いたら、れいとは校門で待っていた。周りに女の子が何人かいたが、別れて車へ向かう。

「れいと君、お友達?」

 なぎが問う。

「いや、知らない奴ら。いろんな奴らに絡まれるけどほんと邪魔」

「ファンは大切にするように。メリの方針をお忘れなく」

 熊谷が釘を刺す。やはり、れいとも学校では大変なようだ。なぎのように、入学前からメリのボーカルとして多少知られていたパターンとは違って、同級生がある日いきなりメディアに取り上げられるようなスターになったわけだから、れいとの苦労は計り刺されない。

「勝手に写真撮られてさ……すごく嫌だった」

「そういった事でしたら弊社で対応しますから相談して下さい」

「大変だったね、れいと君」

「まぁ、有名税ってやつだよな。で、今日やっと謹慎解除か。俺はこれから何の話するんだ?」

「実は私も聞いていないんです」

 ふたりがえ、と反応する。熊谷がミスをするとは思えないので、会社側が故意にそうしているのだろう。

「ここ一週間PPC内部はかなり荒れてました。オーディションの件、白樺君一ノ瀬君それぞれのことや、黒瀬の件などです。結局会見は途中で中止になりましたしね。皆残業でした。それで役員会議では、ファーレンハイトに一ノ瀬君が加入することは、そのまま決定しました。しかし……」


「メリ……か」

 れいとの声色は暗い。なぎも、表情が曇る。良くない状況なのだろうか。

「メリについてはまだ会議がなされていないにもかかわらず、代表取締役の方から、これから話があるそうです。私に事前に内容を明かさないのは嫌がらせでしょうけど」

 それはまぁ当然だろうとれいとは思ったが、言わなかった。熊谷も会見の際はかなり無茶をした。なぎの顔には大きく、不安です、と書いてあった。


「大丈夫。俺は……あんたと歌うって決めた。何があってもそれは変わらない」

 れいとの言葉を受けてなぎは、じっとれいとを見つめて、それからありがとう、と言った。

 不穏な空気を抱えたまま、車はPPCへと向かった。



——————




「それではさっそく本題に入りましょう」


 PPC本社。代表取締役、波々伯部悦子のオフィスに三人はいた。熊谷はしれっとしているが、さすがにれいとは緊張を隠し切れていない。

なぎの方は……一週間の謹慎めいた空白ひあったものの、なぎが歌うことを許可したのは悦子だった。なので、なぎは謝ったり悦子のご機嫌うかがいをする気もないので、なぜ空気がいまいちなのかがわかっておらず、半分困惑と、はやく新生メリを正式に展開したいので、半分は不満かもしれない。眉間に少々皺が寄っていて、悦子はとことん、なぎが大物だと思った。本来ならば先にここで、先日の会見について叱る必要があった。猛獣と猛獣使いには、明確な上下がある。


「メリは解散です」


「え⁉︎」

 唐突だった。

 オフィスの仰々しいデスクとチェアに腰掛けた悦子は、顔色ひとつ変えずに言い放った。

予想内の反応のなぎとれいと。熊谷も何も聞かされていなかったので、動揺というよりは、来たか、と思った。予想していた。

 逆光で、いつもの悦子より迫力があった。

「説明を願えますか?」

 熊谷が問う。

「メリには、商業的価値が見出せないからです」

 なぎとれいとは明らかに動揺していた。そんな風に言われると思っていなかった。これからだと思っていたから。

 だいたい、せつなの脱退を受けてなぎが新メンバーを探していることは、会社も了承しているはずで、それはつまり、メリの存続の黙認だとなぎは考えていた。

 悦子は続けた。

 先週の段階では、悦子や役員らも、なぎが新メンバーを募集していることは了承済みで、メリは存続してもいいかもしれない、という判断だった。せつな無しのなぎにどれほどできるか、動向を伺っていた。新人によっては、メリに商業価値がまだあると判断したかもしれない。しかし、なぎが選んだのはれいとだった。れいとはファーレンハイトの大型新人の予定だった。それをメリが、なぎが横から攫った形になる。それは話が違う。れいとがファーレンハイトに入るのとメリに入るのでは、今後の会社の利益に大きな差が出る。


「白樺くんには、ファーレンハイトに入って欲しいの。メリに入るというのは、口約束。まだ撤回できます」

「俺はその気はないです。なぎと歌う」

 キッパリとれいとは言い切る。なぎはれいとの顔を見る。しっかり悦子を見ている。

「あなたはどう見ても、ファーレンハイトの方が、利益を出せるの。メリでは、あなたの個性を活かせない。実力不足の凪屋くんに、メリに合っていないあなたを加えたところで、このふたりでメリを続けて、利益が出るとは思えないの」

 実力不足。そう言われては、なぎは何も言い返せない。

「そもそもメリはせつなありきの、せつなのためのユニットだった。彼がいない今その価値は無いのよ」

 れいとはこの言い分は気になった。白鳥せつなのことをれいとはほぼ知らない。

「なので、今週末、役員会議でメリの解散を決議します」

 なぎが待って、と言いかけた。悦子の話はまだ続いた。

「それまでにもし何か、今のメリに商業的価値があると判断できるような何かが見つかれば、あるいは状況も変わるかもしれません」

「……!」


 つまりこれは、チャンスをもらった、ということだった。今日は月曜。役員会議は金曜だ。五日間で、何かを考えなければ、メリは解散。れいとはファーレンハイトに。なぎはクビだ。なぎがクビになればもちろん熊谷も辞めてしまうだろう。


「わかりました……」

 なぎが返事をする。出ていっていいと言われて、揃って退出した。オフィスのドアは中が見えるようにガラス張りなので、悦子がこちらを見送るのがわかった。

 三人で廊下に出る。熊谷もれいともまず一番になぎを見た。なぎは俯いていて表情がわからなかったが、すぐに二、三步ふたりから離れた。


「ご……」


「ごめんなさい‼︎ ふたりとも‼︎‼︎」


 なぎは勢いよくふたりの前で頭を下げて、謝罪した。

「⁉︎」


「なぎ君」

 すぐに、熊谷がなぎに近づいて、顔を上げさせた。なぎの顔を見てれいとはどきりとした。泣いてる。

「お、俺のせいで〜……」

「なぎ君は悪くありませんよ。謝る必要もありません」

 泣くのはまぁわかるが、れいとにはなぎが自分たちに謝っている理由がわからない。熊谷がなぎの涙やら鼻水やらをぬぐっている。昔の弟たちを思い出した。

「だって、俺がもっと実力があれば、メリが価値がないなんて言われることもなかったのに。せっかく入るって言ってくれたれいとくんに申し訳ないし、いっしょにがんばってきた熊ちゃんに申し訳ないし……」

「代表取締役は猶予とチャンスをくれました。彼女にしてはかなりの待遇です。これはなぎ君だからですよ。なぎ君は認められているんです。だから、一緒に考えましょう。大丈夫ですよ」

「熊ちゃん……」

 ふたりにとっては死活問題だが、れいとはメリが解散になってもファーレンハイトという受け皿を提示されている。なのでこの場ではふたりよりはマシかもしれない。

「泣くな」

 れいとがなぎに近寄る。

「ファーレンハイトには入らない。メリが解散するなら、俺はPPCを辞める」

「え⁉︎」

 なぎの驚いた声。

「ど、……どうし、だめだよ! お金いるって言ってたのに! それでオーディション受けてファーレンハイトにって……」

「この状況で俺だけリスクもないのはフェアじゃないだろ。それに……」

「?」

「もう、あんたと歌いたいと思った。それが叶わないならPPCなんている意味ない。……金はバイトとかして稼ぐし」

「……!」


 窓から光が差し込む。れいとの横顔が神々しいまでに眩しい。

 最初に一緒に歌いたいと思ったのはなぎだ。今はれいとも、同じように感じてくれている。

なぎは嬉しくなった。しかし同時に、れいとと熊谷、双方の未来を自分が背負っていることを自覚した。何か考えなければ、三人ともPPCとはこれまでだ。

 なぎはぐっと、自分で涙をぬぐった。


「熊ちゃん、れいと君……」


 ふたりがなぎを見る。それぞれ返事をした。

「一緒に、あと五日で、何か考えよう! メリを無くしたくない!」


 力強い声だった。ふだんぽやっとしているなぎにしてはしっかりとした強い評価だった。また、それぞれが返事をした。目標は決まった。


 なぎが真ん中にたってえいえいおー! と最後に決めた。




 その後三人は会議室であーでもないこーでもないと作戦会議をした。

 議題はメリに商業的価値があることを示すにはどうしたらいいか。

 知名度、マーケティング、マネジメント……難しい話も出た。(主に熊谷からだが)最終的には、アーティストの原点に立ち直る考えに至った。作品を発表し続けることだ。これが、クリエイターの鉄則だ。これのできない人間はクリエイターとは言えない。つまりなぎとれいとは新曲を完成させること、が目標になった。曲は、なぎがれいとのために初めて作った曲と、まだせつながいた頃からレコーディングのために練習していたこの二曲。これを急遽完成させることが目標となった。また今回のみ、熊谷が編曲を担当すると申し出た。流石に素人同然のふたりでは商業的レベルをクリアした曲になるかが不安だった。曲が完成しなら披露する。権利関係などは熊谷が調整することになり、ふたりは作曲とレコーディングに打ち込むことになった。

 月曜日はこのように、今後の方針について固まり、解散となった。



——————



 夜、なぎが帰宅し、家族と過ごしていると、スマートフォンにメッセージが入っていた。

ななみ、ぎんた双方からで、騒動を心配している件や、社内では正式にせつなの脱退が告知され、すぐにプレスリリースがあることなどが記されていた。そして、なぎに、いつでも自分のユニットに来ていいとふたりとも再び提示してくれた。そして最後にイベントが楽しみ、ともあった。そこでなぎはイベントって何だっけ、と思った。何かあったかもしれないが、思い出せない。ふたりに返事をして、それから今後について考えようと思ったら、母親に呼ばれた。手紙が届いているという。差出人を見て、なぎは驚いた。

