メリ

ぽーよら

第一章 光の衝撃


「え……?」


 空調の音に消え入るような、ほとんど静寂に近いような、ただただか細い声だった。

その時凪屋なぎから漏れ出たのはまぎれもない困惑、そのものだった。まったく想定もしていなかった、カケラも考えたことなかった言葉を今、目の前の人物から聞いたからだ。


「なぎ、僕は辞める。脱退するよ」


「君に感謝してる。今までありがとう、なぎ。さよなら」







第一章 光の衝撃





——————



六時間前


「おはよーございまーす!」

 午前八時、ようやく会社員が出社するような時間帯、ここPPC、Pプロダクションクリエイツは人もまばらな時間帯だ。フレックス制にリモートワーク、この時間、挨拶を返すのはシルバーワークの派遣で早く来ている清掃係だけ。まだ四月のはじめの、広く大きい吹き抜けのロビーは静寂に肌寒いほどだが、そこを、一人の少年が駆け足で通り過ぎる。


「なぎちゃん、おはよう」

「なぎちゃんはいつも元気に挨拶してくれるね」

 初老のふたりがなぎにあいさつを返した。なぎは急いでいて駆け足だが、にこやかに手を振ってお疲れ様です! と返した。そしてエレベーターに乗り込む。清掃員たちはなぎを見送る。それはまるで孫を見るかのような温もりのある眼差しだった。実際、その場があたたまったような気さえした。

 屈託なくて、平凡に見える。そんな少年が、この物語の主人公、凪屋なぎ、だ。


 凪屋なぎ、十六歳。二人組ボーカルデュオ「メリ」の片割れ。県立の普通科高校に通いながらも、このPPCでメジャーデビューをしている、一応、アーティストである。

 身長一六〇センチとやや小柄だが、明るい茶髪で、おでこが出ていて、柔らかで温和な見た目で、本人の性格もまた見た目どおり、争いを好まず、マイペースで穏やかだった。

 なぎの雰囲気は、他人に対する敵意や壁をまったく感じない、自然体そのもの。裏表や計算がなく、決して一度見たら忘れないような華美で派手な魅力があるわけではないが、すぐに誰とでも打ち解けるあたたかさのある少年だった。

 PPCはタレントやアーティストのマネジメント会社で、メリも、なぎ個人もこの会社に所属している。特にPレーベルという、実力派揃いの自社レーベルからメリはCDを出していた。

 今時にしては売れているし、サブスクリプションや動画配信サイトでの再生回数も若手としては多い方で、なぎは、側からみて十分に、名の知れた有名人であり(ネットを良く知る若者層に程よく知られてはいるだろうが、国民全員が知るほどの知名度では当然ない)十分に才能に溢れたスターなのだが……本人にはまったくその気はなかった。

 なので、いまだに県立の学校に通っているし、芸能人のようにマスクにサングラスで顔を隠して出歩くこともなければ、誰にでも明るく挨拶をする(これは本人のもともとの性質のひとつではある)どこにでもいるごくごく普通の少年。自己評価も普通だ。すべてが普通だと本人は思っている。それが凪屋なぎだった。

 あえて、他人に誇れることがあるとすればそれは、音楽に関してはっきりと「好きだ」と主張できる点と、寝起きすぐに朝ごはんを食べれるところくらいだった。


 さて、ロビーから今度は会社関係者のみしか入室できないフロアに来て、打ち合わせや待ち合わせに使われるスペースに、なぎは大きな声で挨拶をしながら入室した。

「おはよう、せつなくん、熊ちゃん!」


 返事が返ってくる。男性ふたりの声だ。

「おはよう、なぎ」

「おはようございます。なぎ君」


 片方の男、椅子に座っている方が白鳥せつなだ。歳は十八で、メリでのなぎの相棒だ。しかし、入ってきたなぎを見て、すぐに立ち上がった。なぎの方へ駆け寄る。

「なぎ! 薄着じゃないか。まだ四月だよ。寒いでしょう。ほら僕のジャケット着て」

そう言って自分の着ていた服を渡す。なぎは、ありがとう、と言ってそれを受け取っておとなしく着た。別になぎは寒くもなかったが、言う通りにした。せつなが過保護なのはいつものことだったから。

 せつなはまなざしはしっかりと紳士的で、御伽話に出てくる騎士のような凛とした美しさと、(実力に裏打ちされた)確固たる自信と、それに伴う強さを感じさせる、滅多に見ない人間のオーラがあった。著名アーティストとしてのオーラだ。しかし、嫌味たらしくなく、極めて謙虚な態度が美徳を感じさせる。

 もう片方の長身の男。黒髪でスーツ、ふたりとは違って、しっかりとした社会人然とした振る舞いの男が、熊谷のあ。二十九歳。メリのマネジャーだ。この男についてはいずれ詳しく話す。

 まず、白鳥せつなの方について説明することが、メリ、そして現在のせつなとなぎの説明になる。このメリ、というユニットは少々複雑な経緯を持って今に至る。

 フィンランド語で「海」の意味を持つこのユニットは、前述の通りせつなとなぎのボーカルデュオ。同レーベル内での楽曲売り上げ順位は下から数えたほうがまぁ早いものの、誰が聞いても確実に実力はとわかる下地のあるユニットだ。ファンとの交流を第一に考えたライブ中心の方針で、せつなが作詞作曲のほかプロデュースも行いつつ、ギターとコーラスをつとめ、なぎがメインボーカル担当している。

 そう、先ほどの実力とはほぼ、この白鳥せつな、という男の実力そのもののことだ。


「さて、打ち合わせと簡単なリハが済んだら会場に向かいましょう」

 熊谷がその場を仕切る。

 今日はファンクラブ向けのイベントがあり、小さめの会場でCDのお渡し会の前に、二、三曲ギターのみでの弾き語りのミニライブがある。

 そのために朝早くからなぎはPPCへ来た。歩きながら簡単に日程を確認して、三人は地下駐車場へ移動し、車へ乗り込んだ。運転は熊谷がする。このまま会場へ向かう。


「なぎ、どう? 今度レコーディングする新曲は覚えた?」

「うん、大丈夫! 家で練習してたら、妹たちも、歌詞がすごくいいって言ってたよ」

「良かった。なぎの家族が言うなら間違いないね」


 なぎとせつなの会話はいつでも朗らかに進む。ちょうどふたりの楽曲のように。

 今日のライブで歌うほかにも、作成中の曲があり、なぎは学生でもあり、ふたりはそれなりに忙しいが、会うといつも、音楽の話をしていた。

 メリは、音楽性としては、自然派、癒し系といったナチュラルな志向で、牧歌的で気取らないスタイルが人気だった。もちろんせつなはどんなジャンルもこなせるが、メリはそもそもなぎのためのユニットという側面がある。メリのイメージイコールなぎのイメージだ。つまり、音楽性も同じことだった。これに関しては後述がある。


「そうだ、なぎ、ここやっぱり音程確認したいから、歌ってみてもらっていい? 急で悪いんだけど、今日の会場は、ファンがぼくたちを取り囲むぐらいの近さだし、あまり声を張らないだろうから……」

 車内で、せつなが楽譜をなぎに見せる。いつもリハの直前まで、いや、本番の直前まで、ああでもないこうでもない、とふたりのやりとりはつづく。作詞作曲、編曲のすべてをせつなが担っているが、せつなはなぎの意見を積極的に採用するし、せつながなぎに、作詞作曲を少しづつ教えていた。もうすでに一曲作れるくらいの実力はあるが、まだ実現していない。なぎはせつなの作ってくれた歌を歌うのが好きだった。


 会場に到着した。さくらいビル。中にある小さめのホールはレコーディングスタジオのような雰囲気だ。木目の床がまだ新しい。フェイクグリーンや、ひかえめな間接照明があって、おしゃれなカフェの一角のような雰囲気がある。一度ふたりは打ち合わせの際に下見に来ているし、ここでのリハは二度目だ。メリはファン重視の方式のため、こういったファンとの交流も兼ねたライブなどの時には特に力を入れるのだった。会場もまた、メリの持つイメージや雰囲気に合わせて選ばれる。そして何より、せつなが、なぎのことを考えて、あまり大きい場所は選ばない。

 会場は歩き回るほどの大きさもないくらいだが、前回のリハでは無かった観客席ができていた。

「席ができてる! ……けっこうお客さんと近いね」

「緊張しなくていいよ、楽しんで、なぎ」


 楽しんで、とはいつもせつながなぎにかける言葉だった。なぎの歌は、なぎが楽しんで歌っているときが一番良く聞こえるよ、とせつなは言う。

「まぁなぎなら、この程度の会場たいしたことないか……」とせつなが軽口を叩くと、なぎはすかさず照れた様子で話しをさえぎる「え! その話しやめて!」と、せつなへ近寄る。こんなやり取りも、なぎの緊張をほぐすためだ。そしてさらにせつなから提案があった。

「ねぇ、今回、なぎも座って歌ってみない?」

「えっ」

「いつもと違うことを試してみようよ。僕は座ってギター弾くし、なぎも座ってさ、その前にマイク出そうよ。ちょっと猫背になるくらいの高さでさ。ほらあの、熊谷の好きな海外のバンドのテレビ出演した時のライブの動画、この間見ただろ? あれみたいに。かっこいいよ。お客さんにとっても新鮮だと思うし……楽しくやろう。ね?」


 せつなはいつもこうだった。

 せつなにとってはなぎが楽しいか否か、が重要だった。なぎ君ファーストですね、なんて熊谷がからかうこともあった。

 せつなの提案になぎは、少しだけうーん、と考えて、そしてかっこいいかも…と考え直し、やってみよかな、と言って、最後にはわかった!とはにかんで答えていた。


 リハをしていよいよ本番だ。今回は本当に少ない百人限定のイベントだ。ファンが着席した後にせつなとなぎが入場する。

 マイクとギターと、ハーフタンバリンのみ。そしてファンとの距離も近い。その分せつな、なぎの実力が試される。最初になぎ、せつなから簡単にあいさつがあり、ぐっと照明が絞られて、すぐにミニライブへと移った。しかし、せつなのおかげでなぎは、もう緊張もしていない。ファンとの交流に対して、リラックスして臨んでいた。せつなは実は、そもそもそんなになぎのメンタルを気にしたことはなかった。なぎはファンを前にすれば失敗するようなことはない。確かに多少緊張したり、最初はテンションが安定しないかもしれないが、自分たちを応援してくれるファンを前に曲を披露して喜んでもらえる。これが、なぎにとってはとても嬉しいことだと、せつなは理解していた。そして実際今日、もうすでに、ファンを前になぎは満面の笑みで、手を振っていた。これはなぎの心からの笑顔なのは間違いないことだった。

 そして演奏が始まる。なぎはニコニコと楽しそうに、椅子に腰掛けた。歌い出して、だいたいサビの手前の盛り上がる直前くらいで、なぎがせつなのほうを見て、笑いかける。これはメリではよく見る光景だった。ほぼ毎度のことだ。演奏するせつながそれに対してフ、と笑うとなぎにとってそれは、そのままで良い、良く歌えている、褒められているのと同意義だった。なぎはこれを合図にますます楽しくなるのだった。サビが盛り上がると、せつなにも、観客にも、このこじんまりとした会場にはありえない、たくさんのネオンとサイリウムに照らされたかのように、なぎの瞳がキラキラしているように見えていた。

なぎ自身が、今この時、音楽を心から楽しんでいる……誰の目にもそれが明らかにわかりやすく伝わる。そんな表情だった。


 アコースティックギターの粘るような音が、ありふれたコード進行ながらも覚えやすく耳に残る。そこに、なぎのボーカルが乗る。どこまでも、遥かなた、海の果てまでも伸びていくような、そんな声だ。爆発的な声量があるわけでもないし、音程や歌唱力そのものは並かもしれないが、特徴的な歌声というほどのこともない。平均より、やや上くらいかもしれない。しかし何より、楽しむ、ということができるといことを、何より評価していた。軽やかに、御伽噺を紡ぐかのように、会場はメリの持つ世界観の中にいた。音楽の魔女が、子供を夢の世界へ誘う。ここは、メリの世界だ。会場は完璧にコントロールされていた。せつなによって。

 そう、メリの発足はせつながなぎを気に入って、彼のために曲を作り始めたこと。

だから先ほどあった通り、なぎ=メリでもあった。


 せつなはカリフォルニア生まれで両親も著名な音楽家であり、小さい頃からその才覚を買われた天才音楽家だった。当たり前のように絶対音感を持ち、たいていの楽器はそつなくこなし、上手かった。本人も歌が上手いし、作詞作曲、音楽の関しておよそできないことはなかった。そのせつなが満を辞して日本でユニットを発足したということで、商業的に成功は間違いなく、メディアでも大々的に報道される予定だったが、せつなはなぎのために、と派手なパフォーマンスや広報活動を省き、音楽を楽しむことそのものにフィーチャーしたマイペースなスタイルでの活動を始めた。

 当然PPC内は荒れたが、そこを上手く納めたのが敏腕マネージャーの熊谷だった。

そしてメディアに期待された爆発的な売り上げや流行化というわけではないものの、拝金主義に左右されない地に足のついた確実なクオリティの音楽性で活動数ヶ月でしっかりと話題になり、(最初の一年こそ、なぎを気遣ってライブなどの難しい仕事や音楽活動以外の仕事をセーブしていたが)二年目からは映画の主題歌に選ばれたり、CMタイアップが決まったりと、売り上げ以上に着実に実力派として、PPCそしてPレーベルの中でも一目置かれる存在になっていった。


 以上の説明どおり、なぎ=メリではあるが、せつなありきのユニットのため、そこにはややいびつなパワーバランスができるのだが、なぎはそれを一切感じたことは無かった。せつながなぎを尊重し、すべてにおいてなぎ優先のスケジュールで音楽活動をしていたからだ。なぎがせつなに従うことでユニットが成り立っていたのではなく、なぎをせつなが上手く活かす形で成り立っていた。

 さらに言うとふたりは、プライベートでも仲がよかった。一緒に食事に行ったり、遊びに行く。せつなが顔が知れているので、大半は車でドライブだった。海や山、他人の少ないところに日帰りで行く。そういう時ふたりは、音楽以外いろんな話をした。ふたりは友人どうしでもあった。


 なぎは、当然、せつなをとても大切に思っていた。少し年上で、人生経験も音楽の師としても頼りになり、何より自分に大好きな音楽との時間を、チャンスを、楽しいという感情そのものをくれる、今、なぎの人生の大半のコントロールを握っている人物と行っても過言ではなかった。

 信頼、敬意、尊敬……人間の抱くポジティブな感情のほぼすべてを、せつなに持っていた。


 ミニライブでの生歌の披露……今この場にいてこの曲を、場の空気を感じれば、誰もが、これまでのふたりの説明に疑問はまったくないだろう。

 そう、ふたりの関係は完璧だった。まったくなんの憂いもなかったのだ。今日この後の、せつなの発言までは。


 ライブも終了し、CDのお渡し会もなんのトラブルもなく、昼すぎにはイベントが終わった。イベントは大成功だった。

 なぎはイベント後もいつまでも楽しそうにしていた。ファンからの言葉はとても嬉しかったし、楽しく歌えた。

 熊谷の運転でふたりはPPCへ戻ることになった。このまま帰宅してもいいはずだが、せつなから話しがあるから会社に行こう、と提案があった。


 次の曲の話だろうか? ライブの話だろうか?とても楽しいイベントの後だったこともありなぎは、なんのマイナスな思い込みもなく、せつなの話を聞くつもりでいた。運転の熊谷が、少し苦い顔をしていたことにも気が付かなかった……。


——————



「なぎ君、どうぞ座って」


 イベントが終わり、もうすぐ夕方だ。遅めの昼食のあと、会議室を借りた。

真っ白な壁と床、長机にパイプ椅子の、どこにである会議室だ。


 熊谷が声をかけて、なぎはせつなの対面に座った。熊谷は立席のまま、その表情はどこかせつなそうで、しかしなぎはそれに気づいていない。

そしていよいよ、せつなが話を切り出した。


「なぎ、これから大事な話をするから、ちゃんと聞いてね」

「うん、どうしたの?」


 なぎはにこやかだった。穏やかだった。その名前のように、凪いだ海のように、なにひとつ、これからのことを想定せずに、普段どおりだった。この時までは。


 そして、はじまりのあの一言へ戻る。


「なぎ、僕は辞める。メリを脱退するよ」


「君に感謝してる。今までありがとう。なぎ、さよなら」



 こう言った経緯で、冒頭の本題は告げられたのだった。



「えっ?」


——————


 

 なぎは、当然だが、ぽかんとして、せつなの言葉を全く受け入れることができなかった。

頭の上に、たくさんハテナマークが浮かんでいた。せつなは、何を言っているのだろう? 脱退? 辞める? 何を? え? 今度のレコーディングは? ファンは? ……自分は?


「せつな、もっと説明を。なぎが……」

 すかさず熊谷がフォローした。

 ピン、と糸を張ったような、なのにその糸はどこかでこちゃこちゃに絡まっていたり、緩んでいたりするような、奇妙な空気だ。

 長机をはさんでいるだけなのに、雄大な川を国境にする言語の違う国同士の初めての交流くらい、言葉が通じていない。

「なぎ、急でびっくりしたよね。でも、このいつかは、僕はメリの結成、つまり、はじめから考えていたことなんだ」

せつなは顔色ひとつ変えず、淡々としている。熊谷はどうやら事情を知っているようで、この場でなぎだけが、何もわからずに、ただただ戸惑っていた。


「理由は今は説明できない。けど……」

「あの……」


 なぎが口を開いた。


「俺、何かした? 売り上げとか……?」

「あぁ、なぎが悪いんじゃないよ。なぎは一才悪くないよ。それでも決まったことだから……。理由は……まぁ、ふさわしい時が来たら話すよ」


 まだ、なぎは上の空だ。現実感がない。


「それでね、なぎにはふたつ選択肢があるんだ。僕が脱退して、そのままメリを解散するか、それともなぎひとりでメリとしてやっていくか。ひとつ、これだけは確実だから安心して欲しいのは、どの選択肢を選んでも熊谷が君をサポートするよ。彼は君のマネージャーだ。だから、今後音楽活動を続けるなら、彼は必ず君の力になるよ」

「あ……うん……」

「今日の話はそれだけ。何かある?」

「ない……かな……えと……」

「午後から学校だよね? 熊谷、なぎを送って。それじゃあなぎ、またね。いつか……」


 せつなが席を立つ。ドアに向かい歩いてゆく。何か、何か発言をしなくては、となぎは思ったが、手を伸ばしたが、そこまでだった。

 せつなとの間に、たった数メートルの間に、何枚もの見えない壁があるようにすら感じた。

 声が、届かない。


 その後、なぎは、熊谷に送られて学校に行ったはずだった。だがいまいち、午後の記憶がない。なんだか頭がふわふわしていて、どうやって家に帰宅したかもよく覚えていなくて、とにかくずっと、すべてが上の空だった。


——————


「今日お兄ちゃん元気なかったね」

「疲れてるのかなぁ」

 夕飯の食卓を終えたばかりの凪屋家では、なぎの妹ふたりが、食卓で心配そうにしていた。なぎはいつもだったら妹ふたりの面倒を見て、家事の手伝いをして、それから自室へ戻る。今日は具合が良くないと謝り、早々と自室に戻って行った。


 部屋でひとり、ベッドにうつ伏せになり、ようやくなぎは、せつなの言っていたことを頭の中で少しづつ、少しづつ、受け入れ始めた。

 なぎの部屋は二階。階下ではまだ家族は団欒の最中だろうか? 常日頃八畳の部屋はなぎは大きすぎると思っていた。綺麗好きだし、整理整頓もするから、少しだだっ広いように感じる、と。こういう時にそれが顕著に感じられる。広い部屋でひとりでいると、そこには確かに言い知れぬ孤独が這い寄った。せつなに突然の別れを切り出された今、それは現実のものだった。

 自分は、何か不備があっただろうか、だから、せつなは自分に幻滅して別れを切り出したのか。今、練習している曲はどうなるのか。何故、理由を言ってくれないのか。熊谷は何か知っているのか。

 本当は聞きたいことがたくさんあったのに、あの時聞けばよかったのに、できなかった。1番聞きたかったのは、脱退したらそこで完全にお別れなのか、というところだ。せつなが音楽活動を続ける、続けないにせよ、友人としての、プライベートでの付き合いまでもが今後一切無くなってしまうのだろうか、その辺りだった。

今、連絡したら、返事をくれるだろうか。それとも、迷惑だろうか。



 ……いや、違う。


 せつなは、選択肢がふたつあるといった。メリをこのまま解散するか、ひとりでメリを続けるか、だ。


 自分は何の取り柄もない人間で、せつながいたから音楽活動ができていたに過ぎない。それは、良くわかっていた。だからこそ、こうなった今、ひとりで考えなくてはならない。せつなを信頼している。せつなが好きだ。まだ事実を受け止めてきれないけど、自分に非が無いことを説明してくれた。せつなを信じたい。せつなの選択を尊重したい。そして、その上で考えたい。

 自分はどうしたらいいんだろう……


「お兄ちゃん?」


 妹たちだ。ふたりがなぎの部屋に入ってきた。


「大丈夫……?」

 なぎを心配して様子をうかがいに来たのだ。

 ふたりが近づいてきて、なぎのいるベッドに腰かけた。なぎも起き上がる。

「ごめんね、大丈夫だよ?」

「本当に?」

「お兄ちゃんが元気ないのやだよー……」


 ふたりをとても心配させてしまったようだ。多分母親はほっておくように言っただろうが、まだ小学生のふたりには他人の機微に完璧に配慮するのは無理だ。しかしそれが、返ってなぎの心には効果があった。

 このままずっと落ち込んでいたり、ずっとせつなの言葉を受け入れられずに迷っていては、家族にだって心配をかけてしまう。元気を出さなくてはいけないし、前向きに、自分の今後の進退を決めなくてはならない。


「お兄ちゃん、動画撮ろう? 元気でるよ」

「ファーレンハイトの新曲にしようよ〜」


 下の妹、小学二年生のかれんが言った。なぎに似ている。ほとんど顔が同じ。長女の方はみあ。小学四年生だ。髪が長くて、しっかりした性格で、なぎのことを注意するような時もある。この三人兄妹は仲が良かった。

 ところで、今話題に出たファーレンハイトもPPCのアーティストだ。Pレーベル内での売り上げはトップ。ハイレベルなダンスアンドボーカルグループで、余談、みあはリーダーのひゅうがの大ファンだ。

 ふと、なぎは思い出した。自分がせつなと会ったきっかけを。このふたりだ。妹ふたりが、なぎが歌っている動画を撮って、それを(なぎに無許可で)SNSに投稿した。それを見たせつなから、連絡があったのだ。今でも思い出す。鮮明に思い出せる。


「お兄ちゃん歌ってよー」


 妹たちは何故かよく、歌ってほしいとせがむ。上手いから、と言われる。そんな気はないが、歌うのは楽しいし、妹たちが喜んでくれるのは嬉しかった。

 そうだ。


 せつながどうこうじゃない。

 今は自分がどうしたいかを考えなくてはならない。


 あの日せつなの手を取ったのは何故だったか。

 確かに自分の中の気持ちに忠実だったからだ。

「歌が好き」

「音楽が好き、音楽は楽しい……」


 そういう好き、という気持ちに。


 自分に、自分の気持ちに忠実だったからだ。




「みあ、かれん。何歌おうか」

なぎの表情が先ほどとは違う。妹たちはそれを感じ取った。

「ファーレンハイトの新曲!」

「えー、私はね、私はね……」


 妹たちのリクエストに応える。なぎは、ファーレンハイトの新曲と、いくつか前のアルバムの限定トラックを口ずさんだ。

 妹たちが喜んでいる顔を見て今日ようやくはじめて、落ち着いて、心からほっとした気持ちになった。これが、いつもの日常だった。衝撃的な告白を受け入れて、現実感のない一日だったが、明日からは己の力でやっていかなくてはならない。努力しなければならない。だがなぎの心は不思議と晴れやかだった。普段通りの自分を取り戻せた気でいたからだ。

 なぎはこう考えていた。

 自分は、せつなの告白を聞いてから、自分のことばかり考えていた。しかし、どうだろう、恩になったせつなに対してそれはあまりに不義理だった。どんな理由があれど、せつなの新たな門出を応援したい。せつなが何の心配もなく新しい道へ進むためにも、自分も、せつなにとって何の心配もないような選択をしなくてはならない。せつなのためにも、前向きにこれからを考えるべきなのだ。そして、せつなが自分にくれたメリ、というものを残したい。 なぎの選択肢はほぼ決まっていた。


 ふたりに手をひかれ階下へ降りる。

 リビングで両親が心配そうにしていだが大丈夫だと伝えた。そのうち、家族に話さなくてはならない。

 妹たちが一緒にテレビを見たいというので付き合うことにした。

 ソファに並んでリビングのテレビを付けると、夜のニュース番組が流れていた。そして、とあるオーディションの特集をやっていた。それはPPCのオーディションだった。募集はもう締め切られたが、合宿をやっていて、これから結果が決まる。トップの成績の者はPレーベルの既存のユニットの新メンバーになるらしい。この件はなぎも既知だった。なぎは同レーベル内に交流したことのある者もない者もいた。仲のいい同期もいたし、まったく会話をしたことのない先輩もいた。新メンバーを加えるのは、どのユニットだろう、と考えた。

 オーディションをやっている合宿所の映像には、さまざまな特技をもつ若者がたくさん映っていた。

 そしてアナウンサーが現状を説明する。一次オーディションに合格した五万人の中から、今二次オーディションで五百人まで絞られた。そこからさらに三十人に絞り、この中からトップの数名がPPCと契約ができる……。

それをみてなぎは、ぱ、と朝日を受けた時のように目の前が明るくなるような感覚になった。天啓。

 これだ、と思ったのだ。


 それは第三の選択。解散でもない、ソロでもない、新しい選択だった。


 メリに、新メンバーを入れよう。


 新メンバーを迎えて、新たにふたり体制でメリをスタートできないだろうか。

このオーディションの中から新メンバーをひとり、もらえないだろうか。

なんならオーディションで成績が振るわなかったひとでもいい。とにかくひとり、誰かと組みたい。


 メリがデュオだったのもあり、なぎにはひとりで活動してするというのはもともとあまりピンと来ていなかった。それにひとりが楽しいとも思えない。けれど、ふたりなら……!



 夜、シャワーを終えて自室に戻る。

 熊谷から、なぎの心情を気遣うメッセージが届いていた。なぎは、今後について話したいから明日会えないかと返信した。すぐに既読がついて、明日の予定が決まった。スマートフォンをオフにして、なぎはぐっと、力をいれて深呼吸をした。そして、ベッドに入った。


——————


「おはよーございまーす!」

 朝八時のPPC本社。

 昨日と同じように、なにも変わらない明るい挨拶がひびく。なぎだ。

「おはようなぎちゃん」

 清掃員の返事がある、いつもの光景だ。

 今日もなぎは家族の送迎できた。

 エレベーターで上がり会議室に続く廊下のあるフロアへ入ると、ドアの前で熊谷が待っていた。


 さてここで、このメリのマネージャー熊谷のあについて紹介が入る。二十九歳。身長も高く容姿端麗。それもそのはず、実は彼も昔はこのPPCに所属していたアーティストだった。

元シンガーソングライターで、モデルもやっていた。海外のコレクションに出たこともあるようなPPCでも売れっ子のアーティストだったが、せつながなぎを連れてきて、ふたりでユニットを始めたいと宣言した際にあっさり引退し、ふたりのマネージャーになった。

 ドラマなどで使われたヒット曲が数曲あり、印税が未だに入るので懐は非常に裕福で、せつな、なぎ双方からの信頼も厚い頼れる男で、マネージャーとしての実績も数多く、その実力から、メリではなくもっと売れているユニットのマネージャーになるように会社から打診を受けているが、断っている。

 なぜなら、メリファンクラブ会員番号00番を獲得しているほどの男だからだ。説明書不要、彼は、せつな、そしてなぎのために働いていた。

 なぎがレコーディングなどで遅くなる時など、家まで送ることもあるので、家族は熊谷とは親しい。まだ未成年の息子を預ける頼りになる大人だ。そして、なぎの妹のうち、かれんの方はこの熊谷が家に来ると喜ぶ。かれんはすっかり彼のとりこだ。


「なぎ君、おはようございます。昨日は……大変でしたね。よく眠れましたか?」

「うーん……あんまり……熊ちゃんは?」


 なぎは熊谷をくまちゃんと呼ぶ。敬語も使わない。それは、熊谷がそうして欲しいと言ったからだ。熊谷は私もまり眠れませんでした、と答えた。


「実は、せつなは、ずっと前から何か考えているようだったんです。そして数日前に昨日の事を打ち明けられました。それがまさか、なぎ君を残して辞めることだなんて」

「そうだったんだ……」


 熊谷のフォローがあったので、なぎは熊谷も、だいぶ前から話を聞いていたのだと思っていた。熊谷は自身がメリのファンと自称していたし、この事態をどう考えているのだろうか。


 ふたりは昨日とは違う会議室へ入った。今日は土曜日なので、じっくり話しあえる。来る途中でコンビニに寄って、なぎはお菓子などを買ってきた。熊谷にお茶を差し出す。熊谷は感謝お述べて、それを受け取った。

 この会議室は昨日の事務的で無機質な部屋と違って、ゆったりと座れる大きな柔らかいソファがあり、本棚や暖色の証明がある、リラックスして話しができるような場所だった。熊谷がここを選んだ。

 ソファに腰掛けて、それからなぎは飲み物などを用意して、熊谷は何枚か書類を出してきた。なぎが話を切りだす。


「あのね、まずね、俺の気持ちを話していいかな? 昨日はほんと、びっくりして、心ここにあらずって感じになっちゃって、けど、一晩たってちょっとは落ち着いたから、熊ちゃんに聞いて欲しいんだ」

「もちろん。時間はたくさんありますから。話して下さい、なぎ君」


 少し置いて、なぎが話し出した。

「やっぱり、急で……すごくびっくりした。まだちょっと、なんというか、消化しきれてないというか……」

「なぎ君…そうですよね。」

 二人の間でこんなにも空気が重たいことがかつてあっただろうか。なぎは、熊谷は、岐路に立たされている。

「熊ちゃんは、今回のこと、どう思ってる? マネージャーとして、それからメリのファンとして……」

「まぁ、せつなのことですから、何を考えていても不思議ではないので、納得はしましたけど、なぎ君が心配で……。なぎ君に打ち明けるタイミングは、早い方がいいとは思いましたけど、急でしたよね。驚いたでしょう。せつなの言ったとおり、私がいますから、どうかまり気負いすぎないように。今後のことは心配しないで下さいね」

「うん……。ありがと」

「せつなはすでに会社にも退職を申し出ていて、協議中です。せつな名義の楽曲の権利関係のことなどがありますから、すぐに退社とはいきません。また、発表も少し後になります。まぁ、社内ではすでに情報が出回ってはいますが……。ファンクラブ向けの発表なども会社とタイミング等を検討中です。ただ、せつなはメリとして作った楽曲に関しては、こちらに権利を残すようなので、今後もなぎ君が歌って下さいね。昨日話していた新曲のレコーディングも、滞りなく進めることが可能ですから。もちろん、なぎ君が音楽活動を続けたいと言うならば……ではありますが」

「えっ……あ!」

 ここでなぎはまた、自分を恥じることになった。また自分のことばかりで熊谷のことを考えられていなかった。自分がせつなの脱退を受けて、メリが解散し、音楽活動を辞めるという選択肢をとればそれはすなわち、熊谷の職がなくなるということだ。もちろん彼には印税が入ってくるし、有能なマネージャーなので、食うに困ることはないだろうが、それくらいはなぎもわかってはいるが、熊谷は自分たちのために、引退するという選択をしたのだ。楽曲の権利だとかいう難しい話と、熊谷のこと。なぎはとたんに、自分の肩にいろいろ重たいものが乗っているように感じた。