「せつな君⁉︎」

 せつなからだった。

 アメリカにいることや、騒動を知った事、そろそろ自分についてのプレスリリースがあること……だいたいがななみ、ぎんたからのメッセージと同じでこちらも最後に年末のイベントについて楽しみにしている、とあった。

「年末……の……あ‼︎‼︎」

 ここでようやくなぎは、イベントが何かを思い出した。




——————




「クリエイティブイベント?」


 火曜日。

 また放課後に、なぎとれいとはPPCに集まった。熊谷もいる。三人は会議室でメリ存続のための作戦会議の続きだ。疑問の声を挙げたのはれいと。

「まずクリエイティブイベントとは、毎月のイベントの名前です」

 熊谷から説明が入る。ホワイトボードに資料が貼られた。

「年末にやってる、同レーベルで人気の奴らだけが集まる大型のライブとは別か?」

「あちらと地続きなんです。白樺君が言うのは、Pレーベルの人気上位六グループが一同に会する大型のライブですね。この人気六グループを決めるために、毎月のクリエイティブイベントがある、というわけです」

「なるほど。去年、年末のライブにメリは出てないよな?」

「せつな君が年末年始働きたくないって……。毎月のクリエイティブイベントは見てはいたよ……六月から十一月まで、月一回。結局メリは一回しかやらなかったけど」

 必然的に、新人のれいとに、なぎと熊谷が説明をする形になる。

「クリエイティブイベントってのは何をやるんだ?」

「なんでもいいんだよ。ライブでもいいし、テレビに出たり……月一回同レーベル内の他のユニットと合同で何かイベントをやる、ってのがクリエイティブイベントの目的で、そこでファンやマスコミの反応とかから、人気ユニットが決められて、六グループが年末のライブに出られるんだ」

 熊谷の話によると、人気ユニットの選考は内部で様々な条件から決められ、決して単純な人気投票ではないこと、月一回のイベントではユニット同士で話あってイベントが決められて、そこは自主性が尊重されるとのことだった。

 昨年のPレーベル内の人気の六ユニット中、三人がよく知るのは、ファーレンハイト、ツインテイル、ミーハニアの三つだった。また当然ながらファーレンハイトが人気No. 1で、ライブのトリでもあった。

「せつな君は行かなかったけど、俺熊ちゃんとふたりでライブに行ったんだよ。関係者席だから、特等席! ひゅうが君かっこよかった〜! ぎんた君とななみ君も凄くって……」

 なぎがぽや〜っとした顔で、思い出を語る。年末のライブは特に力が入っているらしい。

しかし、れいとはさらに疑問に思った。金曜にはメリの存続が決める。来月(六月)からのクリエイティブイベントだとか年末のライブだとか、そんなものに気を取られている場合だろうか?


「で、俺は考えたわけです!」

 なぎが立ち上がる。

「?」

「クリエイティブイベントをがんばって、レーベル内上位六チームに入って、年末のライブに出ます! メリが人気だってことの証明になると思うの!」


「まぁ、それは確かに……。そうじゃなくて、その前の段階が問題だろ」

「金曜までにレコーディングして、できた曲を代表取締役に聞いてもらうよ。そこで、チャンスをくださいって言うつもり」

「なるほど……」

 確かに結局、できたものを聞かせる、これ以上でこれ以外の手段はない。自分たちの作るものが良いものかどうか、それだけだ。

「レコーディングについて、水曜日の午後にリハ、木曜の午後に本番です。木曜の夜から金曜の朝にかけてこれを代表取締役に役に提出しまして、あとは金曜の午前中の会議でどうなるか、ですね」

 熊谷がスケジュールを発表するが、かなりの突貫工事だ。

「明日がリハ、か。編曲は?」

「今回私が担当し、既に終わってます。プリプロも突貫でしたが、済ませました。これが音源です。レコーディングで完成の状態です」

「はい、れいとくん、これは俺が作った曲の歌詞だよ。デュオだから。それとこっちが、せつな君が最後に作った曲で、これは俺はかなり練習したよ。れいと君はどうする? コーラスやる?」

 熊谷が用意した音源と、なぎが歌詞が書かれた紙をれいとに手渡す。熊谷からはCDのジャケットのデザイン案などの資料が手渡された。目を通す。確かにあとはレコーディングするだけで、やれることがない。これが、れいとのメリとしての最初で最後の曲になるかもしれない。

「熊ちゃん、リハも本番も放課後でいいの?」

「はい、大丈夫ですよ。学業も大切にして下さいね」

「よし、わかった。なぎ、これから少し、練習しよう」

「うん!」

 明確にやることが決まった。あとは、全力を出すだけだ。熊谷がスタジオを押さえているというので三人は移動して、木曜のレコーディングの本番に備えて練習をすることになった。当然、熊谷が楽器を演奏したのだが、ギターのほかピアノやドラムもできるので(しかも完璧に)れいとがかなり驚いたのはまた別の話……。


——————


 水曜日。学校にいる間に、なぎ、れいと双方に熊谷から連絡があった。せつなの脱退に関してのプレスリリースの日程の会議を行なっていて、長引きそうで、送迎に行けない、とのことだった。こういう場合熊谷は会議をほっぽって送迎を優先しがちだが、それほど大切な会議なのだろう。現地集合で、電車を使うかか、タクシーを拾って領収書をもらってくるように、とふたりにはあったが、なぎはれいとに、待ち合わせをしてふたりで一緒に行かないか、と提案した。れいとから了承する旨の連絡が来たのだが、その後どこで待ち合わせをするかまでは連絡が来ないまま放課後になってしまった。




——————




 一方、都内のとあるスタジオ。ここは、ファーレンハイトの専用スタジオだ。ミーティングや練習に使われる。その辺の一軒家の数倍、商業的な建物に見える程の大きさで、監視カメラに、高い塀に、警備員もいる。セキュリティは万全。

そこに、タクシーが一台停まる。降りてきたのは一ノ瀬るきだった。


 ファーレンハイトへの加入が決まった新人。この日は顔合わせに呼ばれた。呼び鈴を鳴らす前に、ひとり男が出てきた。ファーレンハイトのマネージャーの、五十嵐たまきだ。

「お疲れ様です。どうぞ中へ」

 ファーレンハイトは基本、現地集合現地解散。新人のるきにもそのように伝えられた。メリのように、マネージャーがアーティストにべったりではない。(これを熊谷に伝えれば、恐らく熊谷は光栄です、と笑うだろうと想像して、るきは少々気分が悪くなった)

ロビーに入ると中は吹き抜けのコンクリート打ちっぱなしの壁に、天井までの大きな窓。明るく静かで心地の良い日差し。レコーディングも完璧にできる機材の整った設備の他に宿泊もできるように整えられていて、メンバーはいつでも自由に出入りして使って良いとのことだった。マネージャーの五十嵐から、るきにカードキーが渡された。

 ミーティングルームへ通されると、そこへ居たのは四人。全員ファーレンハイトのメンバーだ。

 男がひとり、るきが入室するなり立ち上がり、気さくに挨拶をしてきた。


「新人くん! 一ノ瀬くんだったね。はじめまして。ファーレンハイトへようこそ、自己紹介、いる?」

「三宅すず……先輩。言わなくてもわかるっス」

 三宅すず。暖色系の髪色に人懐こいにこやかな笑顔だ。メガネも特徴的だ。

 この通り、ファーレンハイトの中で一番か二番目に社交的でまともに見える。広報担当でSNSなどの更新はほぼすずの仕事だ。あまりファンサのないファーレンハイトでは貴重な人材だが……いささか黒い噂があるので実態はわからない。

「すずでいいよ。敬語もいらないよ。ひかるが遅れているんだ。悪いけど、メンバーの紹介がてら待ってもらうからね」

 メンバーはそれぞれ、部屋の端のソファだとか、真ん中のダイニングだとか、各々が別行動で、るきの入室にも動じていない。歓迎されていないんだな、とるきは感じた。

「皆、注目。ファーレンハイト期待の新人一ノ瀬るき君だ。まだ中学生だ。よろしく頼むよ」

 マネージャーの五十嵐が手を叩いて、ようやくほかのメンバーがるきに注目した。

 ひとりが読んでいた雑誌を置いて、るきに近づいてきた。

「兄さん、あんまりプレッシャーかけないであげたら?」

「だって彼は五万人の中から選ばれたんだぞ。凄いことだろ?」

 マネージャーの五十嵐を兄さん、と読んだ。この青年……まだ大学生くらいだろうか、彼はマネージャーとは兄弟だ。ファンなら皆知っている。髪をハーフアップにしている。服装はラフだ。彼はファーレンハイトでは、いや、PPCのPレーベルではツインテイルのふたりの他に唯一絶対音感があるらしく、作曲ではそのふたりにも劣らない才能の持ち主だ。

「五十嵐つきは。よろしく」

 握手を求められ、るきは小さく返事をして握手した。るきの周りに、マネージャーの五十嵐と、すず、つきはが並ぶ。全員がるきより大きい。だが、それよりさらに身長の高い男が近づいてきた。

「二ノ丸とうやだ」

 二ノ丸とうや。彼に関しては、ひゅうがに絶対服従の腰巾着、と、るきは思っていた。ひゅうががこの空間にいないのに、こうして自ら挨拶に来るとは思ってもいなかった。背も高く、筋肉質。短い黒髪。レベルの高いダンスを容赦なく要求する、ファーレンハイトの振り付け担当。

 しかし、残りひとりはこちらに来る様子はないようで、マネージャーの五十嵐がるきに紹介した。

「あっちが四宮たかひろ。悪いね、彼集中すると周りが見えなくなるタイプで、話しかけてもダメなんだ。今次のライブの衣装を考えてるから、放っておいていいよ」

 ダイニングで神経質そうなメガネの男が何か作業をしていた。紹介された通り、集中しているようで動じない。


 こうして一通り、その場にいたメンバー同士の交流が済んだ。その時、ひとり男性が入室してきた。

「遅れたぜ悪い‼︎」

 バーン、と派手な効果音がつきそうなくらい、大きい音と態度でひとりの大柄な男が現れた。

 がさつな仕草。快活そうな笑顔。


「ひゅうがはもう来てんのか? ……あ、オイ! こいつ……」

 低い声にざっくばらんなな言葉遣い。ファーレンハイトサブリーダーの睦月ひかるだった。非常に容姿端麗で、るきは思わず見つめられて、少し怖いとまで思った。それほどの美形だ。美少女といっても過言ではないようなかんばせが低い声でガハハと笑、下は一九〇センチメートルの長身、……なかなか受け入れ難い様相だ。

「わかってるぜぇ! 新メンバーの一ノ瀬るきだろぉ⁉︎ 俺は睦月ひかるよ。よろしくなぁ! 皆遅れて悪い! さぁ、ひゅうがは?」

 ここでようやくたかひろが手を止めた。

「隣の部屋にいるよ」

 マネージャーが言う。ひゅうがも居たようだ。ひかるは隣の部屋に足早に入ろうとした。

「ひゅうが、悪いぜ! 遅れ……」


 カウチソファにひゅうががいた。

 上半身だけ起こして、読書をしている。

 ひかるに続けて部屋に入ろうとした全員が、ひかるが止まったため同じように立ち止まる。


「ひゅうが、動くな!」


 途端にひかるが、カメラを取り出してひゅうがを撮影し始めた。

 ひゅうがは小さくまたか……と言った。

「完璧たぜ! オマエさんってほんと、不意のショットがイイよなぁ! 今 俺は大富豪の気分よ! オマエを金で囲ってる!価値あるものを手中に納めたこの世の権力者の気持ちだ!」

 一同とまたか、といった感じでバラバラと部屋は入って行く。るきも入室した。

「ひかるさん、早く顔合わせ終わらせてましょーよ……」

 つきはが声をかける。ひゅうがが本を閉じて、ソファから起き上がる。

 じろりとるきを見た。るきはひゅうがと会うのはあのオーディション以来だった。これで、ファーレンハイト六人に新人のるきを足した七人、全員が揃った。

 マネージャーの五十嵐が前に出る。

「ひゅうが、彼が一ノ瀬るき。ファーレンハイトの新メンバーだ。次の新曲のレコーディングから参加する。よろしく頼む」

「よろしくお願いします……」

 るきは、ひゅうがのことはファンとしてはよく知っていた。圧倒的な歌唱力と(滅多にダンスはしないが)ダンスの実力もあって、容姿も良くて、背も高い。カリスマ性、存在感。完璧なフロントマン。しかし、歌以外の仕事は拒否する。CMに出るとか、歌番組で宣伝をするとかはしない。ファンサもしないし、サインを描いたり握手会などは論外。さらに、笑わないことで有名だ。一匹狼で、オフの日に何をしているかも不明。それらの情報はあくまで、いちファン、外部の人間の視点でのデータにすぎなかった。実際のひゅうががどのような人間なのか、るきは知らない。

「オーディションで選ばれたヤツか」

「そうだ。五万人の中から選ばれたひとり……。会社側からも彼を大事にするように、とのお達しがある」

「くだらねぇ……」

「!」


 ひゅうがは明らかに不機嫌だった。それはるきも心当たりがあった。ファーレンハイトは、今の形で完璧なユニットだ。それを、会社の利益のために、会社の重役が揃ってひゅうがに頭を下げて、オーディションで選んだ物を新メンバーにするように頼みこんだのだ。この話はオーディション参加者全員が知っていた。


「じゃあ……」

 るきが前に出る。

 他の皆が気付く。るきの言動の行方を見る。

「じゃあ、誰なら満足なんスか」

「あ……?」


「ファーレンハイトに俺が入って、今より良くなるって考えは? 考えないなら、あんたこそここで止まる!」


 るきは、今日初の顔合わせとは思えない態度でひゅうがに噛みついた。年上で、先輩で、経験則もある、実力も上のひゅうがに、だ。ファーレンハイトが好きだ。ひゅうがを尊敬している。それは無関係だ。るきの上昇志向で気が強い生来の性質がそうさせた。


「答えてくださいよ。……れいと?……ぁあ、凪屋先輩っスか!」

「!」

 一同の、空気が変わる。なぎの名前が出た途端だった。まずい、と思ったメンバーと、一切動揺せずにひゅうがの動きを伺うメンバーに別れた。


「あいつのどこがいいわけ? メリって白鳥せつなはともかく、凪屋先輩はどう考えても素人に毛が生えた程度じゃん。俺の方が絶対に……」


 ひゅうがが立ち上がる。そのままるきに近づいて行く。マネージャーの五十嵐が、ひゅうが! と声を上げるより先に、るきの首元を抑えて壁へ押し付けた。

どん、と鈍い音がした。


「うっ……」


「俺の前で凪屋なぎを侮辱するのは許さない」


 誰も止めない。五十嵐のみが、遠くから声を上げているだけだ。

「いいか、新入り。ファーレンハイトにはひとつルールがある。リーダーに絶対服従だ。それができればいい。もう一度言う。凪屋なぎを侮辱するヤツは俺が許さない。返事は?」

「……っ」

 るきが小さく、何度も頷くと、ひゅうがはるきを解放した。そして大きな音を立ててドアを乱暴に開けてその場から消えた。るきは背中を丸めて、息を整えた。五十嵐が気遣おうと手を差し伸べたのを、振り払う。

「なんなんスかあんたら! 助けろよ! 目の前で中坊が暴行されてんだぞ!」


「ぶはははは!」

 ひかるが大声で笑った。そんな空気ではない。

「やるじゃねぇか新入り! あのひゅうがを初日で怒らせたのはオメーがお初よ!」

「……」

 それは良いことなのか悪いことなのか。

 つきはとたかひろはいかにも哀れんだ目でるきを見ていた。ひゅうがの言動にまったく無反応だったのがひかるととうや、すずだ。ここでメンバーが二分されているわけだ。ひゅうがの王国には、盲目の従者と、そうでない者がいる。るきは果たしてどちらになるのか。「今日は優しい方だよ」と、つきはが発言した。曰く、以前PPCでなぎの悪口を言った社員を殴ったらしい。謹慎になったとか。

「なんで……そこまで……」

 何故ひゅうががなぎをそこまで特別視するのか。るきにはわからない。五万人の中から選ばれた自分より、あんな、あんな……。

 ひかるがるきの前に立つ。

「俺はオメーを気に入ったぜ! 一ノ瀬るき。ひゅうがにタンカ切る新入りなんて最高だよ。だからひとつアドバイスをやる……。」

「……?」

「ファーレンハイトのリーダーは、ファーレンハイトで一番実力があるかどうか、それだけだ。そしてメンバーはリーダーに絶対服従。……下剋上もアリ。意味がわかるよな?」

「……!」

「オマエさんがどんな事情でオーディションを受けたかは知らない。興味はねえ。けれど、他人を見返したい、認めさせたい……そういう上へ行く気持ちがあるのなら、まぁ頑張れよ、少年」


 これはひかるなりの激励だった。メンバーが口を出さないのは、同じ気持ちだから。

 今日は顔合わせのみ。ひゅうがはどこかへいってしまった。他のメンバーは、残って仕事をする者と、帰る者に別れた。


 るきのファーレンハイト加入初日はこうして終わった。





——————


「ねぇ、校門にすごいイケメンがいるって! 学ランだったよ! どこの制服だろ!」


 なぎの学校。

 HRがあっさりと終わって、れいとに連絡をとろうとした時だった。別のクラスの女子が入ってきて、友達に大きな声で話しかけた。クラスの全員に聞こえた。続けて背が高い! 小顔! などと女子が騒ぐので、なぎは、はっとした。親しい友人に挨拶をして足早に昇降口に走った。校門へ向かう。やはり、れいとだった。

「なぎ」

「れいと君!」

 校門周辺は、まだHRも終わったばかりでほぼ人がいないものの、校舎の廊下からは校門が絶対に見える位置にあるので、窓からかなりの人数がふたりの同行を伺っているのがわかった。一階から三階まで、皆がなぎとれいとに注目していて、あれが白樺れいとか、とか、なぎといっしょにいる、とか、ふたりへの様々な意見や感想がざわざわと聞こえてくる。

「あんた人気者だな」

 れいとが笑う。ちょっと嫌味っぽくて、なぎは、俺じゃないと思う言いかけてやめて、そのかわりにれいとの腕に自分の肩をぶつけてみた。

「行こうか」

 駅まで歩く。二十分ほどだ。れいとは自分の学校から十分ほど歩いてきたと言う。来るならどうして連絡をくれなかったのかとなぎが問うと、れいとは驚かせたかった、と言った。効果は抜群だった。学校でどんなことがあったとか他愛もない話をした。電車に乗ってからは、ふたりとも降りた事のない駅へ行くので、レコーディングスタジオまでの道を確認したりして過ごした。そして降りて三十分ほど歩く。タクシーを使っても良かったが、なぎの体力育成を兼ねて歩こうということになった。

 実はリハの予定時間までにかなりあって、早めに行って自主練習をすることにしたのだ。熊谷からまだ連絡ないので、彼は遅れるかもしない。時間がかなり余っている。

 しかし五分ほど歩いて、誤算、というかふたりとも天気予報を機にするタイプじゃなかったのだ、傘がないのに、雨が降ってきた。急に土砂降りになるのでふたりはかなり濡れて、慌ててコンビニの入口で雨宿りをするはめになった。


「びしゃびしゃになっちゃった……」

「タオル持ってない。買ってくる。あんた風邪ひくだろ」

「じゃあ、俺が傘買うよ!」

 このままコンビニに入るのは申し訳ないので、ふたりはとりあえず濡れているものから水気を落とそうと、コンビニの前で悪戦苦闘していた。すると、目の前の駐車場にタクシーが止まった。窓が開く。