 そんな風に堂々巡りのなぎの表情が二転三転するのを見て、熊谷がくすりと笑った。


「なぎ君、私のことを考えていますね。大丈夫ですよ。知っての通り、生活には困りませんから。なぎ君の選択に、私への気遣いは不要ですよ」

「熊ちゃん……」

お見通しだった。しかし、この件はなぎもまた、昨日の第三の選択に進む以上は杞憂だ。

「じゃあ、さっそく本題なんだけど……」

「ええ。昨日の件ですね。せつなが脱退して、その後なぎ君がどうするか」

 なぎが深呼吸をする。

「俺は、第三の選択を考えてきたんだ!」



——————



「第三の選択……?」

 熊谷が返すと、なぎは続けた。

「メリに新しいメンバーを入れたい。ひとり。新メンバーとの二体制で、新しいメリとしてスタートしたいって考えたんだ!」

「!」


 熊谷は明らかに、想定外の答えを聞いた表情だったが、あまりリアクションは無い。なぎが問う。

「どう思う? 熊ちゃん」

「え、ええ……そうですね、すみません、予想外の答えだったので。どう思うか……ですか?」

「俺、なんて言うと思ってた?」

「なぎ君はひとりで活動を続ける、と言うと思ってました。あなたは音楽が好きだし……自分でも気づいていないでしょうが、頑ななところもありますから。メリを残したいと言うとは思ってはいたんですが、まさか……」

「せつな君ありきのメリだったもんね……。俺がこれから誰か別のひとと歩んでいくメリはきっと前とは違うものになると思う。……熊ちゃんは、メリのファンとしてはどう? ファンクラブに入ってくれているひととかは……どう思うかなぁ……」


 なぎは熊谷に、いちファンとしての意見を聞いた。

「そうですね……せつなとなぎ、このふたりのメリに、私は人生をかけました。ふたりが離れ離れになってしまうこの結果はとても、心苦しいです」

「熊ちゃん……」

「ですが、ファンとしては、こんな時だからこそなぎを支えたい、と考えます。もちろんマネージャーとしも、ひとりの人間としても、です」

「!」

 熊谷の意見に、なぎの顔がぱっと明るくなった。これは、肯定だ。


「他のファンの方はなぎとせつな、せつなが好き、と言う方は離れていってしまうかもしれませんが、なぎが好き、とかなぎがこれから選ぶ新しいメンバーが好き、という新規層の開拓も十分に狙えるでしょう」

「それじゃあ……!」

「新メンバーを入れる案に賛成します。いっしょにがんばって新しいメリを作りましょう!」

「熊ちゃん! うん、うん……! 俺、頑張るよ! たくさん頑張る……!」


 こうしてなぎの、熊谷の、メリの、新しい指針がきまった。せつなの脱退という致命的な危機を、なぎはチャンスに変える決断を取ったのだ。自分のため、自分の周りの皆んなのため、諦めずにに道を模索し、困難に立ち向かい進む方を取ったのだ。再度言うが、彼がこの物語の主人公である。主人公である所以が、ここにある。


「そうと決まれば会社との調整などは私がしますので、早速オーディションを見にいきませんか?」

「え?」

「Pレーベル新人杯……最終選考中なのは知っていますよね? 最終選考に残った三十人のアーティスト希望の若者が、今この会社でレッスンを受けているんです。一週間後に結果発表です。闇雲にいちから新人を探すよりも、今集まっている三十人の中から考えてみませんか?」

「ほんと⁉︎ 行く! 何階⁉︎」


 熊谷の提案に、居ても立っても居られないなぎはソファから立ち上がる。

「一階の多目的ホールです。鏡のある一番広い部屋ですね。なぎ君も訓練生時代はお世話になったでしょう? レッスンに皆が集まってくる時間帯には少し早いかと思います。行って待ちましょう。……あ、すみません。なぎ君、電話が……少しいいですか?」

熊谷が電話をとる。

「せつな?」

「!」

 電話の相手はどうやらせつなのようだった。なぎは、せつなの名前が聞こえたその一瞬で自分が今どんな感情なのか、わからなくなった。聞きたいことがある、疑問をぶつけたい、今の報告をしたい、話がしたい……。電話を代わって、と言いたかった。が、やめた。これは、怖くて話したくない、というネガティブな気持ちと新しい挑戦に頭がいっぱいなポジティブな気持ちが混ざったもので、なぎは熊谷に小さく、「先にいってるね」と、声をかけ、熊谷が頷いた後に、席を立って退出した。


——————


 なぎが完全に部屋から出て、廊下を足早に去っていく音がした。それは、電話越しのせつなには届いていないはずなのに、完璧に近いタイミングで、せつなが話しかけてきた。

『熊谷、なぎ、行った?』

「ええ」

『良かった。なぎには聞かれたくない話だし。……なぎは選択をしたんだね』

「せつな、やはり、こんなこと……」

『今更どうした? お前はそういうところあるよな。結局なぎに甘い。もう遅いよ、熊谷。お前も共犯だ。最後まで、僕と犯すんだ、なぎへのルール違反を』

「……」


 熊谷の表情はひたすらに険しい。

 しばらくせつなと話して、電話が終わる。事務的な事柄を中心にしたいくつかの決定を下して、熊谷は書類を整理して、なぎを追いかけようとして、しかしやめて一旦ソファに座り直して、深いため息をついた。


——————


 なぎはさっそく一階の多目的ホールに着いた。大きい窓に鏡。このレッスン室は、なぎがPPCに入りたての頃に、同期との合同トレーニングやレッスンで何回も使用した場所だった。なぎには感慨深い場所だった。まだ早朝で空調も入れていないため、吐く息がうっすら白くなるほど、室内は冷たく澄んでいて、なぎは少し身震いをした。

まだ誰もいない。熊谷が来れば空調を調整してくれる。


「懐かしい……」

 なぎは鏡の前に移動した。バレエ教室のように壁一面が鏡になっていて、手前に手摺。

「ふふ……」

 なぎは、メリはダンスユニットではないのでダンスには無縁だが、鏡を前になぎはくるくると回り出した。これは、同レーベルのファーレンハイトの曲だ。音響装置の会社のCMに使用されて、昨年流行った曲だ。妹たちも大好きな曲。ファーレンハイトにしてはポップ寄りで歌詞も明るい。

 歌って、踊る。なぎが歌うと、ファーレンハイトの曲もどことなく穏やかに聞こえる。そして、ステップや振り付けは完璧ではないが、MVやライブの映像を思い出して、少しアレンジして踊った。

 室内が寒いから、体を温めるのに丁度いい。

 三年前……せつなのスカウトでPPCに入ったまったく新人のなぎが、ボイスレッスンの他に、同期といっしょにここでダンスレッスンをしたのだ。それを思い出す。懐かしくて、楽しい思い出だ。せつな以外との接点があまりないなぎにとっては貴重な時間だったし、おかげで同期で仲のいい友達もできた。そういえば、レッスンに参加するように言ったのは、せつなだった……。

 サビの手前で、なぎは少し切なくなった。歌詞もちょうど昔を懐古するようなフレーズで、シンクロする。サビ、ここが好きだ。MVでもここがとてもカッコよくて、動画サイトで何度も再生した。なぎもファーレンハイトのファンだ。そしてAメロが終わる……その時だった。


「あんた、誰だ?」


 なぎの背後から、声がした。

 なぎは驚いて振り返る、と同時に「あ」と情けない声が出た。バランスを崩した。転ぶ、そう思って、きゅ、と目を閉じて体を硬くして、衝撃に耐えようとした……が、腕を引かれて、体勢を持ち直す。声を変えたその本人が、なぎに駆け寄り、助けた。


「大丈夫か?」

「あっ……あ、うん……。ご、ごめん、ありがと……」


 なぎもしっかりと床に足をつけ体重を取り戻す、それから、助けてくれた腕から少し離れる。

 顔を上げると、自分より背の高い少年だった。癖毛の黒い髪がふわふわしていて、まだ幼さのある顔つきに似合わない長身で、スポーティな薄着だった。


「悪い。急に声かけたから」

「え! いや、そんな、勝手に俺がコケただけだから! 助けてくれてありがとう! にしないで!」

 少年の謝罪に、なぎは答えた。

「で、あんた誰だ? オーディションにいたか?」

「えっ……」

 ここで、なぎは勘違いされていることに気づいた。この少年はオーディションの最終選考に残った三十人のうちのひとりで、なぎのこともそうだと勘違いしている、と。

「俺、違うよ。オーディション関係なくて……」

 どこから説明したらいいか迷い、不明瞭な答えになった。少年は、あぁ、どうりで、と答え。

「納得。歌もダンスもイマイチ。……部外者立ち入り禁止のはずだけどな」

「!」


 歌もダンスもイマイチ。なぎはショック……というよりは普通に驚いてそれで、その後赤面して、黙り込んでしまった。……見られていた。ひとりで歌って踊っていたところを。

小さく、どこから……と、声に出すと、少年は最初から見てた、と答えた。なぎは、恥ずかしいのと同時に、まったく気づかなかった自分に情けなくなった。しかしなぎはただ黙っているだけの男ではない。

「失礼だなぁ! 君、名前は?」

「白樺れいと」

「そんなに言うなら俺より上手い歌かダンス見せてよ!」


 売り言葉に買い言葉。なぎは、見た目よりずっと気が強い。なぎの目的は新人の勧誘だが、この瞬間それを完全に忘れていた。一種、れいとは呆気に取られて、しかしわかった、れいと、と名乗った少年が答える。なぎはえっ、と言ったが、荷物を下ろして軽くストレッチをして、それから鏡の前に来る。なぎの方を向いた。なぎは困惑しながら、少し距離を取った。そして、スマートフォンから、曲が流れる。ファーレンハイトの新曲だ。歌とコーラス抜きのオーディション用の特別版だが、なぎはそれは知らなかったが、この曲が歌もダンスも難しいことを知っていて、さらに面食らった。しかし次の瞬間、どうでもいい考えがすべて吹き飛んだ。


 ……上手い!


 なぎはれいとの歌い出しの一瞬で、ただの多目的ホールが、れいとのワンマンライブの会場になったかのように感じた。

 朝の光の差し込む窓は消え失せ、照明を落とした会場のステージに、れいとだけがいる。彼にだけスポットライトがフィーチャーしている。そんなライブ会場にいる一観客のごとく、なぎは彼に釘付けになった。

 そして、感想はただひとつ。


 上手い!


 れいとの歌声は、ピッチも音程も安定していてそれでいて高音も低音もよく通る。そして英語のフレーズもネイティブのようだった。さらに、ファーレンハイトの難しいステップをこなしてもそれらは崩れることなく、サビへ向かう。Aメロのサビは特に、音程、曲調とリズムもハイレベルだが、それも問題なく歌いこなす。素人が聞いてもわかる、ちゃんと声を己の武器、道具として操ることのできる「プロ」の領域だ。

 Aメロが終わる。れいとがスマホの音を止める。途端にはちきれそうなほどの拍手が目の前から起きた。なぎだ。


「君! 君っ……! れいと君、すごいね! すごいね! 本当にすごい! 俺、びっくりした! 本当にすごいよ君‼︎」


 興奮気味で支離滅裂ななぎが近寄ってくる。れいとは息ひとつ乱していない。なぎにどうも、とだけ答えた。そしてなぎは、興奮状態のまま、とある言葉を発した。それは、なぎはほぼ無意識で、なんの打算や計算もなく、本当に心から出たれいとへの賛辞であり、最大の気持ちの表現だった。


「ねぇ、君、俺と組んでよ! 俺といっしょに歌おう⁉︎ メリに入って!」

「⁉︎」


 静寂の多目的ホールは、なぎの熱意を前にその寒々しい空気をきらりと輝かせていた。




——————



「はぁ⁉︎」


 れいとの、今までで一番大きな声が多目的ホールに響く。れいとは自分の前の、まだ名前も知らない少年を伺った。自分より小柄で、存在感もない。平凡な容姿。華奢で、服装もイマイチだし、歌もダンスも特筆すべきはなかった。こいつは、何を言っているのだろうか? 組む、とはどういう意味が、こいつは何なのか。

 しかし、自分を見るなぎの瞳が、れいとが表現できないほどに輝いているのはわかった。その大きな瞳に四方八方から、たくさんの空の色の光を嵌め込んだように、まぶしく、無意識の功罪を覚えるほどに、きらめいて見えた。それが、耐え難い価値を持つ至宝のような輝きが、自分を称賛し、歌とダンスを屈託なく心から称えてくれている……れいとは、この感情が何かわからなかった。しかし確かに伝わっていた。なぎかられいとへ。真っ直ぐと……。


「おはよー」

 多目的ホールの扉が開いて、ぞろぞろとたくさんの若者がなだれ込んできた。他のオーディションの最終選考メンバーだった。

「!」

 さらに、別の扉からは、オーディションの教官が入ってきた。並べ! と声がかかる。

 なぎとれいとのいる鏡の前のスペースに、約三十人、オーディションのメンバーが番号準に並び始めた。

「あっ、あっ、どうしよ……」

「こっち来い」

 なぎは当然番号もない部外者なのだが、場の動きに負けて、動けなくなってしまった。れいとがなぎの腕を引いて、隣に立たせる。とりあえず、ここにいることにした。


「おはよう最終選考者諸君!」

 オーディションの教官が話し出す。

「今日は君たちの先輩が、君たちのレッスンを見に来る。君たちがどのユニットに入るかが決まるかもしれない。気合い入れてレッスンを受けるように!」

 オーディションは残り一週間。そういえば、となぎは考える。オーディションのトップが既存ユニットの新メンバーになることは発表されているが、それが何人で、一体どのユニットに入るかは発表されていないのだ。先輩が来る、とはつまり、新人を迎えるユニットのメンバーがこのオーディションのレッスンを視察に来る、ということだろう。


「ファーレンハイトのひゅうがさんが来るって本当っスか⁉︎」

 なぎとれいとより手前にいた少年が発言する。なぎはその、ひゅうが、という名前には馴染みがあったが、それよりその少年が、更に前に出てこちらに向き直り、教官を背に他メンバーに向けて大声で話し出したので驚く。

 銀髪に紫のメッシュのアクセントの入ったヘアスタイルが無造作にセットされている。やや吊り目でいかにも気の強そうな整った顔立ちで、背も、れいとと同じくらいある。なぎが一六〇センチメートルだが、れいともこの少年も一八〇センチメートルに届くくらいはある。恵まれた容姿、体格だ。教官は彼の発言にはリアクションはしなかった。


「ならみんな、帰っていいぜ。お前らみたいなレベル低い奴らのレッスン、ひゅうがさんに見せるのありえねぇから!」

 両手を広げて、挑発するようなポーズで、そう宣言が下される。

 他のメンバーが騒つく。教官は呆れた顔で、あまり察しの良くないなぎにすら、多分この少年が問題児なのだと即座に理解させた。

「おい、れいと! お前は残るよな? 俺たちツートップでファーレンハイトに入るだろ?」

 なぎの隣にいたれいとが少年から指名を受けた。少年はどうやら、ファーレンハイトへの加入を希望していて、しかも、れいとも一緒に、というわけだ。なぎは先程のれいとの実力から、あり得るかも、と考えた。しかし、この少年については未知数だ。

れいとを見上げると、複雑そうな表情だった。半分は呆れている。

「No.6、一ノ瀬るき! 静かに並んでろ! まったくお前は毎度毎度……! お前の尊敬するひゅうがが外で待機してるんだぞ」

「え⁉︎  早く言って下さいよ!」

 教官が注意すると、一ノ瀬るき、と呼ばれた少年はいそいそと元の位置に戻った。他のメンバーがざわざわと、控えめに騒ぎ出す。

「ひゅうが君……?」

 なぎもまた、ぽつりと呟く。れいとには聞こえたが、次の瞬間には、教官が「七星君!」と大声で多目的ホールの外へ叫ぶ。そしてホールへひとり、男が入ってくる。その場が一気に騒がしくなった。