「何やってんだおまえら!」

「あ……!」


 るきだった。


 タクシーから降りてくる。

「るき君、こんにちは……」

「こんにちはじゃねぇだろ! なんでこんなずぶ濡れなんだよ! バカか⁉︎」

 るきとはあの会見の日以来だった。

 いつもそうだが、なぎと会うと彼はたいてい機嫌が悪い。

「途中で降られた。おまえこそどうして……」

 れいとがるきに聞くかきかないか。るきがなぎの手を引っ張った。

「家近いから来い!」

「え」

 なぎがタクシーの方へ連れて行かれる。まだ雨が強い。れいともついて行く。なぎがタクシーに押し込まれる。

「お前らはほんとに自覚ねぇな! 喉大事にするとか考えねぇのかよ! ほんとダセェ! プロ意識持てよ! 早くお前も乗れ!」

 あっという間にタクシーが出る。ふたりはなぜかなりゆきで、るきの家へ向かうことになった……。




——————



 なぎは、るきの家に着くまで終始、雨に濡れたことやこれからのリハのことがどこかに飛んでいくほど、驚きっぱなしだった。今も口がぽかーんと開いている。


 タクシーは街路樹を進み、閑静な道路に入る。どうやらほとんど私道らしく、一般車両がいない。その先に大きな門があって、警備員がいて、そこでタクシーを降りたが、降車の際にるきが、席を濡らしたクリーニング代だと行って五万円も出した。コンビニからは十分も走っていない。なぎは驚いて、また自分たちのせいでタクシーの座席を汚したと気づいて、謝って、自分もいくらか出すと言ったが、るきに止められて、タクシーは去って行った。すると今度は別の車が来て、それに乗るように言われた。乗ると、タオルを渡された。初老のスーツの男性が運転をして今度は低層の高級マンションの地下駐車場へ進む。すべてがなぎが見たことのないような豪華なマンションで、この運転手が一ノ瀬家の専属コンシェルジュだと知ってなぎは度肝を抜かれた。(なぎはここを所謂、一、二億円ほどの億ションだと思ったが、実際は一部屋が十数億からだった)意外にもれいとは反応が薄い。そして、車を降りて、これまた一ノ瀬家専用のエレベーターを待つ。エレベーターに乗る前に指紋認証をしていて、なぎはもうついていけなかった。こそりと、コンシェルジュがふたりに近づいてそっと耳打ちをした。るきさんがお友達を連れてくるのははじめてです。とても嬉しいです。るきさんをよろしくお願いします。その言葉にようやくなぎは現実感を取り戻した。エレベーターが来て、三人で乗って、るきの家にようやくたどり着いた。


「入れ。シャワー使え。着替えは……お前は俺ので大丈夫だろ。凪屋先輩は……大きいのしかないけどガマンして下さい」


 玄関は吹き抜けで、床は大理石。よくわからない形の照明、大きなウォークインのシューズクローク。

 その後にロビーのような空間があって、ようやくリビングダイニングに入ると、大きな窓からは街が展望できて、広々としたそこに家具が点々としていて、もはや想像上のお金持ちのモデルルームがそのまま目の前に広がっているかのようだった。なぎはまた何も言えなくなった。


「なぎ、先に使え」

 れいとがなぎに先にシャワーを使うように促す。

「え⁉︎ あっ……れいと君先どうぞ! 俺年上だし!」

「だめだ。あんたが先。風邪ひく。早くしろ」

「いやいやいや、れいと君こそ! 中学生でしょ⁉︎」

 押し問答にるきのため息が響く。

「ふたりで使えばいいだろ」

「は⁉︎」

 なぎの盛大な声に、れいとがそうだな、と言った。またなぎが大きな声で「は⁉︎」と叫んだ。

「どっちだ」

「客用はあっち。いろいろあるからテキトーにどうぞ」

 れいとに手を引かれバスルームへ行く。なぎは、一緒にシャワーを浴びることが無理では? と考えていた。れいとが廊下で学ランを脱ぎはじめる。なぎの想像するシャワーは、一般家庭のそれだった。なぎの家の、一般的なサイズのシャワーヘッドに、一般的な水量。それでふたり同時にシャワーを浴びるのは厳しい、そう考えていた。

「大丈夫だから」

 れいとがそう言って、バスルームの扉を開ける。脱衣所の向こう、ガラス張りのシャワールームは、なぎの想像よりはるかにひろくて、何より、天井にシャワーがついていた。しかも、お湯が出る部分が、かなり大きい。(しかもそれとは別に、なぎが大体想像していたサイズのシャワーが低い位置についている)

 れいとが何が操作すると、また、なぎの想像をはるかに超える水量のお湯が出る。

「うそ……」

「ほら、早く来い」

 そのままれいとの言う通りに、濡れた服を完全に脱いで、ふたりでシャワーを浴びた。充分だった。それから、見たこともないブランドのシャンプーやリンスやボディソープを使った。とんでもなく良い匂いだった。出る頃にはタオルや着替えが用意されていた。それかられいとは、なぎの髪を乾かしてやった。その最中、ドライヤーも超高級品であることに気がついたが、なぎには黙っていた。るきが、ふたりの濡れた服をまとめておいてくれた。


「るき君、お金持ちなのかな?」

「さぁな。あんた裾……はぁ、ほら」

 なぎが一生懸命そでを捲っていたら、裾を踏んでいたので、見かねてれいとがしゃがんで、それを直す。まるで松の廊下だ。るきの用意した服はなぎには大きい。

「れいと君あんまり驚いてないね。俺、こんな家に来たのはじめて」

「あー……母さんの前の彼氏がこんな感じの家住んでた」

 ちらりと見えたれいとの家の事情になぎはきょとん、としたがすぐに表情が変わる。れいとは足にもふ……と何かを感じた。

 なぎが叫ぶ。

「わんちゃんだー!」

 れいとが横をみると、犬がいた。

「うわ」

「かわいい! るき君のペットかな! おいで! わぁ、いいコ!」

 なぎが犬を抱き上げる。犬は尻尾を振って喜んでいる。小型犬だ。シーズーとかトイプードルとかに似ているが、雑種に見える。

「おい、お前ら……って、あ!」

 るきがふたりを呼びに来て、犬と戯れるなぎに気付く。

「るき君、お風呂ありがとう! あったまったよ! 着替えもありがとう! このコ、るき君の? すごくいいコだね! かわいい!」

「……」

「名前は⁉︎」

「……ジョン」

 なぎに一気にいろいろ言われて、るきはばつの悪そうな顔をしていた。


 リビングに来て、時間を潰すことにした。熊谷から連絡があって、会議が終わったため、時間どおりにスタジオに行けるくらいに迎えにくるらしい。

 そのやり取りをしたのはれいとの方で、なぎは犬と遊んでいた。なぎを横目にれいととるきは並んで飲み物を作っていた。ふたりはコーヒー、なぎは飲めないというので、ココアだ。

「なんで、俺たちを助けた?」

「貸しだ。貸し。返せよ?」

「……」

 オーディションの時から、れいとは一方的にるきに絡まれてはいた。しかし、るきはなぎのことを良く思っていなさそうだったので、何故自分たちに良くしてくれるのかがわからない。


「あ、すごーい! ファーレンハイトのライブのブルーレイだ! 俺はDVDなのに!」

「おい! 漁っていいとは言ってねぇぞ!」

「え⁉︎ まって、これ、この壁、もしかしてテレビ⁉︎ 俺の布団より大きい‼︎ あ、ゲーム見つけた!」

 なぎがはしゃいでいる。れいとはそれを遠くから見守ることにした。犬のジョンもなぎのまわりをうろうろしていて、なぎが膝にのせたり、撫でたりしている。

 なぎがブルーレイが見たいというと、意外にもるきは従って、大きな画面にファーレンハイトのライブの映像が映る。

「これ、年末のライブのだ! 俺行ったよ! 去年! 俺はね、二曲目が最高だと思ってる!メロディも歌詞もいいよね!」

「二曲目B面のやつだろ。」

「B面は名曲が多いって言うでしょ!そうだ、るき君はファーレンハイトに入るんだよね?顔合わせとかもうしたの?」

「……した」

 れいとが、できた飲み物を持ってふたりに近づく。

「したよ。したけどやっぱり、ひゅうがさんがなんでアンタを特別視してんのかわかんねーよマジで」

「え? あー……」

 れいとは察した。何かがあったらしい。

「俺特別視なんてされてないよ。ちょっと仲良いくらいで……」

「されてるよ。……なぁ、なんで俺がオーディション受けたと思う?」

「え……」

「れいと、お前は金のためって言ってたよな?……俺も目的がある」

 ジョンが、なぎの膝をおりてるきのそばへ行った。

「目的……?」

 なぎには、わからない。楽しいから、好きだから、を許されて、熊谷やせつなに庇護されてきたなぎには、れいとの、るきの、オーディションにかけていた思いを理解することはできない。

「見てわかるだろ? ウチの親弁護士。ふたりとも政治関係の案件中心だからすげー金はある。でも、クソ野郎だよ、ふたりとも。俺のことは世間体のために作ったから、あとは興味なくて放置だ。……俺の家族はジョンだけだ」

 部屋からは曇天の空が専用の展望台のように大きく見えた。なぎがすべてをすごい、とかよくわからないとか、表現するしかない途方もない大きさのリビングに、三人と一匹がぽつんと佇む。

「親を見返してやりたいのか」

 れいとが返答する。

「親だけじゃねえよ! 全員だ! この世の全員が俺を認めてひれ伏すようにしてやる!」

「……」

「五万人の中から選ばれたんだぜ! なのに、あんただよ! 凪屋なぎ! 俺のデビューぶち壊して、ひゅうがさんだって俺よりあんただ! ……てめぇもな!」

「え、そ、その節は……」

「俺はファーレンハイトのボスになる」

「はい⁉︎」

 唐突なるきの宣言に、ふたりとも驚く。

「ファーレンハイトのルール……リーダーに絶対服従……! 俺は今より高みを……ひゅうがさんを超える。凪屋先輩、そしたら、俺、れいとをもらうから」

「え⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」

「勝手に決めるな」

「楽しみにしてろよ。それまで、メリでいてくれよ。今週末だっけ? いろいろ決まるの」

「う……」

「俺はお前がなんで凪屋先輩を選んだのか……少しわかってる。だが、それ以上のものを魅せてやる。いずれお前の方から、ボスの俺に頭下げてくるようになる。メリを辞めて、ファーレンハイトに入りたいです、るき様ってな」

「……」

「だから、その時までしっかりやってくれよ、風邪ひいて喉壊すとかありえねぇから」


 こうして三人は奇妙な関係になった。れいとを巡るなぎとるきの対立。でもそれ以前に、メリ存続の危機を回避せねばならない。なぎは、考えるべきことがたくさんあった。れいとのスマホが鳴る。熊谷だった。迎えだ。

「熊谷か。行けよ。じゃあな。服返さなくていいから」

「る、るき君……」

「何だよ」

「れいと君に、捨てられないように、俺こそがんばるから……! だから、れいと君は渡さない! あと、また遊びにきていい⁉︎」

「は? いや……後半のは何だよ⁉︎」

「ここ楽しいから! ぜったいまた来る! 行こう、れいと君、じゃあね、ジョン、るき君!」

 なぎが立ち上がる。れいとはごちそうさま、と言ってカップを置いた。犬をなでて、ふたりで荷物を持って玄関へ向かう。るきは、なんだかぽかーんと、面白い表情をしていた。

雨は、もう上がっていた。


——————



 玄関を出て、エレベーターへ向かう。

 歩きながら、なぎはれいとへ振り向く。

「ライバル出現だね! 俺、負けないからね!」

「あぁ、そうしてくれ」

 意外にも、深刻さはなく、なぎは嬉しそうにしている。実際、うれしかったのだろう。せつなの陰で、せつなありきのメリだとか、実力不足だとか言われてきた。るきの存在は張り合いになる。あまり競走や勝負ごとに興味のないなぎにとっては、人気投票だの売り上げだのの数字より、誰か、がよっぽど戦う理由になる。そういう性質だ。


「メリ存続、がんばらなきゃだね! ……あ、そういえば、ねぇ、なんで、俺を……ファーレンハイトより、メリを選んでくれたの? まだ聞いてなかった」

 エレベーターが来る。れいとがなぎが乗って、それからドアが閉じて下へ向かう。

「あんたと歌いたいから」

 それ以外の答えはない。しかし、なぎがじっとこちらを見てくる。何かおかしなことを言っただろうか。

「それはどうして?」


 れいとは、はっとした。


「それは……」

 何故、なぎと歌いたいと思ったか?


 先程るきは、それがわかると言っていた。しかし肝心のれいとに、それがわかっていなかった。なぜ、なぎを選んだ?

 わからない。

 答えが無いので、なぎは不思議そうに、首をかしげる。エレベーターのドアが開く。そので一旦話題が止まってしまった。

 マンションのエントランスでコンシェルジュに一言声をかけて、また来ると言ったら、コンシェルジュは嬉しそうにしていた。駐車場に出ると、熊谷がいた。熊谷が会議で送迎ができなかった件について謝罪した、ふたりもまた事情を説明して、それからレコーディングのリハへ向かった。


 道中もれいとは、先程のなぎの質問について考えていた……。



 レコーディングのスタジオに着いて、リハを始める。エンジニアやスタッフに挨拶をして、機材の調整や、声出しをして、リラックスした雰囲気でリハは進んだ。


 なぎは広いスタジオが楽しいようで、ちょろちょろ走り回っていた。

れいとはいつもと変わらず、落ち着いていて静かで、歌詞カードや楽譜を確認していた。しかし、頭の中では、るきの家を出た時からずっと、同じことを考えていた。なぎはそれに気づいていない。しかし、熊谷がれいとに近寄る。


「何か考えごとをしていたようですが、大丈夫ですか?」

「……あぁ」

 あまり覇気のない返事だった。熊谷はそれ以上は追記しなかった。


 まずはそれぞれが歌う。

 れいとは歌詞も完璧に覚えていたし、コーラスも上手で、なぎを感嘆させた。


 なぎが作った曲と、せつなが残した曲、両方のリハだ。

 なぎの番になる。

 なぎは、相変わらず楽しそうだった。マイクの前に立ち、れいとの方を向いて、笑う。なぎの歌声を聞くのは会見の日以来だった。

 どうしてなぎと歌いたいと思ったのか、あの会見の日を思い出す。


 そうだ……。

 楽しそうだった。

 なぎと歌うと、楽しいのだろうか。

そうだ、それを確かめたかったんだ。


「では次はふたりで歌って下さい」


 はーい、となぎが返事をする。れいとが、なぎの方へ向かう。マイクの準備をして、なぎの横に並んで、曲が流れる。

 なぎが歌い出す。れいとのパートは後だ。

 なぎの横で歌う。時々なぎがこちらを見て、にこーっと笑う。


 これだ。

 思い出した。あの、会見の時の、あの感覚を。心地よい。これは、なんという気持ちだろうか。


 二曲通してのリハが終わる。


「うわー、やっぱりれいと君、本当に歌うまいね! いっしょに歌うのすごく楽しい!」


 楽しい? ……これが、そうなのか。

 れいとは今まで歌う、ということに対して感じたことのない感情を覚えた。しかし、まだ、慣れない。それが快か不快か、まだよくわからない。馴染んでいない。

 なぎと歌い続けることができれば、その答えがわかるかもしれない。

 それから数回歌って、リハは終わった。リハでも充分に使えるとのことで、最後の方はレコーディングもしてもらった。使うかはまた別だ。


「ふたりとも、お疲れ様でした。本番は明日です。雨で体を冷やしたと聞いています、無理せずに、今日はしっかり休んでくださいね」


 ふたりは熊谷の送迎で帰宅した。

 その際も、れいとは考えごとをしているようで、なぎも熊谷もあまり触れなかった。




——————




「れいと君と連絡が取れない?」


 木曜日、レコーディング本番だ。

 なぎは放課後まで、マスクをして過ごした。五月なので少し暑くて不快だったが、喉を気づかってみた。そうしていたら、いざ放課後となって、熊谷から電話が入ったのだ。ベランダに出て熊谷と話す。


「はい。なぎ君より彼の方が連絡がまめなくらいなのですが、今日は一切返信がありません。何かわかりますか?」

「あ……俺が送ったメッセージも未読だ。」

 なぎが自分のスマホを確認する。

「今日のレコーディングは機材や人材の関係もあって、遅れるのは良くないのですが……」

「そうだよね……うーん……」


 どうしたのだろう。

 そういえば昨日は悩んだ様子だった。それが関係しているのだろうか。

「熊ちゃん、俺、れいと君の家に言ってみるよ! 場所知ってるから! 俺の学校からも行ける距離だよ。熊ちゃんも来て、そこで合流しよ!」

「わかりました。気をつけて下さいね、なぎ君」


 なぎは足早に学校を出て、小走りでれいとの家へ向かった。れいとが心配だった。何かあったのかもしれない。

 五分ほど行って、大きい交差点に差し掛かる。歩道橋を登る。急いで降りる。ひとが多くて、ぶつからないように気を使う。

 すると、最後の段差で足を踏み外してしまった。

 あ、まずい、転ぶ……なぎはぐっと、目を閉じて衝撃に耐えた。


 しかし、何の衝撃も起きない。

 ゆっくりと目を開く。


「……?」

「前もこうだったよな……」

「!」


 聞き馴染みのある声。

 れいとだった。

 なぎを助けてくれた。はじめて会った時のように。

「れいと君‼︎‼︎」


「うわ、うるさ。何……」

「だ、だって、どうしたの! 連絡つかないってくまちゃんがそれで俺……」

「あ……あー……そうだった。悪い」

「な……何かあったの……?」


 よく見たられいとは私服で、おそらく今日は学校に行っていない。

「と、とりあえず、熊ちゃんに、れいと君は無事って報告していい?」

「あぁ……悪いな……。……! あやと……!」

「え」

 話の途中で、れいとが走り出す。見るとその先には少年がいて、彼を追いかけているようだった。少年が逃げる。れいともそれを追いかけて、建物の角を曲がって消えてしまう。

「えええええ! ちょっ、待って‼︎」

 なぎもれいとを追いかけた。

 幸いにもれいとは路地にいた。

「れ、れいとく……」

「弟」

「えっ」

「弟。家出して帰ってこなくて、探してた」

 れいとから、事情が説明された。 

 れいとの家庭は、外国人の母がひとりでれいとと弟ふたりを育てている。すぐ下の弟、あやとが、先程追いかけていた、家出した弟だ。中学生一年生。(れいとはなぎに伝えるにあたりやや濁して表現したが)ヤンチャな連中とつるんでいるらしくて、説教をしたら帰ってこなくなって、流石に三日目なので、心配になって心当たりの場所を探していたらしい。

ふたりは歩道橋の下の通行邪魔にならない程度の場所で話し込む。深刻な雰囲気だ。だんだんと陽が翳り、建物の陰は薄暗くなる。一日中走り回ってたであろうれいとのスニーカーに影が差す。


「そ、そうだったんだ……。中一で家出は心配だね。」

「急にキレたんだよ。少し殴ったくらいで……」

「はい?」

 雲行きが変わる。

「なぐ……え?」

「あー……あんたは、妹だっけ? わかんないと思うけど男兄弟は暴力沙汰はフツーだから……」

「え……その……パンチってこと? す、素手で?」

「ビンで」

「ビンで⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」

「そんなに驚くなよ。フツーなんだって。カラだったし」

 なぎは、特段反抗期だの思春期だので家族に迷惑をかけることなく育ったし、兄弟は下に歳の離れた妹がふたりで、荒事には無縁だ。一般家庭並みだが充分に恵まれた家庭環境、また本人の性質のあって、暴力を一切知らずに育った。弟をビンで殴った、は、なぎには衝撃的だった。

「悪い。つか、こんな話やだよな。あと、ビンあけたのは母親で、俺は飲酒とかしてないから、誤解しないでほしい。レコーディングには間に合うようにするから、もうちょっと探したいんだ」