「七星ひゅうがだ!」



——————




 教官がこっちだ、と声をかけると、その人物、七星ひゅうがは何のリアクションも無しに、ただ踏み出した。そしてその瞬間、ざわついていたオーディションのメンバーたちが水を打ったように、一気に静まり返る。

 ひゅうがの圧倒な存在感が、場を支配したのだ。


 ここで七星ひゅうが含め、ファーレンハイトについて説明する。

 ファーレンハイトはPレーベルの売り上げトップのユニットだ。メンバーは6人で、そのリーダーが七星ひゅうがだ。イメージカラーは黒。

(Pレーベルのユニットはそれぞれマーケティングの観点からイメージカラーが決められている。余談メリのイメージカラーはミントグリーンだ)

 PPCのPをパーフェクトのPとして、圧倒的なパフォーマンスで国内トップの人気を誇るボーカルアンドダンスグループ。ロック中心のポップがメインで、メンバー全員が高度なパフォーマンス、音楽、ボーカルをこなし、そのクオリティのすべてが他の追随を許さないオリジナリティとカリスマ性を放ち、海外からの支持も厚い、今をときめく実力派アーティストだ。音楽番組の出演やCMやアパレルとのタイアップをはじめ、国内でファーレンハイトのメンバーを見ない日はないため、ファン層は老若男女幅広く、PPC所属のアーティストの中でも知名度もまたトップだ。

 オーディションについて、もし本当にファーレンハイトの新メンバーになることができたら、それは約束されたスターへの道であり、このオーディションを受けた全メンバーの希望であり、栄光であるはずだ。詳細の発表がなかったため漠然としていたその夢が、今まさに目の前にあるのだ。一同は、あの、るきですら、れいとですら、呆然としていた。


「今からお前たちに……」

「待て」


 教官が話そうとしたのをひゅうがは遮る。

 教官より前に出て、メンバーの方を伺う。


「なぎ、そこで何をしてる」


「⁉︎」


 全員が、ひゅうがの視線の先へ釘付けになった。そう……なぎだ。背の高いメンバーに隠れて、れいとの隣でこじんまりと、所在なさげにしていた。

「えと……えーと……」

 なぎは一気に注目を集めたせいであたふたとしている、れいとは隣のこの少年を驚いた顔で見つめた。

「なぎって……おまえ、まさか……」

 れいとがなぎの正体を明かすか否かの直前、ひゅうががため息をついて、メンバーの間を割って入って、なぎの目の前まで来た。

 なぎの手を取る。

「あの、ひゅうが君、邪魔してごめんなさい。けどあの、話すと長くて……」

「お前はこっちだ。来い」

 ひゅうがはなぎを引っ張り、自ら後退りしてふたりを避けるメンバーを横目に、教官の隣まで歩いた。

「凪屋じゃないか! お前なにしてんだ?」

「黒瀬教官……あはは、お久しぶりです……」

 なぎの正体に気づいた教官が声をかける。なぎも新人の頃お世話になったので、顔見知りだ。とは言え、なぎはどことなく彼が苦手だった。


「えー、じゃあ改めて……」

 黒瀬教官が、メンバーの方へ向き直り、話を始める。改めて、今日の日程の確認や点呼を取る。すると、ひゅうががなぎを、少し引いて、教官よりやや後ろに下がり、そしてかがんで、顔を近づけてくる。ひゅうがは一八五センチメートルある。なぎよりもずっと大きい。なぎは察して、少し背伸びをひた。ひゅうがが耳元でこそりと話はじめる。ひゅうがの髪が顔にかかって、なぎは少しくすぐったいと思った。

「例の件、聞いた」

「!」

「熊谷はどうした」

「あ、熊ちゃんは、熊ちゃんもここに来るんだったの、けど、俺……えーと……」

「何かあったら言え。俺が必ずお前の力になる。二階に、水島と音村が来ていた。もう行け」

「!」


 そこまで話すと、なぎの手を引いて、ドアの方へ向かう。なぎはメンバーの方を、れいとの方を見たが、れいとは教官の話を聞いていて、視線がかち合うことはなかった。

 ひゅうがが扉を開けて、なぎの腰のあたりを押して廊下へ退出させる。


「熊谷が来たらお前のことは伝えておく。……なぎ、俺はお前の味方だ。何があっても」

「う、うん。わかった。ありがとう。お仕事がんばってね、ひゅうが君」


 なぎがそう答えると、ひゅうがは少し笑って、扉を閉めた。




——————




 さて、つまり体良く追い出された、もしくはひゅうがの気遣いで退出させてもらったなぎだが、ひゅうがとの関係についてまだ説明していない。しかしこれは説明するほどのこともない。ひゅうがは、なぎを評価して、気に入って気遣ってくれる。しかしなぎはその原因がわからない。ただひゅうがが、あまり笑わない人間であることや、音楽以外の余計な仕事を嫌がるストイックな人間であること、所謂ファンサをしない人間であるとは知っているので、少し自分が特別扱いなのは理解していて、しかし何故自分に良くしてくれるのかわかっていない……そんな仲、がこのふたりの間柄の説明になる。

 これ以上の説明はしようがない。

 なぎは言われた通り、二階へ向かうことにした。熊谷に合流したいし、れいとが気になる、が、ひゅうがが先程述べた二人の人物の名前を聞いて、無視はありえないのだ。

 水島と音村。水島は水島ぎんた、Pレーベル「ミーハニア」のリーダー。音村は音村ななみ、「ツインテイル」というユニットのこちらもまたリーダー。このふたりはなぎの同期であり、親友と呼べるほどの仲良しなのだ。つまりひゅうがは、せつなの件を受けて、この二人がいるのを知って、なぎの気分転換になれば、とふたりに会ってくるようにと言ったことになる。


 二階の、自販機などのある休憩コーナーへ向かう。人影が見える。ぎんたとななみだった。

「ぎんた君! ななみ君!」

 声をかけるとふたりが振り向いた。なぎ、とふたりが同時に発音した。そして駆け寄る。三人になる。

「ふたりとも、一緒に来たの? ひゅうが君にいるって聞いて……」

「うん、待ち合わせて来たの。なぎ君に会わなくちゃって思って……」

 なぎの問いに答えたのがななみの方だ。十六歳。なぎと同じくらいの背丈で、髪が肩につくくらい長い。そして女の子のような顔立ちだ。服装は通っている音楽学校の制服で、ギムナジウムを思わせるクラシカルなセーラー。

 話が終わらないくらいのタイミングで、ななみはなぎに抱きついた。

「大変だったね、聞いたよ、せつなさんとのこと。辛かったよね。なぎ君、辛いよね……」

 ななみは半分涙声で、なぎをぎゅう、と抱きしめる。

 なぎは、ななみの涙を受けて、自分よりななみの方が心配になったが、抱き合うふたりに、もうひとり……ぎんたが近寄る。

「なぎが心配で、ふたりで話を聞こうと思って来たんだ」

 水島ぎんたは、ミーハニアのリーダーでふたりより少し年上だ。二十歳。少しもさりとした明るい長髪をひとつにまとめて、片目が隠れている。しっかりとした大人の輪郭と体格を持ち、背丈も一六〇前後のふたりに比べて頭ひとつぶんは飛び抜けていて、当然態度もふたりよりは大人で、この状況をなぎに的確に説明した。ふたりにとってはぎんたは同期の友人同士であるとともに、頼れる存在でもあった。


 そうふたりは、せつなの脱退の件で、なぎを心配し気遣って駆けつけたのだ。


「ふたりとも……ありがとう。もう知ってるんだね?」

「社内の一部にのみ回って来たんだ。けどメディア対策で実は広報部もまだ知らないらしい。なぎ……大丈夫か?」

 肩口でぐすぐすとしていたななみもようやく少し離れて、なぎの顔をじっと見つめる。なぎはななみと、ぎんたをしっかりと見て、にこりと笑って見せた。大丈夫、と答えた。

「せつな君のことはかなりびっくりしたし、その、ショックだった。けど、何もしないで落ち込んででるよりは何かしたいなって思ったんだ。熊ちゃんと相談して、音楽は続ける方針にしたんだよ」

「続ける……というと……」

 ぎんたが首を傾げる。

「ソロになるの? …うち来る? うちに来なよ、なぎ君! ツインテイルに来て! 三人でツインテイルやろう?」

 ななみが提案する。それではツイン、ではなくなるのでは? というツッコミはさておき、ぎんたも同様の提案をした。

「ウチでもいいぞー。もともとミーハニアは五人だし、ひとり増えるぐらいなんともないし、なぎが来たら楽しそうだ」

「ふたりとも……」

 なぎは友人に恵まれたな、と思った。こんなにありがたい事はない。

「実はね、メリにひとり勧誘して、ふたりになろうと思ってるの。それで、今オーディションの会場見てきたんだけど……」

 なぎは自分の今の状態を説明した。

 そして、れいとが頭に浮かぶ。れいとの歌声が鮮明に蘇る。光の衝撃。

「そうだ! それでね! すごいコ見つけて……あっ! 俺、なんて言ったっけ⁉︎ 名前乗ったかな⁉︎  とにかくすごいコ見つけて、いっしょに歌ってくれないかなって思って……」

 れいとの顔が浮かんだ瞬間、しんみりとしていた空気が変わる。なぎは一生懸命に、いかに凄い人物に出会ったかを語る。ぎんたとななみのふたりはそれを見て、互いにくすりと笑った。

「良かったぁ……なぎ君、ちゃんと元気そう」

「そうだな。なぎえらい。でも、いつでも、ミーハニアに来ていいからなぁ。待ってるよ」

「うん、うちも!なぎなら大歓迎。だから、あんまりがんばりすぎないでね?」

「ありがとう、ふたりとも。わざわざ来てくれて……その、しばらく、落ち込んだり元気だったり、俺変かもしれないけど……頑張ってみようと思う」

 ちょうど、場があたたまったところに、足音がして熊谷が来た。みなさんお揃いで、と、ななみとぎんたに挨拶をした。ななみが礼儀正しく挨拶を返して。ぎんたも熊谷に軽く挨拶をする。

「熊ちゃん、ごめん、多目的ホール……」

「ええ、ひゅうがに会いましたよ。なんだか難しそうな顔してました。その割、機嫌はなかなかでしたけど。なぎの方はどうでしたか?」

「あ、うん、凄くいいコがいて、誘いたかったんだけど、話途中になっちゃって……」

「そうなんですね。では、これからミーティングとしましょう。水島君、音村君も、お時間がありましたら、なぎに力添え願えますか?」

 ふたりはもちろん、と頷いて、なぎに熊谷、そしてぎんたとななみで、メリの今後に向けての話し合いをすることになった。



——————



「こちらが、今回のオーディション最終メンバーと、現段階での社内の総評ですね。これらはに関しては口外しないようにお願いしますね。」

 熊谷のリードで四人での会議が始まる。

 小さめのミーティングルームに、長机を挟んで四人で腰掛ける。

 熊谷が持って来た資料は、オーディション最終選考に残った三十人のプロフィールと、現段階での社内での評価、動きだった。

「ほぉ……。会社はやはり、ファーレンハイトに新メンバーを加える気だったか」

「でも、よく七星さんが許可したね」

 ぎんたとななみが、資料を見て言う。それに関してはなぎも同意だ。ファーレンハイトは今の状態で完璧なグループだ。

「社長、会長、役員総出で直々に、ひゅうがに頭を下げたらしいですよ。そこまでされたら、ひゅうがも断れないでしょう。実際今日も視察に来させられていましたし」

え、と三人から濁った声が出た。ぎんたは、自分がそんな状況になったらと胃が痛くなるような考えを持ったし、ななみは単純に驚いていた。ひゅうがは音楽活動以外は、番組や雑誌のインタビューすら嫌がる。熊谷が言うには、今日は機嫌が良い方だ、とのことだった。


「ひゅうが君にそこまで……どうして?」

「このオーディションは会社の維新をかけて多額の資金が投資されました。メディアでも大々的に取り上げられていますから。会社側としては絶対に成功させたいプロジェクトなんですよ。まぁうちもいろいろ厳しいですからね。会社は売り上げを考えなくてはいけませんから」

 経営戦略だとか株だとかとんでもなく難しい話があり、そこは熊谷は理解しているが、ほか三人にはかなり噛み砕いて伝えた。熊谷が外国の大学を卒業していて、かなり頭が良いことも含めて、本題ではない。

「そして、今のところこのふたりを、ツートップでオーディション合格にしたふたりとして、ファーレンハイトに加入させる……という目論見のようです」

「あーーー‼︎」


 熊谷が資料を机に広げて、それを見たなぎが大きなリアクションを取った。

「このコたち、ふたりとも見たよ! れいと君、るき君! ふたりとも目立ってた! どうりで!」

 ぎんた、ななみも資料を確認する。そこには、白樺れいと、一ノ瀬るき、双方の資料があった。

「なぎ君、凄いコがいるってさっき言ってたよね。このふたり?」

「うん! そう! この、れいとってコの方! やっぱり凄いコだったんだ!」

「……てことは、それは良くないんじゃないか? このふたりを会社は、ファーレンハイトに入れたがってるってことだろ?」

「あ……」

 なぎが事実に愕然とする。すかさず熊谷のフォローが入った。

「なぎ君、話をするだけしてみる価値はあるかと。ダメだったら、他のコに行きましょう」

「な、熊谷さん、そもそもこのオーディションで集めたメンバーを、勝手にメリに引き抜いていいなんて、会社が許可するか?」

 ぎんたが問う。それもそうだ。なぎの眉が下がり、顔色がますます曇る。

「会社に話はまだしていませんが……まぁ、そこは、私の手腕にお任せを。上手くやりますよ」

「さすが敏腕マネージャー」

 ぎんたが笑う。

 熊谷が言うのなら大丈夫だろう、なぎはほっと肩を撫で下ろした。

「じゃあ、れいと君を含めて、何かに声をかけてみるよ」

 なぎが計画を立てる。トップのふたりは無理でも、当たって砕けろ。誰か、誰かがメリに入ってくれればいい……しかしなぎの心はどことなくもやっとしていた。そう、れいとだ。れいとがいい、と思ったからだ。それ以外のひとを選ぶ……そうなってしまうのだろうか。

「なぎ君、せつなの件はまだ話さないで欲しいんですが……。なので、ファーレンハイトへの加入オーディションに落ちても、別のチャンスがあるかも、といったように話してもらえますか?」

「あ、わかった。そうだよね」

 しかしまだ、なぎはうーん、と考え込む。

「どうした?」

「弱い……よね。俺といっしょに歌って欲しいっていう意気込みが、ただ勧誘するだけじゃ伝わらないよね。どうしたら、俺といっしょに歌いたい、って思ってくれるかな」

 つまり、なぎ側、メリとしての、新人へのアプローチの問題だ。

「……」

 ぎんたとななみがお互いの顔を見て、同時に同じことを発した。

「それなら、一曲作ってみたら?」




「えっ⁉︎」


 なぎの面食らった声に、逆にふたりの方が驚いた。なぜならこれは、真っ当な提案だったからだ。まず、なぎが、せつなに作曲について習っていたことは親友であるふたりには周知の事実で、なぎが十分に実力があるのに、未だに曲を作り上げるに至っていたいことも知っていた。そして残りは、このふたりの特性だ。まず、ななみは音楽学校に通っていて、ななみのユニットのツインテイルは両者ともに絶対音感を持つ音楽のエキスパート。ななみはこの若さですでに何曲も名曲と名高い作曲をしている。この提案が出るのは至極当然だった。次にぎんただが、ぎんたのユニット、ミーハニアの特異性に基づく。ミーハニアはメンバー全員が何かしらのクリエティブな能力を持っているのだ。当然ぎんたも、音楽活動以外に心身を捧げる「あること」が、あり、己の能力や本気であることを示すのに、物を作りそれを提示する、という行動の提案に至るのは当たり前の思考回路だった。