 酒のビンで殴ったのか……となぎは更についていけない状態だったが、反射的に答えた。

「俺も手伝うよ!」

「だめ。あいつフツーにバカだから、手加減とかできないから、あんたがケガするよ」

「え……」

 それは嫌だ、となぎは思ったが、れいとはれいとで、るきとは違う方向で、家庭に問題があるのだとなぎは思った。

 ぐっと、顔を上げる。


 力になりたい。


 メリの相棒として、仲間として、友人として、先輩として。


「ね、この辺にいたってことは、家に帰ろうとしたんじゃないかな? 家にいないかな?」

「……あぁ、そうかもな……」

「一旦家に行ってみようよ!」




——————




 れいとの家に行くと、駐車場で熊谷が車で待っていた。事情を説明する。レコーディングはもうすぐだ。あまり猶予がない。

 れいとが家に戻るのを、なぎもついて行くことにした。熊谷にはこの場で待ってもらうことにした。熊谷は、なぎが余計なことに巻き込まれることに良い顔はしなかったが、なぎはれいとについて行くと決め、一度決めたら譲らない人間なので、しぶしぶ了承した。


 団地の階段を登る。

「一回来たことある」

「あぁ、そうだったらしいな。……あ、下の方が帰ってきてるな。まやと」

 家に着くと、どうやら家出した方ではなく、下の弟が帰宅していたらしい。小学六年生らしい。

 れいとがカギを開けて、まやと! と少し大きい声で中にいる弟を呼び出す。まやと、という名前らしい。なぎは好奇心で、少しだけ玄関を覗き込んだ。靴が無造作に散らばっている。枯れた植木鉢。ほこりにすすけたビニール傘。

 するとしばらくして、弟が出てきた。なぎより大きいので、なぎは少し驚いた。

「あやとは」

「兄ちゃんおかえ……あやとは見てないよ。てかうわ、何それ! 凪屋なぎだ! 男? 女? キモ」

次の瞬間、ボコン、と音がして、れいとが弟の顔を殴っていた。

「わぁ‼︎⁉︎ ちょ、れいと君⁉︎」

 なぎはびっくりして、後ずさる。

 けっこうな勢いだった。弟の顔が、叩かれたところが赤くなる。

「てめー初対面のひとに失礼なこと抜かすなっていつも言ってるだろうが。ダセェんだよイキんな。謝れほら」

「え⁉︎」

「兄ちゃんがそんなんだからあやとが出ていったと思うんですけどー……ごめんねー、凪屋さん」

 なぎは正直、まだれいとが弟をひっぱたいたことに心臓がドキドキしていた。心臓を抑える。しかし下の弟のほうはひょうひょうとしている。あまり気にしてすらいない。本当に、今のが日常的な光景なのだろう。

「てか兄ちゃんずっと探してたの? ほっとけば?」

「そうはいくか。母さんが心配してる。もう少し探す。オマエはちゃんとカギかけとけ。なぎ、あんたは熊谷とスタジオに行って。俺も間に合うように行くから」

「れいと君……」

「じゃ、あとで」

 れいとが小走りで去ってゆく。なぎはその場に、れいとの弟まやととふたり取り残されてしまった。団地の飾り気ぼない、最低限の予算で設計された廊下の、蜘蛛の巣と虫の死骸がまとわりつく照明が点灯する。夜が来る。


「凪屋さん」

「え、はい?」

「ほんとにこーこーせー? 俺よりチビなんだね。テレビとか動画でも小さいなって思ってた」

「そ、そうだね……うん……」

 まやとがなぎに絡んでくる。真面目そうで常に冷静で寡黙なれいととはタイプが違うようだ。顔もあまり似ていない。

「あのね、ウチね、あんまし家庭ジジョー良くないの」

「え……」

「母さんは夜働いてて、彼氏しょっちゅう変わるし、まぁ悪いひとじゃないけど、良い人かって言われたら、自分の母親だけど正直わかんない」

 玄関が開きっぱなしのため、家の中のにおいがした。それでも、悪い家庭には思わなかった。れいとはしっかりしているし、今こうして話すまやとも悪人ではない。

 母親にいつか会いたいとも思った。きっと、いいひとだと。

「兄ちゃんはね、れいとのほうね。俺たちにちゃんとしていて欲しいみたいだけど、ダメだねー。すぐ手出るから。凪屋さんも気をつけてね」

「え……」

 なぎはれいとに対して、何か身の危険を感じたことはなかった。

「俺はね、あやとと違って賢いから、バランスとってんの。大変なんだよー」

 まやとが殴られた方の頬を抑える。

「だ、大丈夫?」

「え?」

「顔、痛い、よね……?」

「あはは、大丈夫だよ。れいとのほうは手加減上手いから。てか俺も普段はやり返すし! ね、あやとの居場所知りたい?」

「え⁉︎」

 唐突な情報だった。まやとは、れいとには内緒で、家出した弟のあやとと連絡を取っているらしい。

「れいとに教えたら、あやと逃げるけど、凪屋さんなら話せるかもな〜」

「え……」

「だから、れいとに秘密にするなら、教える。どうする?」

「……!」

 ここで、なぎの電話が鳴った。レコーディングが近い。今行かないと間に合わない、と熊谷から言われる。なぎはわかったと、今戻ると言って熊谷からの電話を切った。

「教えて!」


「!」

「俺が話すよ。あらためて……俺凪屋なぎ。れいと君の相棒なんだ。だから、俺関わるよ」



——————




「なるほど……」


 なぎは熊谷の待つ団地の駐車場へ戻った。

 熊谷の表情は当然芳しくない。

 まやとにあやとの居場所を教えてきてもらった。しかしそこには車でないと行けない。なぎは熊谷に事情を話して、協力を仰いで、相談した。


「熊ちゃん……俺、わかってるよ。レコーディングしないと……約束破るのだめだし、メリ存続の危機だし。わかってるんだ、ちゃんと……でも……」

「なぎ君、れいと君から連絡がありましたよ。直接スタジオに向かうそうです。けれど、彼には話さないで行きたい……そうですね?」

「う、うん、弟くんは、内緒っていうから、そうしたい……」


「なぎ君、なぎ君は今、ふたつ、選択ができます。ひとつめがスタジオに行ってレコーディングをすること。ふたつめが、レコーディングを諦めて、れいと君の弟を探すことです。それぞれの選択を取った場合のメリットデメリットについて、考えましたか?」

「い、今考えてる、……熊ちゃん、俺、わかるよ。ひとつめの選択肢をえらぶのが正しいって。わかるんだけど……」

 なぎの肩にはれいとの将来だけではない、熊谷の生活だってかかっている。なぎはちゃんとわかっていた。わかっていたが、理屈ではないことだった。

「私はなぎ君が大切です。白樺君よりもです」

「……」

「けれど、なぎ君のどんな選択肢にも従います。マネージャーとして間違っていても、大人として間違っていても、です。なぎ君の考えを……選択を尊重します。以前も言ったように、私の進退については考えないで下さい。だからどうか、なぎ君、自分の心に嘘偽りない選択をして下さい」

「……」


 なぎは、熊谷がそう言ってくれることも、わかっていた。

 もちろん、メリが大切だし、決めたことをやるべきだとも思う。しかし、大事な友人が目の前で困っていて力になれるのが自分だけだとして、それを見過ごすという選択肢はなぎの中にはなかった。たとえどんな不利益を被っても、どんな利益を失っても。

 選択肢はあるようでなかった。もともとひとつだった。


「熊ちゃん、俺、俺ね、今できることをしたい。れいと君を助けたい。力になってあげたい。……熊ちゃん、協力してくれる?」

「そう言ってくれると思っていました。もちろんです、なぎ君」


 車が発進する。れいとにはレコーディングは間に合わないとだけ送った。れいと君のせいじゃない、ともなぎは送った。そしてスマホの電源を切った。熊谷が何か数点、レコーディングスタジオに連絡を入れているようだった。

 あたりが暗くなってきた。子供なら、家にいる時間だ。なぎは自分の家族を思い浮かべた。

 妹ふたりは今頃家にいるだろう。



 早く、れいとの弟を見つけてあげたかった。


——————




 まやとに教えられた場所につく。なぎが車を降りる。一軒家だ。少し古い形のようで、なぎは祖母の家を思い出した。庭に植木鉢があったり、ソテツが生えている。空き家のようで、しかしまだ最近まで人が住んでいたように小綺麗で、玄関の引き戸がが空いていた。暗いのでスマホの照明を付けて、熊谷もいっしょに着いてくる。防犯目的だ。そういえば、れいとがアイツは危ないと言っていた。


「おじゃまし……わっ」

 なぎと熊谷が入ると、こちらにスマホのライトが向けられた。眩しい。ひとり、少年がいる。少し身構えた様子だが、なぎを見てライトを下す。

「うわ、まじか。凪屋なぎだ」

「あ、あやと君……?」

「後ろの何? 補導だったら叫んで逃げるけど」

「熊谷と申します。名刺いりますか?」

 あやとはどうやら逃げる気はないようで、その場に座り直した。

「あんた知ってるよ。メリの凪屋なぎでしょ。兄貴に言われて来たんだ。笑える」

 なぎもその場にしゃがんだ。

「帰ろう……?」

「あんたに関係ないだろ」

「れいと君心配してたよ」

「うぜー……。自分は好き勝手やってるくせによ。俺らにはちゃんとしろまともになれって、本当バカみたいだよな」

 好き勝手とは、オーディションを受けたことだろうか。なぎは、れいとがオーディションを受けた理由を知っている。金のためだと言っていた。家族のため、弟のためだと。それを、彼らは知らないのだろうか。それを伝えれば、家に帰ってくれるのか。兄弟の仲が改善するのか。