「曲……ですか。そうですね、それはいいかもしれません。一曲作って、それを一緒に歌う相手を探している、と伝えましょう。どうです、なぎ君、できそうですか?」

「あ……うん、やってはみる……」

 できない、と言わないのはなぎの美徳だった。

「私も手伝いますから、勧誘と曲作り、頑張りましょう」

「あっ……うん!」

 なぎの顔がぱ、と明るくなった。そう、熊谷は元シンガーソングライター。それもかなり売れていた。サポートは万全。何も心配することはなかった。こうして、今後のなぎの目的が明確に定まる。曲を作り、新人を勧誘する。メリの存続が、なぎの活動にかかっている。


「みんな、ありがと! 俺、がんばるよ……!」

 まずは先ほどの白樺れいとに話をしにいこう、となぎは思った。

 白樺れいとがいい。彼と歌いたい。

 昨日はせつなに突然の別れを切り出され、この世の終わりかと思うほどに混乱して絶望していたが、一日たった今それは、大袈裟だったと考えなおした。自分には、支えてくれる家族や仲間がいる。マネージャーの熊谷に、同期で親友のふたり。これほど恵まれていてありがたいことはない。それに、新しい出会いがあった。まだまだこれからだ。世界の終わりじゃない。自分のやり方次第でどうにでもなる。

「熊ちゃん、昨日行ってた新曲は、その、新しいメンバーと歌ってもいい?」

「ええ、もちろん」

「俺が今から作る曲とその曲で、シングル出したいな。新生メリの、第一弾!」

 明るい未来の計画に一同が頷く。

なぎはさっそくノートに、作詞作曲のアイデアをまとめることにした。




——————



「あっ、いたいたよかった! 探したよー!」

 だいたい正午ごろになってようやくなぎはれいとに再会できた。


「あんたか……」


 社内にいくつかある休憩スペースで、れいとは昼食を取っていた。おおきな柱を取り囲むベンチ。空気がひんやりとしていて、周りにひとはいない。れいとは群れないタイプらしい。そしておにぎり。ラップに包まれているので、おそらく手作りだ。

「中身なに?」

「昨日の残り物。……何の用だ。メリの凪屋なぎ先輩?」

 れいとの反応があまり良くない。なぎは自分が何か失礼なことをしたか疑問に思った。

「また偵察か? 人のこと騙して、あんたもオーディションの選考に関係してるのか」

「あっ……」

 そうだった。名乗らなかったせいで、オーディションのメンバーではない、とまでの認識を最後に以降をまったく説明できていなかった。れいとからしたら、メリの凪屋なぎ……ひゅうがと懇意にしてそうな人間に、抜き打ちで審査をされていた、と考えてもおかしくはない。なぎはまず、誤解を解く説明をした。

「違うんだ。ごめんなさい。騙そうとしたとかじゃないし、俺はオーディションには関係ないんだ。名乗らなくて、本当にごめん。改めて、俺、凪屋なぎ。よろしくね、れいと君」

「……」

 なぎの謝罪にれいとはばつが悪そうにしていた。なぎとは会ったばかりだが、人を騙そうとして近寄ってきたようには感じてはいなかったのだ。わざと、少し意地悪をした。それを全く悪意なく返されて、れいとにはもうどうしようもない。

「それでね、用ってのはね……」

「悪いが、却下だ。メリには入れない。」

「え⁉︎」

 なんと、なぎが本題を切り出す前に断られた。

「あんたが自分で言ったんだ」

「そ、そうだったっけ、俺言ってた? あれ……」

 そう、あの時のなぎは無意識だった。れいとの歌声にダンスに感動して出た心からの称賛があの言葉だったのだ。

「あのね、聞いて。俺、本気なんだ。曲をつくるの。それを新しい相棒と歌いたいんだ」

「メリは白鳥せつながいるだろう。新しい相棒とはどういうことだ」

「あっ……」

 せつなのことは言及しないという約束だったのに、なぎはうっかり、半ば真実を話してしまった。そもそも、せつなの件を秘密にしておく、と会議する前に、れいとを(無意識だったが)勧誘してしまっている。

「えーと……」

「捨てられたのか」

「え」

「俺の聞くかぎり、メリは、白鳥せつなありきのデュオだろう。白鳥せつなは変えられないが、相棒は変えられる。あんたじゃなくていい。合ってるか?」

 れいとの物言いは、今度は決して意地悪から来るものではなく、れいと本来のややぶっきらぼうで遠慮のない性質から来るものだった。しかし、そんなことはなぎには関係なかった。そう、捨てられた、というその一言が、今までなぎがなんとか向き合わずにいた一言が、思わぬところから浴びせられたのだ。


「!」

 れいとがぎょっとする。

 なぎが涙を流していた。

「お、おい……」

「あ……」

 れいとより一歩遅れて自分の頬を伝うそれに気づいたなぎだが、それを拭うことができなかった。おろおろと困惑していたれいとが、食べかけのおにぎりを置いて、自分の服の袖で、なぎの涙を拭った。

「わ、悪かった。ごめん。なぁ……」

「……」

 なぎは無言ではらはらと涙を流したままで、しばらくれいとの謝罪にも反応しなかった。しかし、そのうち、自分で涙を拭って、それから、まだ涙目の顔を上げて、れいとに答えた。

「そうかも。急に泣いてごめん。……多分そうだ」

「……」

「あのね、秘密にしてほしいんだけど、せつな君脱退するんだ」

「!」

「俺、ひとりになるから、それで、ひとりよりふたりのほうがいいって思って、新メンバーを探してるんだ」

「そう……か……」


 せつなの件を、れいとには話す事にした。れいとには話してもいいような気がしたからだ。


「それで、君がいいなって思ったのに。君の歌……すごいなって思ったから。」

「俺を、評価してくれてありがとう。けれどやっぱり、メリには入れない」

「……ファーレンハイトが好きなんだね」

「違う。……金のためだ。俺は金のためにオーディションに来た」

「え……」


 れいとの話はこうだった。れいとの実家は、いわゆる貧乏な家庭で、外国人の母親がひとりでれいとと兄弟を育てている。れいとは十四歳。下にふたり弟がいる。まだまだ家族は金がいる。食費や学費……金がない。金がいる。れいとがオーディションで、ファーレンハイトに入れることになればそれは成功の約束であり、即ち金になる、ということだった。そうしたら、自身は大学に行けるし、母親や弟に楽をさせてやれる。れいとは、音楽が楽しいだとか、好きだとかそういう感情はほぼなくて、ただ容姿が良いことと、英語がネイティブで歌が上手いことから、それらが武器になると考えオーディションに挑戦した……。完全に打算だが、今のところ上手くいっていて、このままファーレンハイトに入りたい、とのことだった。


「そうなんだ……」


 なぎは面食らった。金のために、というのは、音楽を好きで、楽しくてメリとして活動しているなぎの思考から、最も遠いところに位置していた。なぎは裕福ではないが両親の揃った家庭で、何不自由なく育った。愛され、育まれてきた。これまで自分の生活における金銭関係について考えたことがなかった。金がない、という気持ちがわからなかった。もし仮に、れいとや他の最終候補生を誘って断られるとしたらそれは、ファーレンハイトの方がいいだとか、楽しくなさそうとか、音楽性の方向の違いだとか、そういうことを考えてはいた。そのくらいは考えていた。逆に、そこまでしか、考えていなかった。なぎの甘いところだったかもしれない。年相応の隙かもしれない。なんにせよ、なぎの予想を一八〇度超えて来た解答に、なぎは脳内の処理が追いつかない。

れいとが、食べ終わったラップをくしゃりと握りつぶして、立ち上がる。

「だから……悪いけど、じゃあ。勧誘頑張ってくれ」

「うん……」


なぎとれいととの再会は、あまりにも呆気なく終わってしまった。



——————




「そうですか……」

 なぎはその後、熊谷にれいととの件を報告した。なぎが明らかに、朝よりも落ち込んでいるので、熊谷が大丈夫かと伺う。なぎは絶対に大丈夫と答えるので、それとは別に、熊谷はなぎに注意することにした。

 そしてなぎに提案をする。れいとがダメでも、もう夕方でレッスンが終わるので、オーディションの最終候補の他のメンバーに声をかけてみよう、と。なぎはそうだね、とその提案に乗った。


「なぎ君、何か言われましたか?」

「や……あー……」


 熊谷に、隠し事はできない。なぎは知っている。

「なぎ君、せつなの件、いろいろ考えしまうかもしれませんが、私から、これだけは言っておきますね。せつなは、なぎ君に失望したり、なぎ君といっしょにいるのが嫌になったとか、そういうネガティブな理由でメリを離れるわけではないです。彼の本懐は私も詳しくは教えてもらっていません。ですが、それだけははっきり言えます。どうか、なぎ君自身が自分に自棄になったりすることのないように、お願いします。あなたは絶対に、何ひとつ悪くない。いいですね?」

「う、うん……わかった……」

 だいたい言われることは察してはいたがあまりに熊谷が真剣なので、なぎは驚く。熊谷が言うのなら、というのは思考停止の考えではなく、なぎは経験則で熊谷を信頼していた。彼が自分に悪いようなことをしないとわかっていた。


「オーディションのメンバーに会ってくるね。ただ、曲作り、今日一日考えてたけどいまいちだったなぁ……できるかなぁ。」

「大丈夫ですよ。焦らないで。私も行きます。」

 なぎは、れいとの発言を受け少しネガティブになっていた心を立て直すことにした。それには、何か別のことに取り組む、体を動かすことが良い。オーディションのレッスン会場へ向かう。今度は、せつなの件は伏せて話をしなくてはならない。せつなに習っていたなぎが初めて作詞作曲をしたので、新人とデュオをしたい……もし気があえば、メリに加入することもあるかもしれない。そんな感じで話そうと二人は決めた。

 今朝と同じ多目的ホールに戻ると、もうレッスンは終わっていたが、自主練や、話し込んでいるメンバーがまだいて、なぎと熊谷は手っ取り早く、とりあえず手前にいる人間から話しかけた。

「あのっ……」

「げっ、メリの……あー……何すか?」

「はい! はじめまして! 俺はメリの凪屋なぎ! 実はね、せつなくんに習って初めて作曲をしたから一緒に歌ってくれるひとを探しているの。もしその後も良ければ、メリの新メンバーとしていっしょにどうかな……なんて、どうですか? 俺といっしょに歌ってくれませんか?」

「あー……すみません」

  二、三人話しかけ、上記の内容を伝えたが返事が振るわない。

  それどころか、残っていたメンバーは、なぎの顔を見て帰ってしまった。


「あ…あれ……」

「なぎ君、今朝、何かありました?」

 ふたりが呆然と立ち尽くしていると、ホールの奥の方から、唯一残った人物が近づいてきた。

「あっ」

 一ノ瀬るきだった。


「どーも……メリの凪屋センパイ」

「君、朝の……るき君だ! そうだ! ねぇ、あのね……」

「あんた、ひゅうがさんの何なんすか?」

「えっ」


 相変わらず不遜な態度で、るきはなぎの話を遮った。

「いや、だって、どう考えても特別扱いでしょ。あのひゅうがさんがだぜ? ファンサしないこととか、余計な仕事しないこととか有名で、サインもしないひと。歌……音楽だけに己の身を捧げてるストイックなひとなんだよ。そういうとこ見て、俺はあのひとに憧れてオーディションに来た。それなのに、何あれ、今朝の」

 ここで熊谷は、自分がホールに行く前にこの場であったであろうことをだいたい察した。そして、ひゅうががどことなく機嫌が悪くなかったことの理由も察したし、この後の話の内容も先読みができた。一方でなぎは頭の上にハテナをたくさん浮かべていた。

「つか、なんであんたなの? あんたってメリのお荷物の方でしょ? 白鳥センパイがいやいや面倒見てると思ってた。熊谷さん引退させてまでさ。ほんと謎。あんたは平凡だよ。凡才。たまたますごいのに囲まれて、自分も凄いように見えてるだけだよ」

「……」

「で、そのあんたが特別扱い。みんなあんたのこと避けてんのは、ひゅうがさんのご機嫌に関わるからだよ。あんた腫れ物扱いされてるわけ。ファーレンハイトのルール知ってる? メンバーはボスに絶対服従! ってヤツ。だからだよ。新曲作った? 一緒 に歌いたい? 諦めた方いいよ」

 るきが捲し立てる。その言葉の間のふしぶしに、なぎを軽んじる発言があったが、なぎも熊谷もリアクションはしない。熊谷は、なぎの良さは理解していると思っているので、他者評価への反論はない。わからないものをわからない人間に解くような時間の無駄はない。すべてが自身の評価に依存している男。

 なぎは、なんとなくバカにされているのはわかるが、別に反論するほどのこととは思ってはいなかったし、それより、自分も、なぜひゅうがが自分に優しいのかがわからないので、それの方が気になっていた。他者から見てもそうなのか、と考えていた。

「あとさ、余計なちょっかい出して欲しくねーのよ。俺たち今大事な時期なんだよ」

「たち……?」

「俺と、白樺れいとだよ。オフレコだぜ? 内定してんだ。会社は俺とれいとを、五万人のオーディションをツートップで抜けたふたりってことでファーレンハイトに加入させて、大々的に売り出す気でいるんだよ。 もう決まってんの」

「えっ! そうなの⁉︎」

 なぎが熊谷の方を見る。熊谷は手に入れて資料からこれまたなんとなく察していたし、あり得ない話ではないと思った。

「まぁあの無愛想野郎は何考えてっかイマイチわかんねーからさ。誘惑しないでくれる? 頼むよ、センパイ。センパイが才能ないからって、後輩の足ひっぱるようなマネよくないっすよ。ね?」

「え、あ……えと、俺、知らなくて……」

「それに、他の奴らも、オーディション落ちても、別の会社のオーディション受けたり、声優学校行ってる奴らとか、劇団入ってる奴らとかいて、忙しいし、将来有望なわけよ。メリで遊んでる暇ねーの。わかったら、二度と顔出さないでくれます?」

「……ご、ごめんなさい……」

「わかってくれたらいーんすよ!  俺、センパイのかわい〜後輩内定なんで、よろしくっす! 熊谷さんも、今度なんか奢ってね! それじゃ、お疲れ様でした!」

一歩的にまくし立てて、荷物を持ってるきは多目的ホールを出て行った。その場には、なぎと熊谷だけが残された。

「く、熊ちゃん、どうしよ……」

 すでに内定が確定していることは新情報だった。他オーディション最終候補生の、メリおよびなぎへの反応も。るきの言っていることはおそらく合っている。

「なぎ君、私は、なぎ君の歌が世界で一番好きなので、お荷物だとか才能ないとか言う彼の誹謗中傷は心外でした」

「えっ⁉︎ 今その話⁉︎」

「ええ。私がなぎ君の良さをわかっていればいいので、審美のできない子供を相手にしていても仕方ありませんし。なぎ君に、これからも歌ってほしいんです。私が死ぬまで、ね。

ですから、作戦変更です。新メンバーについては私が何か考えます。なぎ君はそのまま新曲を作って下さい」

「あ、……うん……」

「さ、今日はもう帰りましょう。送ります」

「うん……」

 なぎはおとなしく、熊谷の送迎で帰宅した。そして家族と夕食をとり、妹たちの面倒を見て、二十二時ごろから、作曲に取り掛かった。



——————



「だめだぁーー……」


 凪のため息と、ぐったりとした覇気のない声。それが夜中なのでひかえめに、凪の部屋をどんよりとさせた。

 作曲作業がまるで進まない。


 どんな曲にしよう。イメージは? フレーズは? コード進行や、メロディは? それだけじゃない。新生メリにふさわしいような、新しく入ってくれるメンバーを心から歓迎するような曲にしたい。けれど、どうしても、上手くいかない……。


「作曲って難しいんだなぁ……」


 今までいかに自分がせつなにおんぶに抱っこだったかを思い知る。るきにお荷物と言われても当然だ。それと同時に、熊谷やななみら、作曲をやすやすとこなす人間にあらためて敬意を持つし、たとえばぎんたのように、何か物を作り出せる人間、というカテゴリーに自分がいないことを思い知る。


 なぎは机から立って、ベッドを整えた。諦めて、寝る。明日、熊谷に相談しよう。下手な考え休むに似たり、だ。

 そして寝る前に、なんとなくだが、れいとの顔が浮かんだ。内定が決まっていること、れいとは知っているのだろうか。もし、新曲の作曲が彼のためだったら、もっと捗ったかもしれないのに。彼の歌声……こんな歌を歌ってほしい、なんてイメージが浮かぶ。……いや、彼はファーレンハイトに入るのだ。足を引っ張ってはいけない。後輩たちを応援したい……。

 なぎは、いろんなことを考えて、目を閉じて、そのうち、眠りについた。




——————






 日曜日、正午、なぎは熊谷とカフェにいた。半個室で、話を他人に聞かれることはない。会社でばかり話をしていても気分も乗らないだろう、という熊谷の気遣いだ。なぎの作曲の進捗がイマイチであることを見抜いていたのだ。

 頼んだ飲み物が届いた後に、熊谷がなぎに手帳を見せつつ、作戦会議が始まった。


「では、なぎ君、これからのメリ存続に向けて計画を考えましたので、意見があればお願いします」

「はい!」

「まず、今日の午後ラジオの収録です」

「え⁉︎ いきなり⁉︎」

「ポップコーンの枠を交渉して譲ってもらいました」

 ポップコーンとは、彼らもまた、PPCのPレーベルに所属するユニットだ。ラジオはPPCの枠があり、毎週PPC所属のタレントやアーティストがゲストで出て、番組や新曲の宣伝をする。

「ここで、新曲を作っていることと、レコーディング予定の曲があること、そしてこのふたつをシングルにすること、新人とタイアップしたいことを発表しましょう。すべて会社に許可は取ってあります」

「……!」

 さすが熊谷、仕事が早く、抜け目ない。せつなの件はまだ協議中で発表はできないものの、それ以外の情報を公式のものにしてしまう、というわけだった。

昨日の段階では思いつきのままいきあたりばったり、なぎが行動しているようで、声をかけられた側も困惑することになっただろうが、会社のお墨付きとあらば話は別だ。

「そのラジオで、新メンバーを募集するの?」

「いえ、広く公募となると手間や人件費がかかりますから、新人の募集に関してはやはり、すでにアマチュアとして実績のある者や、社内のレッスン生や、何かしらの形で商業的に経験のあるグループなどから選ぶつもりです。今は、私たちの計画を皆に知ってほしい、という段階です」

「なるほど……」

「今週末にはオーディションが終わり、会社もせつなの件に関して何かしらプレスから発表があるでしょうから、動くのはそれからです。今会社は、ファーレンハイトへの新人加入で頭がいっぱいですが、その分、私たちが自由に動きやすいと思います」

 熊谷の説明はわかりやすく、なぎはこれからの流れをすんなりと理解できた。まずは今日のラジオだ。なぎはようやく飲み物に手をつけた。あたたかいキャラメルラテに、ほっとする。それを見て熊谷も、コーヒーを飲んだ。

「新人に関しては、なぎ君は何を重視して選びたいですか?」

「うーん……このひとといっしょに歌いたい! って思うようなコがいいなぁ……」

 自分で発言してなぎはまた、れいとのことが頭に浮かんだ。すぐに、彼を脳内から退去させる。彼は、自分とは違う道を選んだ。

「それでは逆に、これだけはNGというのはありますか?」

「え、NG⁉︎ えーと……まぁ、メリを大事にしてほしいから……あまりにも音楽性とか、雰囲気とかが違うと良くない、かも?」

「わかりました。参考にしますね。それと、ラジオで生歌、いけそうですか?」

「なまう……え⁉︎」

 なぎは驚いて、思わず大きい声が出た。

「レコーディング予定の、練習していた新曲の方です。それはせつなが残した曲でもありますから、新人とタイアップすることについて余計な詮索を避けたいので、せつなとの仲が変わりないことをアピールしたいんです」

「生歌……いける、かなぁ……ちょっと練習したい……」

「本番は夜ですから、今から練習しましょう。スタジオは押さえてありますから、大丈夫ですよ。ただ、収録済み音源の使用許可は降りなかったので、私がギターやります」

「熊ちゃんが⁉︎」

 なぎはさっきから驚きっぱなしだった。しかしなぎはここで、とてつもないことに気がつく。

「えっ、熊ちゃん、ギター弾いてくれるの⁉︎  えと、公の場では、引退して以来じゃない⁉︎」

「腕は落ちてないつもりですが……」

「そうじゃなくて! 熊ちゃんと歌えるの⁉︎  嬉しい!  凄い!  夢みたいだよ!」

 凪が、思わず席から立ち上がる。

 そして、自分のいたソファ席から、熊谷の隣の椅子へ移動する。

 熊谷の方が今度は驚いた反応だった。が、すぐに、いつものポーカーフェイスで光栄です、と答えた。

「ラジオ……メリのためだけど、思わず良いことあったって感じかも! 楽しみ! ね、さっそく練習しようよ! くまちゃんのギター聞きたい! 早く行こう!」

 熊谷の席からはなぎは逆光で、なぎが光に包まれているように眩しい。

 熊谷は、せつながなぎに言う、楽しんで、の意味を十分に理解していたつもりだったが、自分がマネージャーではなくこうして擬似的にせつなの立場に立ってはじめて、その本懐に触れたような気がした。功罪めいた感情だった。どうしてこうも人間とは、承認され、求められることに喜びを感じるように設計されたのか。自分が理性的で良かったと思ったし、責任やら何やらで不自由な真っ当な肩書きや立場に感謝すらした。引退して長く経っていて良かったとも思った。そうでなければ熊谷はこの瞬間、自分と……と、その先は言ってはいけない言葉を言って、なぎに手をさしのべてしまうところだった。それは、あってはならないことだった。

 そして、せつながどうしてなぎから離れるのかも、少しだけわかった。



——————



 夜九時、ラジオの収録が始まる直前。なぎは、ご機嫌だった。せつなに別れを切り出されて以来の、とても良い気分でスタジオに着いた。それは、熊谷との練習が原因だった。熊谷の実力は言わずもがな、引退して三年も経っているとは思えないほど衰えていなかった。骨ばった指がなめらかにギターの弦を押さえると、まるで魔法が紡がれるようにメロディが耳に運ばれて、またたく間にAメロが終わってしまった。なぎが熊谷の生演奏を聞くのは数度めなのだ。これだけいっしょにて、それだけ。レアな状況なのだ。

 同じアコースティックギターでも、せつなとは違う、随分と有閑で甘美な調べで、せつなと練習していて何度も聞いた曲なのに、まるで違う曲のようだと、なぎは感じた。それを、歌っていい、と言われるのが、こんな贅沢はない。とにかく、なぎはご機嫌だった。

「なぎ君、もうすぐ本番ですよ」

「あっ、はい!」

 スタジオの収録ブースへの入場を促される。なぎはぽや〜と夢心地でいた気分を引き締めることにした。仕事をしなくてはならない。


 ラジオ出演、生歌といっても、数分コーナーをもらった程度なので、その点、なぎはリラックスしていたし、何より熊谷と歌えるのが楽しみで、いつもよりも弾んだ声色だった。それが功を奏し、いつもふたりのメリなのに、なぎひとりでのラジオ出演に対する当然の、せつなは? という質問に対しては、どんな解答もポジティブに返答ができて、せつな脱退などまるでないかのように番組が進んだ。司会者はPPC所属のタレントで勝手知ったる大御所、滞りなく番組が進み、生歌の披露となった。

「熊ちゃん!」

「はい、私もいつでも大丈夫ですよ」

 それでは、メリでの新曲です、どうぞ、とラジオお決まりの紹介があり、熊谷の演奏が始まる。スタジオの雰囲気が変わる。

 なぎは練習の際に聞いたが、熊谷が現役を引退してメリのマネージャーをやっていることを、今日のこの演奏を聴いた人は全員が「惜しい」と思ったことだろう。ギターの演奏の技術以上のものを彼が持っていると、誰もが理解できた。なぎが歌う。なぎは、正直なところ、何も考えていなかった。熊谷の演奏があまりに居心地が良いので、何もしなくていいのだ。音程だとか、ピッチだとか、そういう普段気を使うことすら、熊谷の演奏の前では不必要だった。ただ、気持ちよく歌えばいい。アコースティックギターと、歌だけなのに、熊谷の演奏、それだけで、狭いスタジオが百万ドルのオーケストラに引けを取らないステージと化していた。


 曲が終わると、司会者がハイテンションで歌を絶賛した。メリの新曲のタイアップに選ばれる新人がどれほど幸運かを説いた。ラジオに出演して、目的は十二分に果たせた。番組が終わった後に司会者が、ふたりに話しかけてきた。


「いや〜熊谷くん! 君はほんともったいないよ! 現役復活はいつ⁉︎ 会社は何も言ってこないの⁉︎」

「メリのマネージャーが私の天職ですから」

「凪屋君はさ、せつな君じゃなくて、この曲このまま熊谷くんとレコーディングしたら?」

「え……」

 余計なことを、と熊谷は思った。しかし、それが杞憂だとすぐにわかった。

「熊ちゃんはマネージャーだから……」

 言葉を交わさずとも熊谷が現役に戻るつもりがないことを理解して、そしてそれを尊重する姿勢、なぎはそれが、自然にできる人間だった。

 挨拶をして、ふたりはスタジオを後にすべく、学屋へ立ち寄った。

「ねぇねぇ、熊ちゃん。仕事じゃなくて、たまに趣味としてなら、俺と歌ってくれる?」

「もちろんですよ」

 果たすべき目的は果たした。和やかな雰囲気だった。

 熊谷の携帯が鳴るまでは。

「熊ちゃん、電話!」


 通知を見た熊谷が露骨に驚く。

「!」

「だれ?」

 雰囲気が張り詰めたのを察して、なぎが問う。

「ひゅうがです」

「!」


 なぜ、ひゅうが君が? となぎは不思議に思ったが、熊谷が電話に出たので黙った。しかし、数秒で電話を切り、熊谷は今度は、何かをスマホで調べ始めた。

「熊ちゃん?」

「なぎ君、まずいことになりました」

 熊谷が、スマホの画面をなぎに見せる。それは芸能ニュースを扱うサイトの記事だった。


「せつなの脱退が、リークされました」


 記事の見出しは、メリ、せつな脱退、解散か? と書かれていた。後に続く記事やそのコメント欄には、なぎには見せられないような憶測や勝手な推察が書き殴られていた……。




——————




 翌日、月曜日。

 昨夜あれからなぎは熊谷の送迎で帰宅した。もう遅かったし、次の日は学校だったからだ。せつなの情報がリークされた件に関しては、月曜日、今日、役員らが集められ会議が開かれるらしい。熊谷が何かあれば連絡をする、と言ってくれた。しかし、すっかり朝の芸能ニュースにもトップで特集され、両親、妹たちにどうなっているのかと聞かれた。なぎは心配しないで、と言うしかなかった。ひたすらになぎを心配する両親を宥めて、なぎはいつも通りに登校した。


「メリ解散するの⁉︎」


 同級生の話題はミーハーなもので、早速なぎばリークされた情報の真偽を聞かれた。普段は話しかけてこないような級友にも囲まれて、なぎはしないと思う、とか、なんかそれガセネタらしいよ、とか、曖昧な返事をするばかりだった。早く放課後になって欲しかった。いつもいっしょに昼の弁当を食べる友達に頼んで、昼はあまり人のいない場所で食事をした。理解ある友人は、一切リークの件に触れないでくれていた。と、いうか、なぎの仲良しのふたりはなぎの芸能活動に興味がないのだ。熊谷から連絡があり、両親に現状を電話で報告したことを知った。そして、放課後会社で話し合うことになった。また、リークの件で、マスコミが学校の校門にいて、先生が対応に当たっていると担任に知らされ、なぎは申し訳ない気持ちになった。担任は一言、大変だな、と労ってくれた。熊谷と示し合わせて、裏門からこっそり出て車に乗って、なぎはPPCへ向かった。


「なぎ君、学校どうでしたか?」

「あー……いろいろ聞かれたらけどごまかした!」

「大変だったでしょう」

「熊ちゃんこそ……会社のひとたちは、なんて?」

 車が会社に向かい走る。散々な一日だったがまだまだこれからだ。学校にいる時よりも、これから会社でどんな話をされるのか、なぎは不安でいっぱいだった。

「ちょうどその件について話そうと思ってました。会社に着いたら、少し、上のひとたちとお話があります。もちろん私も同席しますので心配しないで下さいね。なぎ君にはいくつか知っておいて欲しい情報があります。まず……リークは、内部関係者の仕業かもしれません」

「え……」

 ゴォ、と車がアスファルトの上を走り抜ける。

「数社にリーク情報が流されましたが、せつなの脱退、というよりは、なぎ君が新しいメンバーを探しているのを聞いた、という情報だったようです。私となぎ君とせつなで話した時は三人だけで話しましたし、完全にクローズな空間でしたから。その後、なぎ君が新メンバーを勧誘していることを目撃され、それをリークされた、という形なんです。ですがそれもすべて社内でのみの言動のはずで、外部の者が知るわけのない情報なんです」

「お、俺……早まった、かな……」

「いえ、私と相談して決めたことですし、なぎ君は悪くありません。問題は時間帯の方かと」

「時間帯?」

「おととい……土曜日の昼前にリーク情報が売られたそうなんです。私たちが新メンバーの勧誘に多目的ホールに行って数名に話しかけたのは夕方です。つまり、朝早くのうちに、なぎが声をかけたのはひとり……」

「!」


 れいとの顔が頭に浮かぶ。

「熊ちゃん、れいと君を疑ってるの⁉︎」

「他に心当たりは? ……彼はなぎ君に、金のためにオーディションを受けたと言っていたそうですね。週刊誌に情報を売り金銭を受け取ったとしてもおかしくはない……」

「れ、れいと君はそんなことしないよ!」

 なぎは即座に否定した。れいとのことを深く知るわけではないが、そんなことはしない。そう思った。心からだ。

「私も半信半疑です。彼にとってはこのままオーディションを突破してファーレンハイトへ加入した方が将来的には得ですからね」

「そういうんじゃなくて! れいと君は悪いコじゃないよ! わかるの! 彼じゃない!」

「会社も疑っています」

「!」


 それがどういう意味か、なぎでさえ即座に理解ができた。

 なぎは責任を感じた。自分の軽率な発言のせいで、れいとの将来を潰してしまったのではないか……と。

 あの時、無意識に、れいとをメリに誘ったのだ。それが、その発言がこんなことになるなんて。

 青ざめた顔でなぎは下を向いて、ひたすらにどうしたらいいかを考えていた。どうしたられいとの疑いが晴れるのか。自分はどうしたらいいのか。……こんな時、せつなならどうするのか。

 結局会社に着いても、なぎに良い考えが降りてくることはなかった。





——————





「メリの新メンバーの勧誘は中止です」


 PPCについて、なぎは、これまで入ったことのない会議室へ通された。本社ビルの最上階だ。とてつもない広さで、とてつもない大きさの机があって、会ったことのない偉い肩書きをもつであろう背広の大人がたくさんいて、一斉になぎを見ている。

 既に午前中から会議は始まっていて、事の経緯は熊谷が会社に説明をした。なぎは当然悪くない、という結論に至った。むしろ社内ではメリの今後や今のオーディションうんぬんよりも、犯人さがしに躍起らしい。誰が情報をリークしたのか? これはコンプライアンスに関わる重大インシデントだ。


「しばらくは、です。まだ広報部ではせつなの脱退について発表の予定すら立てていませんでした。事が落ち着くまで、待てますね?」


 そう発したのが、代表取締役の波々伯部悦子だった。なぎはこの決定を伝えるために呼ばれた。それだけだった。まだ未成年で、こういった事柄に関してはアーティストの出る幕はない。社内の偉い人間が対処する。なんにせよせつなの脱退のリークは、メリの今後のみならず、今やっているオーディションにも関わることだった。メディアはあることないことを書き立てる。