 しかし、あやとは中学一年生にしては、ずいぶんとしっかりしているように見えた。ちゃんと話せば、すべてが改善するように思えた。


「そうだ!」

 なぎが閃く。

「レコーディング見に来てよ! お兄ちゃんがどんなことしてるか、見にくればいいんだよ、そうしたら……あっ」

 そこで気づく。レコーディングは間に合わない。会議は明日の午前中。もう、全てが遅い。

 ひとりで百面相しているなぎに、あやとも不振がる。

「熊ちゃん……」

「はい、なぎ君」

「ろ、路上ライブとか、だめかな。音源使って」

「音源に関しては権利が会社に帰属していますのでこの段階での無断使用は許可されないでしょう」

「だ、だよね。……けど、明日どうせ、メリが無くなるなら、そんなことは思いたくないけど、俺は最後まで諦めたくない……」

「なぎ君……」

「メリも、れいと君も、れいと君と歌うことも、れいと君の大事な家族のことも……全部諦めたくない!」

 なぎが立ち上がる。

 力強い表情。凪屋なぎとはこういう男だった。


「よし! 行こう!」

「⁉︎」

 あやとが驚く。なぎがあやとの手を引く。

「行くよ! 家に帰って、それからまやと君も連れて行く、えーと……場所は駅前にする! ほら早く、立って!」

「いや、なんだ⁉︎ なんだよ!」

 熊谷にはなぎが何を考えているかはすぐにわかった。あやとは事情を何も知らない。何もわからない。

「熊ちゃん、れいと君呼んで!」

「はい、お任せを」

「いや、ちょ、俺、兄貴には……てか、まじで何」

「いいから!」

 なぎの気迫の勝ちだった。なぎはあやとを無理やり車に乗せた。あたりはもう真っ暗だった。それから、家に行ってまやとも車に乗せた。まやとが来ると、あやとは多少大人しくなった。



——————




 駅前。木曜の十九時。帰宅途中のひとなどで賑わう中、路上でライブをしている人間が数名いた。

 なぎも、熊谷、そして白樺兄弟を伴い街路樹の前に場所を取る。熊谷がラジカセを用意した。音源はCDだ。歌を収録していない、メロディだけのもの。今日、レコーディングのために用意したものだ。本来であれば今頃、スタジオで楽器の収録が終わり、歌をレコーディングしている頃だった。


「あははは、なになに〜? 凪屋さん何考えてんの?」

「……」

 まやとは楽しそうにしていて、一方であやとは無言だ。

 通り過ぎて行く人々はなぎたちに目もくれない。

「ふたりとも、SNSとかやってる?」

「俺はフォロワーいっぱいいるよ〜」

 そう答えたのはまやとだ。暁光だ。

「さすがまやと君! じゃあ、俺が今から歌うから、それ、ライブ配信していいよ!」


 なぎの作戦は単純だった。元は、いかにメリに商業的価値があるかを会社に提示することだった。SNSネイティブらしい発想だった。話題作りはテレビや企業からではない。インフルエンサー、そしてネットからだ。

 そしてここでなぎははじめて、切っていたスマホの電源を入れ直した。れいとからのメッセージや着信がたくさん入っていた。それをあやとに渡す。お兄ちゃんに見せて、と言った。あやとがメッセージアプリから、ライブ配信をれいとに見せることになった。

 なぎは少し、あー、とかうー、とか声出しをした。そしてCDから音源が流れた。なぎが作った曲だ。もう一曲はせつなが残した曲。


 なぎが歌い出した。




「凪屋さんあんまし上手くないね」

「……」


 路地ライブは初めてだ。最後かもしれない。しかも勝手に楽曲を使ってのゲリラライブ……。しかし、明日、メリの進退が決まる。最後まで足掻きたい、そして最後になるのなら、思いっきり歌いたかった。

 初めて作った曲、れいとと歌いたいと思って作った曲、れいとのために作った曲だ。

歌っていると、れいとを思い出す。ここは、れいとのパートだ。もう少し後にコーラスが入るはずだった。今はひとりで歌っている。あの時の、会見の会場のように。


「あんまし上手くないけど……」

「あぁ……」

「楽しそうだね、凪屋さん」


 いつの間にか、あやととまやとの後ろに人が集まってきていた。まやとの配信は、まやとのフォロワーに拡散されてどんどん広がっていく。また、集まって観客も、カメラを向けて写真や動画を撮っていた。メリの凪屋なぎだと気づいている者も多く、どんどん人だかりが大きくなる。

 今度は、せつなが残した曲を歌う。その頃には、周りには人だかりができていて、たぶんもう少ししたら警察が来て解散させられる、そのくらいの規模になっていた。


 れいとはどうしただろうか。


 なぎは思った。自分のスマホから、今の様子を見ているはずだ。来てくれるだろうか。レコーディングに行かなかったことを怒っているだろうか。

 ただ、れいとと歌いたいと思った。それが、こんなにもたくさんの障害にぶつかるとは思ってもいなかった。

 一緒に歌いたい。

 るきのマンションのエレベーターで、れいとに、どうして一緒に歌いたいか聞いたのを思い出す。れいとは答えなかった。


 もし、許されるのなら、最後にその答えが聞きたいと思った。


 あまりに人だかりが大きくなったので、駅前の商業施設の警備員が出て来て、熊谷に解散を命じた。熊谷が、それをなぎに耳打ちする。れいとはまだ来ない。

あと一曲だけ。最後にれいと君と……。



「なぎ!」



 ひとだかりの中から声がした。

 れいとだった。


「れいと君!」

「はぁ……はぁ……」

 会見の時とまるで逆だった。あの時はなぎが走って来たのに。

「兄貴……」

 あやととまやとがれいとに気がつく。しかし、れいとはふたりを少し見ただけで、なぎの方へ向かった。


「あんたな……! 熊谷に全部聞いたぞ! レコーディングどうして……」

「歌おう!」

「は⁉︎」

「あと一曲! 警察来ちゃうから!」


 熊谷がCDをかけ直す。なぎの作った曲だ。

 なぎがれいとの腕をつかんで引き寄せる。目の前には人だかり。商業施設の明かりがまるでライブ会場の照明のようだ。家族が見ている。本当のライブのようだった。


 なぎが歌い出す。観客が手拍子をしている。

 れいとは本当になぎと、ふたりでライブのステージに立っているかのような錯覚に陥った。

 れいとのパートだ。歌う。なぎが笑いかけてくる。


 るきのマンションでるきが言っていた言葉を思い出す。自覚がない、と言っていた。なぎに聞かれて、答えられなかった質問を思い出す。どうして一緒に歌いたいと思ったのか。


 なぎと一緒に歌えたら、楽しいのでは、と思ったからだ。


 昨日のリハを思い出す。

 あの感覚。まだ体に馴染まず快か不快かすら定義できなかったあの不可思議な感情。

 今ならわかる。

 はっきりとわかる。


楽しい。

なぎと一緒に歌うと、楽しい。

  楽しいから、一緒に歌いたい!

この光景を、本物にしたい。メリを続けたい。なぎとステージに立っていたい。

オーディションを受けた際にはなかったイメージだった。映像だった。頭の中にはっきりと、理想が描かれた。本物のステージ、隣になぎがいる。


「うわ、兄貴って歌上手かったんだ! すげー!」

「……!」


 れいとの歌に、観客が沸き立つ。れいとの歌声ひとつで、それまでの盛り上がり方とは違う、ドン、という重低音、空気の変わる音がはっきりと聞こえた。

 なぎとのデュオだ。ふたりの歌声は完全に調和して、夜の街に響いた。駅前にいる全員が、釘付けになっていた。

 ありふれた街路樹が、街灯が、ただの通りすがりの雑踏が、ひとつのステージと化すしていた。


「兄貴……」

「え?」

 雑踏の中、あやとが呟く。

「楽しそうに、できるんだな……」

「……あやと」


 その時だった。警察だった。あまりにひとが集まったのでその場の解散を命じられる。なぎとれいとが二人組の警察に詰め寄られる。熊谷が割って入った。

 なぎが、あやととまやとの方に、走って逃げるように合図しなので、ふたりはその場から退散した。

 観客も警察の登場で散り散りになった。

 熊谷がいたので、なぎとれいとはその場で注意されただけで済んだ。

 熊谷の車を駐車していた場所へ戻ると、あやととれいとがいた。


「これ」

「あ、俺のスマホ。ありがとう」

 あやとがなぎに、スマホを返却した。

「すごいよ〜! 凪屋さん、俺バズっちゃった! ライブ配信の再生数ものすごいよ! それだけじゃないよ、SNSでトレンド入りしてるよ! メリのゲリラライブって! すごいね〜!」

 まやとがはしゃぐ。効果はあっただろうか。明日にならないとわからない。


「あやと……」

 れいとがあやとに近づく。家出をしていたのだ。対面は数日ぶりだ。

「帰ってこい。俺が不満なのは……わかるけど。母さんを心配させるな。頼むから」

「兄貴、金のためにオーディション受けたのかと思ってた」

 あやとが言う。兄弟は、れいとの動向の本懐を察していたのだ。なぎと熊谷はそれを見守ることにした。

「兄貴いつも仏頂面で真面目なことしか言わねーし。つまんなそーにしてるし、オーディションだって、合格したらファーレンハイトに入るって言ってた。なのに兄貴は会見で、メリに入るって言ってた。意味わかんねーって思ってたけど……」

 けど、の続きを一同が聞き入る。

「けど、わかった。今日。兄貴でも、楽しいことってあるんだな。はじめて見たよ、兄貴があんな顔してんの」

「あやと……」

「人生なんも楽しくなさそうな兄貴にちゃんとしろって言われるの意味不明で不満だったけど、今はそうは思わないよ。……ちゃんとしないとな。大切なものがあるならさ。そういうことだろ?」


 なぎも熊谷も、まやとも、ふたりが和解したのを感じ取った。

 駐車場のライトが白樺兄弟を照らしていた。暖色のそれは、ちょうど白樺家のリビングの照明に近いような気がした。


「ただ次ビンで殴ったらまじで二度と帰らねーから」

「善処する……」

 一件落着。氷は溶けた。

 もはや言うことはなかった。

 熊谷の送迎で、白樺三兄弟は帰宅した。

 なぎはれいとに、また歌おうね、と言った。れいとはもちろん、と答えた。それは不確かな約束だった。けれど、実現するような気がした。漠然としたなんの確証もない将来が、見えたような気がした。