 しかしなぎは、一歩前に出て、ひとついいですか、と言った。

 自分のことはどうでも良かった。今は、れいとが心配だった。


「あの、れいと君、オーディションの最終メンバーの……疑わないで下さい! れいと君じゃないです。彼はこんなことしない! どうか、信じて下さい!」


「!」


「なぎ君……」

 隣にいた熊谷がなぎを静止する。なぎに関しては、熊谷に依らず、過去のあることから、ここにいる全員がわかっていることがあって、それはおそらくPPCの中で、一番の怖いもの知らずであること。何を言い出すか、しでかすかわからない。なぎの良いところであり、悪いところでもあった。


「……オーディションの最終メンバーは、明日からは全員自宅に居てもらいます。オーディションに関して、日程の変更が行われることが決定していますが、オーディションの今後についてや選考に関することはあなたにもお話できません」

「……!」

 そういうことじゃない、となぎは思ったし言いたかったが、熊谷に胸のあたりを抑えられ、暗に静止させられたので、黙った。と、同時にこのひとたちに言っても確かに意味がない、とも考えた。

「すみません。なぎ君は、リークされた側です。被害者です。今日も学校では大変だったようで、少し気が動転しています。私の方でよく気をつけておきますので」

「メリの今後については、追ってまた連絡します。マスコミに気をつけて下さい。また、内通者がいるかもしれませんから、不用意な発言は控えるように。行っていいですよ。お疲れ様でした」

 熊谷に促されなぎは頭を下げて退出した。廊下にでるなりなぎは、熊谷の方を不安そうに覗き込んだ。


「熊ちゃん……」

「なぎ君、今はもう動くことはできません。しばらくは会社に来ない方がいいかもしれません。マスコミがうろついてますから。学校は送迎してもらって下さい」

「うん、あの、俺……」

 なぎは聞きたいことがたくさんあったが、もう問題がそんな段階ではないこともわかっていた。もう、本当に何もできなくなってしまったのだ。

 メリの新メンバーの勧誘、新曲を作る事、これからの計画……会社でストップがかけられたら、すべてがそれまでだ。

 意気消沈した足取りで、ふたりがエレベーターに乗り、下の階へ下がろうとした時だった。


「おい!」


 誰かが駆け足でエレベーターに乗り込んできた。

 一ノ瀬るきだった。


「てめぇ!」

「!」

 物凄い剣幕でなぎに食ってかかる……ところを熊谷が間に入り、なぎは思わず熊谷の後ろに隠れた。

 エレベーターが閉まり、動き出す。


「一ノ瀬君でしたね。なぎ君にお話が?」

「どけよ! 余計なことしやがって! 全部こいつのせいだろ⁉︎ オーディション、今週末に結果発表なのに、今日来たら教官はいなくてレッスンになんねぇし明日からは自宅にいろとか言われてんだぞ! その後はレッスンも未定だとよ! 足引っ張んなって俺言ったよな⁉︎」

「……!」

「一ノ瀬君、なぎ君は被害者です。事の本質を見誤り他者に感情をぶつけるのは子供のすることですよ」

「うるせぇな! 才能ある人間には……運のいい人間にはわかんねぇよ! こっちは百営業かけたら一取れるか取れねぇかだ! やっと掴んだチャンスなんだよ! 人生かけて来てんだよ! 邪魔すんじゃねぇ!」

「み、みんな帰らされたの……?」


 熊谷の後ろからなぎが少し身をななめにしてるきの方を覗き込んだ。るきはだいたい帰った、と言う。

 それを聞いて、なぎが熊谷の後ろから飛び出す。

「れいと君も⁉︎」

「は⁉︎」

 なぎが急に詰め寄ってきたので、るきは驚いて思わずドアにぶつかるまで後退りした。

「れいと君の家どこ⁉︎」

「え⁉︎ いやっ、知らね、あいつしゃべんねーし……どこだっけな、橋の近くだっては……」

 エレベーターが一階に着く。

「俺、れいと君と話すよ! 熊ちゃん、行ってくるね!」

 どいて、と強引にるきをどかして、エレベーターのドアが間瞬間になぎは駆け出した。るきは呆気に取られて、動けずに、何アイツ……とだけつぶやいた。

 熊谷はくすりと笑って、なぎを見送った。




——————



 夕日が眩しい。

 ビルや家家の間から、玉のように光が溢れたかと思えば、するどい熱線がなぎを照らしつける。長く伸びる影を連れて駆け抜ける。

 赤と紫と黄色とピンクとオレンジと……様々な絵の具を混ぜたかのように闇夜に移ろいゆく黄昏の中を、なぎは走った。

 れいとに会う。話がしたい。

 リークをしたいのがれいとか聞きたい。そうでないと信じていて、それを伝えたい。巻き込んだことを謝りたい。

 るきがまだ会社にいたということは、解散して間もないはず。追いつけるはず……。なぎは雑踏かられいとを探した。探しながら走った。

 大きな橋の手前まで来た。河川敷が見える。日が落ちて肌寒くなってきた。人はまばらで学生らしき人が数名歩いている。

いた!

「れいと君!」

「!」


 なぎが駆け寄ると、れいとは止まってなぎを待ってくれた。

「あんた……? どうした?」

「!」

 なぎの方が今度は驚いた。るきのように怒鳴りつけてくるか、出会い頭に殴られることぐらいは考えていた。

「れ、れいと君……あのっ……」

「おい、あんた、どっから走ってきたんだ? 大丈夫か?」

「う……うん……えと……」

 息が整わない。れいとはなぎを気遣って、手を引いて、河川敷へ降りる階段へ案内した。座らせて、荷物からペッドボトルを取り出す。ほら、とミネラルウォーターをくれた。なぎはありがとう、と言ってそれを受け取って飲んだ。そして一息ついてから、なぎの方から話しかけた。もう日が沈む。街灯がぽつりぽつりと存在感を表せば、街は夜へ進む手前だった。


「あの、ニュースとか、見た?」

「ああ……白鳥せつなが脱退して、メリが解散するかもって。納得したけど。それであんた俺に話しかけてきたのか」

「怒ってないの……?」

「何がだ」

 なぎは、れいとが詳細までは知らないのかも、とここで気づいたら。ならば、話すべきは自分だとも思った。なので、包み隠すことなく、自分の持っている情報を話した。

 まずは、せつなから急に脱退の話をされたこと。それを受けて、ひとりではなく、誰かと組みたいと思って、れいとに話しかけたこと。情報がリークされたこと。そして、れいとが疑われていることも話した。


「ごめんなさい! 俺のせいで……!」

 そしてなぎは、れいとに深々と頭を下げた。

「変なことに巻き込んでごめんなさい! 俺はれいと君がやったなんて思ってない。会社で、偉いひとたちの前でそう言った。わかってもらえるまで言うよ! 会議に乗り込んだっていい。れいと君は悪くないから、れいと君は……!」

「……なるほど。別に怒ってない。」

「え……」

 必死ななぎと違い、れいとは冷静だった。

「あんたも謝ることはない。あんたは悪くないだろ。むしろ話聞いてると被害者だ。それから、俺が疑われてるのは、まぁ普段の態度とかも悪いし、あんたのせいじゃない。巻き込まれたとも思ってない」

「れいと君……」

「それにもし、オーディションが中止になって今までのことが無かったことになっても、それもあんたのせいじゃない。実力だ。俺に運が無かったんだ。他人のせいにはしない。」


 もうすっかり暗くなった河川敷は最初に会った多目的ホールとは真逆だった。

川のせせらぎだけが聞こえる。あの時はまるで真逆の沈黙がふたりを包む。れいとがそこまで言ってしまうとなぎにはもう言える事がない。なぎはただただれいとの言葉に感心していた。彼は聡い。


「ただ、俺が疑われてるってのは、心外だな…」

「それは、俺が会社を説得するから……」

「そうじゃなくて。犯人、見つけようと思う」 

「え⁉︎」


 急展開。れいとが、思わぬ発言をした。

「どうやって⁉︎」

「よく考えてみてくれ。状況的に犯人は俺たちの土曜日の朝の会話を聞いてそれをリークしたんだ。けれどあの時、多目的ホールは皆が来る前で、俺とあんたしかいなかった」

「そうだね……?」

「てことは、あの部屋に、カメラとか盗聴器とかがあるんだよ。カメラは、オーディション中の撮影のためにもともと何台もあるし、一台くらい犯人のものが混ざっていても誰も気にしない」

「な、なるほど、そうかも。けど、どうやってそれを確かめるの……?」

「考えがある。協力してくれるか?」

「! もちろん! 俺でよければ!」


 なぎが即答する。ふたりはPPCへ戻ることにした。道中、れいとから作戦が明かされた。多目的ホールへ戻り、ふたりで何か会話をする。それが翌日またニュースになれば、カメラか盗聴器か何かしらが仕掛けられていることが間違いないので、あとは多目的ホールに出入りする怪しい人物を特定するだけ、とのことだった。

 PPCへ着くと、足早にふたりは多目的ホールへ向かった。電気をつける。誰もいない。ふたりきりだ。


「何か会話するって、何にする?」

 なぎがれいとの耳元でできるかぎりの小声で喋る。れいとも小声で返す。

「犯人がリークしたくなるような、極秘情報。もちろんウソでいい。センセーショナルな方がいいだろうから……俺が言ったことにいちいち反論してほしい」

 なぎが答えると、れいとはなぎの手をひいて、初めて会った時と同じように、鏡の前に来た。


「あんたが好きだ」

「は⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」

「あんたのファンで、オーディションに来た。メリに入れて欲しい。ちょうどいいだろ?」

 最初のは、はなぎのリアルな反応だった。二言目でようやく、作戦だということを思い出した。

「いっ、イヤ! ダメ! 入れない!」

「なんで? いいだろ」

「ダメ! せつな君辞めないもん! せつな君とふたりでメリだから」

「……俺の方が、白鳥せつなより歌が上手い」

「いや、ど……あっ、うーん……んー……ダメ!」

「会社にはもう話してある」

「え⁉︎ 聞いてない! や……でも……」

「とにかく、俺は諦めないから。メリに入る。あんたもそのつもりで」

「……」


 会話が終わるか終わらないかのあたりで、れいとはなぎの手をひいて、しーっ、と口元に手を当てて、廊下へ出た。電気を消す。作戦は終わりだ。

「これでいいの……?」

「多分。明日以降わかるだろ」

「……」

「なんだよ」

「れいと君がほんとにメリに来てくれたらいいのにって思っちゃった……」

「……悪いけど、このままオーディションが続くなら、俺は最初の希望通り、ファーレンハイトに入る。さっきのことは本当だけど、ごめんな」

「え?」

「あんた自身は好きだよ。面白いし。あと、あんたのリアクション最高だった。本当って感じだったよ」

「え、演技だけど⁉︎」

 なぎはからかわれてるとわかって、ごまかした。

「家どこ。送る」

「え、いいよ。遠まわりになるから……」

「マスコミとかいるかもだろ。送る。つか、嫌なら後ろ着いてく。帰るぞ」

「え……」

 れいとの提案を受け入れて、なぎは送ってもらうことにした。ふたりはPPCを出て、なぎの自宅へ歩き出した。


 道中、なぎはれいとへの認識を改めることになった。るきは、れいとを、無愛想だとか喋らないとか言っていたが、そんなことはなかった。

 民家から洩れる温かい色の光や、街灯の下に差し掛かるたびに、なぎはれいとをよく観察した。落ち着いているように見える。たまに笑う。

「ラジオの生歌、良かったと思う。あのバージョンもCDに入れたら? マネージャーのひと嫌がるか?」

「学校大変だったろ。俺はオーディションのことは隠してる。いろいろうざいから。テレビに映ってても以外と気付かれないもんだよ」

「妹ふたりなんだ。うちは弟ふたり。すげぇ問題児。うるせぇの。片方反抗期だし。背? あー……俺よりは低いけど、あんたよりはあるよ。てか、あんた身長低いよな。家族もそんなものか?」

 れいとはなぎにたくさん話をしてくれたし、なぎも同じくらいたくさん話をした。なぎの家が見えて、なぎが自分の家を紹介した。マスコミもいないようだった。

「それじゃ」

「送ってくれてありがとう……。じゃあ……」


 もはや交わす言葉もない。れいとがファーレンハイトに入りたいという決意がある以上、これ以上は社内で会った時に挨拶をすればいい方だ。ふたりに接点はない。

「早くドア閉めろって。防犯意識低い」

「え、あ! はい! それじゃ。……また、またね! れいと君!」

「ん」


 またね、はなぎのせめてもの抵抗だった。れいとといるのは楽しかった。れいとの歌声が蘇る。れいとが、ファーレンハイトではなく、メリに入ってくれればいいのに。先ほどの、多目的ホールでの演技が本当ならいいのに……。

 れいとと歌えたらいいのに。れいとのために、曲を作れたらいいのに。


 いや。違う。



……作ろう。





 なぎは、一目散へ部屋へ駆け上がった。

「お母さん、ただいま! ごめん今からやることあるから少しだけひとりにして、ごめん!」

 階段からリビングへ叫ぶ。書こう。今ならできる。れいとと歌いたい。いや、れいとに歌って欲しい。今なら作れる。

 なぎにしてはめずらしく、荒々しくドアを開けて、部屋へ駆け込み、机へ向かう。

 曲のイメージや、フレーズ、コーラス……今までまったく見えなかったものが、見える。目の前に歌うれいとが見える。すると、コードはこうしようとか、ここで転調しよう、とか、それまで捗らなかった作曲作業が、弾むように進んでいく。


 ひとりではなく、ふたりが良かった。

 誰がじゃなく、れいとが良かった。

 それが、事実だった。


 れいとが、メリに入ってくれなくてもいい。れいとのために曲を作りたい。彼に聞いて欲しい。彼のために歌いたい。

 今まで、なぎは、せつなの保護下にあるといっても過言ではなかった。今は違った。東奔西走、試行錯誤し、自分の立ち位置を、自分の音楽性を、自分自身を探す旅に出る。

数時間後、なぎの曲が完成した。

 なぎは階下に降りて、家族に、話したい事がある、と言った。父親、母親、妹たちに、れいとに話したことと、ほぼ同じ内容を話した。両親は熊谷から説明を受けたいたので、なぎの話と合わせて、なぎに、これからも自分のやりたいようにやるといいと言ってくれた。家族全員がなぎを応援してくれた。

 なぎは、今は動くなと言われているが、それを素直に聞き入れるような人間ではなかった。れいとに作った歌を聞いてもらいたい。完全にエゴだが、そう思った。もう一度、れいとに会いに行きたい。メリを諦めたくない。犯人を捕まえて、れいとを助けたい。

 その夜は底冷えするような風は尽きて、春を讃える穏やかな色の空に、無数の星が指標を示していた……。




——————




 火曜日。さっそく朝、ネットニュースが更新されていて、なぎとれいとがふたりきりで話したはずのことがリークされていた。そう、例の会話だ。ふたりで考えた、嘘の会話。

なぎはそれを見て、れいとの作戦が成功したことを確信した。それを熊谷に伝えようと思った。学校に行くのは憂鬱だったが、同級生とあまり会話をしないようにして過ごした。放課後、また、熊谷の送迎で、PPCへ向かった。


「作戦……ですか?」

「勝手にやってごめん……。けど、れいと君が考えてくれたことなんだ。俺も乗ったの」

 車内でなぎは熊谷に、昨日のれいととの一連の流れを説明した。社内では、前回の報道はリークだと早々にわかって対策会議がとられたが、今回のは、なぎとれいとがふたりでした、会社側にも真偽不明の会話のため、まだリークだとは伝えられていない。今日も会議があるとのことで、なぎはそれを会議で伝えてもらえないか、と熊谷に話した。しかし、熊谷の返事は芳しくない。