——————




 金曜日。運命の日だった。今日の午前中の会議でメリの進退が決まる。

昨日はれいとと歌えて楽しかった、なぎは満足していた。やれることはやった。とても良い気分で眠りについた。


 朝、なぎは妹たちに起こされた。


「お兄ちゃん! お兄ちゃんテレビに出てたよ!」

 みあとかれんだ。

「え……」

「はやく起きて!」


 妹たちに手を引かれて、階下へ行く。すると朝の芸能ニュースで、昨日のゲリラライブの様子がやっていた。メリはせつな脱退に関する正式発表もまだない。また、この間の会見が中止になった騒動以降も、オーディションのことや、ファーレンハイトへの新メンバー加入のことなど、続報がないのだ。それが、会見の騒動の中心であったなぎとれいとがゲリラライブをしたとあって、かなり話題を集めたようだった。コメンテーターも、はやく会社からの正式発表が欲しい、とか、れいとの容姿と歌唱力を褒めそやしたりしていた。


 なぎのスマホが鳴る。熊谷からメッセージがあり、できれば、午前中学校を休んで、会社に来て欲しい、とのことだった。

 なぎは両親に了解を得て、熊谷にもその旨を伝えた。れいとも、午前中は学校を休んでPPCに来るとのことだった。

 しかし、話題になったからメリが存続するとは限らない。なぜなら昨日は警察に怒られてしまった。そのことを注意されるだけかも知れない……。なぎは朝食を摂りながら、なんとも不思議な気分だった。やれることはやった。れいと君と歌うのは楽しい、メリを続けたい、しかし……。

 熊谷の送迎が来て、熊谷が車から降りて両親に挨拶をしに来たので、かれんは上機嫌だった。熊谷はかれんにも優しい。なぎの後にれいとを迎えに行った。団地の共用スペースから、あやととまやとが手を振っていて、なぎはふたりに手を振り返した。


「おはよう」

「おはよう、れいと君」


 しかし、車内ではほとんど会話がなかった。メリ存亡の危機……。ふたりが一番わかっていた。

 昨日、わかってしまった。

 幸か不幸か。若く浅い無謀なのか。感傷か、それとも……。

 れいとは車内の窓際に肘をついて、車窓から外を眺めいていた。なぎも、反対側の窓をぼんやりと視線で追う。

 それでも、考えていることは同じだった。



 もう、離れることはできない、と。


 ふたりで歌う、それ以外の選択肢がないことを。





——————





「まず、熊谷、あなたは減給です」


 なぎ、れいと、熊谷が呼び出されたのは代表取締役波々伯部悦子のオフィスだ。なぎは少しほっとした。以前呼び出された大会議室は嫌だった。たくさん背広の大人がいたあと空間は立っているだけでも気疲れした。悦子のオフィスはこじんまりとはしているが、明るくて、女性らしい飾りなどがあって、アロマの香りも落ち着く。


「まぁ、私もですけど」

「おや……ご苦労様です」

「あなたの印税と違って私の微々たる役員報酬が減らされるのは懐に響くの。イライラしてることはわかっているかしら?」


 なぎとれいとはいまいちピンと来ていない。しかし、覚悟をして来たほどの張り詰めた空気を感じない。悦子と熊谷が軽口をたたいているからだろうか。

 オーディションの結果発表を兼ねた会見の中断や、内部情報がリークされたこと、メリの路上ゲリラライブ(警察が来たのがまずかった)……一連の件に関して、役員は役員報酬のカットが決まった。悦子は六月か十二月までだそうだ。熊谷は三ヶ月の給与のカットだそうだ。どう考えても深刻な事態だ。熊谷はむしろ誇らしげだが、悦子までどこかすっきりした表情なのはなぜだろう。


「結論から言いますね。凪屋くん、白樺くん、おめでとう。メリは存続が決まりました」


「……!」

 悦子の発表になぎはまず隣のれいとと顔を見合わせた。それから熊谷の顔を見る。そしてここが代表取締役のオフィスということも忘れて大声で叫んだ。

「やったーーー‼︎‼︎‼︎‼︎」

 れいともほっとしたような表現を浮かべている。

「やった! やった! れいと君、くまちゃんやったよ! やったー! 良かったー! 波々伯部さん、ありがとう! やった! 俺がんばります!」

「まだ話は済んでいません!」

 興奮するなぎに、悦子がぴしゃりと言い放つ。


「これはあくまで年内の話です!」

「え……」


 なぎとれいとに、悦子が説明を始めた。

 やはり決め手は昨夜のゲリラライブだったようで、なぎ、れいとのライブの様子の配信や動画、写真はまたたく間にネット上で広がり、拡散され、SNSやテレビでの反響はすさまじかった。それを無視するほど役員も馬鹿ではない。メリに商業的価値があるかも、と考えた。しかし、ネットの反響に反して売れなかった商品はこの世の中にごまんとある。なので、今年いっぱい、残りの約半年、メリを、メリのふたり、なぎとれいとを試すことにしたそうだ。


「条件はふたつです。クリエイティブイベントを成功させて、Pレーベルの人気ユニット上位六位に入り、年末のライブに出ること。そしてさらにそのライブでの人気ユニット三位以内に入りなさい」


「……!」

「つまり、年末のライブに出て、ライブを成功に導くこと。……大変なことよ? わかる?」

 上位六位は年末のライブに参加できるラインでもある。なぎもれいとも気づいた。それをさらに、三位以内。あまりに高いハードルだ。

「もうひとつは、写真集というか、ファンブックを出します。ふたりとも撮られるの嫌かもしれないけれど、これの売り上げもメリの実力を測るバロメータになります」

「げっ……」

 写真集、これに関してはなぎは、なぎは写真を撮られるのが苦手なので断ってきた案件だった。広報用の宣材写真すら嫌だったくらいだ。

「このふたつを条件に、達成できれば来年以降もメリは存続。達成できなければ年内で解散よ。ふたりで決めて下さい。今。どうしますか?」

 悦子の視線は厳しい。……が優しく、強く背中を押すような、そんな眼差しだった。


 ふたりはお互い顔を見合わせた。

 言葉はなくとも、返事は決まっていた。

 ふたりともしっかりと答えを返した。

「はい!」


 今は五月半ば。もうすぐ六月だ。あと半年、結果を出さなくてはならない。そして、クリエイティブイベントが始まる。


「では、その他の連絡事項は熊谷より聞いて。行っていいですよ。……がんばりなさい」


 三人は退出した。



 廊下でなぎが、ふたりに振り向く。

「ふたりとも、ほんとによかった! 俺……俺……」

「あぁ。首の皮一枚っで感じだけどな。また、ろいろ考えなきゃな」

「なぎ君、白樺君、これは私の予想ですが……多分合っていますので、ふたりにもお話しておきますね」

 廊下を歩きながら、熊谷が話す。曰く、メリの処遇について、悦子がかなり無理をして進言をしたそうだ。彼らは才能あるアーティストで、これから花咲く若い芽であり、ふたりともこれから素晴らしい作品を世に残す。当然会社は利潤が第一だが、メリの価値はそれだけではない。どうか寛大な対応を、と……。


「波々伯部さん……」

「ちゃんと会社は、利益だけではなく、メリを大切に思ってくれていますよ」

 熊谷が微笑む。なぎは、ぐっと背筋に力をいれた。


「うん……。俺、気づいたよ。昨日の路地ライブで。改めてたくさんのひとに、メリは愛されてるってわかったんだ。俺は、応援して、支えてくれる周りのみんなに感謝してる。感謝を伝えたい。そのためにも、これからも曲を作り続けていきたい……」

 にこり、となぎはれいとと熊谷に笑ってみせた。


 下の階に降りて、会議室へ入る。まだほかに話があった。熊谷がふたりに連絡事項を伝えた、せつなの脱退のプレスリリースが来週の月曜日にあること。オーディションの結果発表と、るきのファーレンハイト加入について、改めて会見が開かれること。れいとに関しても、メリに正式加入することが決定し、またそれも月曜日に発表になる。会見などはないものの、ファン向けの文章を考えたり、動画を撮ったりしなくてはならない。また、レコーディングも再開される。メリのファーストシングルは発売日も決定した。しばらくは多忙だ。


「あと、私も引き続きメリのマネージャーとしてやっていくことになりました。ふたりとも、改めてよろしくお願いします」

「え、熊ちゃん、どういうこと?」

「下半期からファーレンハイトのマネージャーにならないかと打診されました。給与も増やすと言われたのですが、断りました。私はメリのマネージャーですから」

「熊ちゃん! そう来なくちゃ!」


なぎが立ち上がる。

「ね、三位でいいと思う⁉︎」

「?」


「俺は、れいと君と、くまちゃんとなら、もっと上を目指せるって思ったの」

 競争を好まないなぎにしては珍しい発言だった。


「気持ちだけでも一位を目指そうよ!」

 さらになぎが続ける。

「なんというか、決して、売り上げとか人気投票で、勝ち負けや優劣を測りたいんじゃなくて、周りの人にありがとうって伝えたいの! それが、上を目指すこと……レベルアップしていくことなんじゃないかなって思った。特に、……せつな君の脱退から今日まで、俺、恵まれてるって思った。俺の周りにはたくさんのひとがいてくれて、俺を助けてくれるんだ……。皆にありがとうって伝えたい! だから俺、がんばる! ふたりとも、ついて来てくれる⁉︎」


 れいとも熊谷も異存などなかった。

 ふたりも明るい返事を返した。


 こうして、新生メリは半年、猶予を与えられた。目標は年末のライブへの出演だ。そのためにクリエイティブイベントを成功させなくてはならない。ひとつひとつ、目標を超えていかなくてはならない。

 しかしなぎは漠然と、これから長く、れいとといっしょに歌っていけるような気がしていた。

 PPCの長い廊下を、三人で歩きだした。




——————


 見覚えのある河川敷だ。ふたりの少年が走っている。午後六時半。もう空は薄暗くて、月が見えるほどで、街灯が存在感を表す頃合いで、徐々に街が照らされてゆく。

 ふたりの少年が並んで歩いていた。


 なぎと、れいとだった。

 他愛のない会話をして、たまに歌う。


 いつまでも、その時間が続くかのようだった。

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