「なるほど……それは、れいと君の方から提案があった作戦、ですよね?」

「そうだけど……」


「なぎ君、私は、なぎ君を一番に考えています」

 後部座席のなぎからは、熊谷の顔が見えない。

 会社の社用車の白いバンは、曇った空色を映していた。

 熊谷は実のことを言うと、れいとを疑ってはいなかった。その上、オーディションがどうなろうともかまわない。ただ、なぎの今後だけが気がかりなのだ。そこを、れいとが障害になったり、れいとの存在のせいでなぎの経歴にキズがつくようなことはあってはならない。

若者は白黒つけたがるし、裏表はっきりした事柄を求めるが、世の中はグレーで、多面的で、基本的には現状維持が原則だ。れいととなぎの行動を採用して、従うような大人は大人として失格だった。


「なぎ君が今後も、音楽活動を長く安定して続けていける、それが私の第一の目標です。攻めた姿勢を取るより、今は会社に従い、おとなしくしているべき……と考えているんです」

「熊ちゃん……」

「あなたたちのの会話が事実で、それがまたリークされたことは会社には伝えます。ですが、それで、犯人が捕まるとか、白樺くんへの疑いがすぐに晴れるとか、即座に何かが変わることはないと思っていて欲しいんです」

「……」

「なぎ、すみません。理解して下さいね。当面、会社の言うとおりに。新メンバーを探すこは一旦停止です」

「熊ちゃん……あのね、俺、曲作ったんだ」

「え……」

「熊ちゃんにも、聞いて欲しい。それを聞いて、それでも、動くな、って言うなら、従う。もし、俺に、俺の曲に熊ちゃんを動かす力があるとしたら、俺は……自分を信じて、行動してみたいと思う。まだ誰にも聞いてもらってないんだ。一番に、熊ちゃんに、聞いて欲しいから」


 熊谷からは、ミラー越しに、なぎの真剣な顔が見える。熊谷は、今にも運転をやめて、なぎの顔を直接見たかった。なぎが、今まで見たことのない顔をしていたからだ。今すぐに、なぎの方を振り返りたかった。


 PPCに到着して、なぎは熊谷を一番近いミーティングルームに連れ込んだ。熊谷は黙って、なぎの言う通りにしていた。

 書き殴った楽譜を、なぎが熊谷に手渡す。なぎはまだ、弾き語りができるほどではないので、なぎは熊谷の前に立って歌うことにした。


 楽器は、何もない。

 熊谷は楽譜を見れば、どんな楽器がふさわしいかはわかる。彼には楽器などいらないと、なぎは知っていた。そして、なぎが歌い始めた。


 それは、なぎが、れいとのために作った歌だ。出会いの朝、再会の夕暮れ……ふたりのこれまでを思わせる歌だった。少し、なぎには歌いづらいような節があると、そこは、れいとのパートなのだと、熊谷は理解した。

 荒削りで、完成度が高いとは言えない。せつなからの影響をかなり感じるし、またまだ編曲で手を加える必要がある。しかし、しかし確かにそこに、なぎの歌いたいことが込められていた。何を耐えたいのか。何の歌なのか。それがしっかりと伝わる。そこに、なぎの音楽性を感じる、そんな歌だった。





 歌が終わる。熊谷が問う。

「なぎ君は、白樺くんと歌いたいんですね」

「……! ……うん」


 無機質で機能性のみを優先したかのような冷ややかな会議室に、熊谷のひかえめな拍手がひびいた。

 夕暮れの日差しが差し込むと、そこだけは温かく、祝福を受けたかのようなぬくもりを感じた。

「とても良い曲ですね。なぎ君らしい、素晴らしい歌です。それを、一番に聞かせてもらえるなんて、マネージャーとして、メリのファンとして、これ以上のことはありません」

「熊ちゃん……ありがとう……」

「私は、もう何もいいません。なぎ君の思う通りにやりましょう。手伝います。なぎ君に、私がついて行きます」

「……! あ、ありがとう……!」

「せつなも、きっとなぎ君が初めて作曲をしたと知ったら喜んだでしょうね」

「! それは……」

「なぎ君、これからどうしますか? なぎ君の考えを、改めて聞かせて下さい」



 なぎは熊谷に自分の考えを全て話した。

 メリを存続させたいこと、新メンバーが誰でもいいとは思ってはいないこと、れいとがいいと思っていること、しかし、れいとがファーレンハイトに入りたいという意思を無下にするつもりはないこと、れいとと歌いたくて曲を作ったこと、情報をリークさせた犯人を捕まえて、れいとの無罪を証明したいこと、れいとやるき、後輩のために、オーディションをこのまま続けて欲しいということ……。


 熊谷が、それに自分の考えを加えた。

 なぎはまず、作曲した曲をれいとに聞いてもらうこと。熊谷は会社に、昨夜なぎとれいととで行った作戦と、その結果について報告をして、今後どうするかを考える。


 れいとは今家にいるので、なぎが会いに行くことになった。熊谷は送迎をすると申し出たが、なぎは歩いていくと言った。熊谷に住所を教えてもらった。なぎが学校が終わってすぐPPCに来たので、れいとの学校はしらない知らないが、だいたい終わった頃合いだろう。なぎは熊谷と別れて、ひとりPPCを後にした。


 れいとの家へ向かう途中、なぎは先ほど歌った時からさらに、改良点を考えていた。あそこはああしよう、もっとこうしよう……。それはとても楽しかった。音楽は、楽しい。れいとは、音楽に対してそういう感情はないとは言っていたが、れいとにも、わかって欲しかった。そうしたらきっと良いと思った。それは、傲慢な自分の考えの押し付けでしかなかったが、なぎはそれが絶対に良いと考えた……。

 そして、れいとの家についた。古めかしい団地だ。あまり日当たりの良くない三階。

誰がいるだろうか。いなければ……とそこは考えずに、なぎは白樺、と表札のあるドアを二回叩いた。その時だった。

 スマートフォンが鳴る。

 通知を見て、なぎは心臓が止まりそうになった。








 せつなだった。



——————




 ドクン、ドクン、と血潮が脳天から爪の先まで響く。

「はい……」

 なぎは、顔面蒼白、震える手で電話に出た。まるで目眩を起こした時のように指先が冷たい。


『なぎ?僕だよ』

 まぎれもない、せつなの声だった。

 数日話していないだけなのに、まるで何年も会っていないかのように感じた。久しぶりに声を聞いたように感じた。

「せつな、君」

 情けないことに、口周りが震えて、うまく喋れない。口の周りの筋肉が震えている。

『急に電話してごめんね。なぎ、元気?』

「う、うん」

 対してせつなはいつも通りの声色でなぎに話しかける。

『今、空港なんだ。もうすぐ出発で……』

「えっ……」

 何の話だが、なぎには検討もつかなかった。どこへ行くというのか。

『カリフォルニア……サクラメントに戻るんだ。僕の出身地なのは知ってるよね』

 なぎは、自分の呼吸音が、ひどく大きく聞こえる気がしていた。

『それで最後になぎの声を聞きたくなったんだ。良かったよ。話せて。それじゃあ、もう出発だから。がんばってね。いや、がんばりすぎないでね、なぎ』

 最後。せつなは確かにそう言った。まさか、日本にはもう戻らない気なのか。なぎが何も言えないまま、電話が切られてしまった。どうしよう。また、何も伝えられなかった。伝えたいことが、聞きたいことが、たくさんあるのに。なのに、こんな一方的に別れを切り出されるなんて。さらに、最後、だなんて。本当に自分は捨てられたのではないだろうか。なぎは目の前が真っ白で、ここに何をしにきたかすら、わからなくなってしまった。ただただ立ち尽くすことしかできなかった。

 そうしていたら、また、電話が鳴った。熊谷だった。


『なぎ君! 今どこにいますか⁉︎』

 慣れ親しんだ声に少しほっとして、なぎは自分を取り戻す。しかし、いつも冷静で落ち着いた熊谷にしては、心なしか慌てた様子だ。何かがあった。

「い、今、えと……」

『すぐにPPCに戻ってきて欲しいんです!』

「?」

『なぎ君が白樺くんと作戦を立てて、情報をリークした犯人が内部に実在することを証明したでしょう。あれを受けて、先ほど会議で、オーディションの日程が変更になりました。今日これから、オーディションの最終選考メンバーに収集をかけます。彼らに合否を伝えて、すぐに別の場所で記者会見を開きます』

「う、うん……」

『そして、白樺れいと、一ノ瀬るきを、オーディションをツートップ勝ち抜いたふたりとして、ファーレンハイトの新メンバーとして加入させることを、マスコミに発表します』

「えっ……」

『多分今頃、白樺君たちは連絡を受けているかと思います。代表取締役が本社に戻ってきたら、すぐに会見です。なぎ君、最後のチャンスです。ファーレンハイトに加入することが発表されてしまったら、もう後には戻れません。今すぐに、白樺君に、なぎの考えを伝える必要があります。なぎ君は今、どこにいますか?』

他にも熊谷からは、この発表で、後からのリークが嘘であることをアピールする目的があるとも伝えられた。後からのリークでは、れいとがメリの新メンバーそうすれば、社内の問題そのものが、無かったことにできる。内通者などいない、と。

「俺は、その、れいと君の家で……」

『れいと君は在宅していますか?』

「えと……」

 そうだ、自分は、れいとに会いに来たのだった。なぎは思い出す。しかし。


 なぎ。



 白樺家のドアを叩こうとした瞬間、なぎの頭に、れいとではなく、せつなの顔が浮かんだ。

 そうだ。せつなから、電話があった。熊谷に伝えなくては。せつなは外国に行くと言っていた。それも、熊谷は知っているのか? それを……。


「……」


 今、空港に行けば、間に合うのでは? せつなに会えるのでは?


『なぎ君?』

「あ、く、くまちゃ、俺、せつな君が……」

『せつな⁉︎ なぎ……君、何があったんですか⁉︎』

「せつな君から電話で、空港にって……俺、今から行けばって……どうしよう…。。。俺……」

『なぎ君、空港に行ってからでは、間に合いません。今すぐに白樺君と話をして、PPCに来て欲しいんです……!』

「でも……」

『なぎ君!』

 熊谷の声は切羽詰まっていた。きっと急に、オーディションの予定の変更を知ったのだ。最後のチャンス、その通りなのだろう。でも、どうしたらいいかわからない。せつなに会いたい。聞きたいことがある。伝えたいことがある、会いたい。けれど、れいとと話したい。れいとのために作った曲を聞いて欲しい。二者択一だ。ふたつは選べない。


 目の前のドアを叩くか、叩かずに空港へ向かうか。


「……」








「なぎ!」


 突如、どこからか、名前を呼ばれた。

 バイクの音がする。団地から見えるはすむかいの商業ビルの手前に、一台のバイク。ライダーがヘルメットを外す。




「ひゅうが君‼︎」


 ひゅうがだった。


「来い‼︎」

「……!」


 二者択一……いや。

 自分次第だ。

 なぎは目の前のドアを大きく二度叩いた。

「れいと君、君と歌いたい! 君のために曲を作ったから、聞いてほしい! けど、今は行くところがあるから! 絶対に間に合うようにするから、待ってて‼︎」

 なぎはそう叫んで、走り出す。階段を駆け降りる。駐車場を駆け抜けて車の間を縫って道路を渡り切ってひゅうがの元へ辿り着く。


「ひゅうが君、どうしてここに……」

「いいから乗れ。今なら飛ばせば間に合う。熊谷には言ってある! 行くぞ!」

「……‼︎」

 ひゅうがは事情をすべて察しているようだった。熊谷の話によると代表取締役は外出中で、戻り次第事が動くと言っていた。ひゅうがの言う通りかもしれない。なぎはヘルメットを受け取り、ひゅうがの後ろに乗る。しかしバイクは初めてで、不恰好にひゅうがにしがみつくしかなかった。

 バイクらしい音をたてて、夕暮れの混み合った道路を走り去って行く。






 少し後に、団地のドアが開いた。

 れいとだった。

「……今のは……」





——————



 夕暮れは昨日とは打って変わって、どんよりと蓋をしたように雲が空を覆って、今にも雨が降り出しそうだった。湿った灰色の中をバイクが疾走する。もう暗くなる。空港に来ると降ろされて、せつなを探すように言われた。しかしなぎは、せつながカリフォルニアに行く、という情報は持っていても、ひとりで飛行機に乗ったことがなく、どこをどう探せばいいのかわからない。とりあえず、なぎは空港に入った。電光掲示板は、昨今のスマホ普及に伴いすっかり少なくなっていて、なぎは必死に、カリフォルニアだとか、サクラメントだとか、そのあたりの単語を探した。日本語と、英語もそのくらいならかろうじて読めて、あとはわからない。とにかく人が多くて、せつなを探そうにも見当たらない。大きな窓の向こうでは、飛行機が飛び立つ。暗闇の近寄る空にたくさんの光が、切ない気持ちにさせた。一瞬足を止めて、それから外を見るともう暗い。もう、せつなは行ってしまったのだろうか。もう、後生、会えないというのか。なぎはじわりと涙がたまるのがわかった。悲しくて、情けない気分だった。ここまで来たのに。

「なぎ!」

 後ろから声がして、腕をぐっと掴まれる。ひゅうがだった。

「こっちだ」

 そのままひゅうがに腕を引かれて、ついていく。なぎは正直もう、満身創痍だった。ついていくと言うより、ほぼ引っ張られている。ここ数日、何がなんだかわからないけれど、がむしゃらにやってきた。それが良いか、悪いか、これからどう作用するのか。なぎは考えなくてはならないことがたくさんあった。もっとやらなくてはいけないことや、向き合うべきことがたくさんあっただろう。きっと、人生を長く生きているひとほど、なぎの選択に違う、とNOをつきつけただろう。でも、せつなに会いたかった。せつなに聞きたいことがあった。一緒に歌いたいひとがいた。やりたいことがあった。好きなことがあった。それだけで、ここまで来た。

 あまり人の少ない通路に出た。それから屋外へ出た。別の建物が見える。そこへ向かう人がいる。男性がひとりスーツケースを引いている。その後ろ姿には、見覚えがあった。


「せつな君!」


 なぎは思わず、せつなの名前を呼んだ。ひゅうがが、なぎの背中を押して、なぎはそのまま駆け出した。途中、その男性が振り向いた。


「……なぎ?」


 せつなだった。






——————


「……」


 いつもならまだ薄暗い程度の時間なのに、ずっと暗闇が近い。

 湿ったにおいだ。雨が近い。


 白鳥せつなを実のところ、なぎは、よくわかっていなかったのかもしれない。いつだって彼は、凛としていて、穏やかで、余裕があって、感情の起伏も少なくて、それでいて才能あふれる音楽家で、自分とは正反対だった。だがその本懐は? いきなり突き放すかのようになぎを置いて、メリを辞めた理由は?


「せつな……くん…」

「なぎ、驚いた。どうやって来たの? ……あぁ、ひゅうがか。なぎは味方がたくさんいるね」

「せつな君……」


 せつなに言いたいことが、伝えたいことがある。ずっと考えていた。たくさん、聞きたいことがある。


「俺、曲……」


 そう言いかけてなぎはここで、自身の発言に、自分で驚いた。せつなに駆け寄る足が止まる。

 風が一筋、ふたりの間を分つように通り過ぎた。


「……」

 作曲をしたこと、をせつなに明かそうとしたのだ。


 そんな必要はない。なのに、どうしてだろう。ここに来るまで考えた、せつなに伝えたいことはもっと別だった。なのに。なぜせつなに、曲を完成させたことを伝えようとしたのか。


 ……まだ、期待していたのだ。


 なぎは気づいた。己の心のうちに。


 がんばれば、せつなが自分を見直してくれて、メリに戻ってきてくれるのではないかと。はじめて曲を作ったことを褒めてくれるのではないかと。頑張ったと言ってくれるのではないかと。実は試していただけだと笑って、また、ふたりで歌えるのではないかと。


 変わりたくない。


 なぎは、そう思っている自分に気づいた。しかしそれは、人間として当たり前の考え方だった。それが、せつなを引き止めようとする。せつなが喜びそうな選択肢を取らせようとする。





 違う、と思った。


 雨が降り出した。ぽつり、ぽつりと。少しづつ、アスファルトが濡れてゆく。


「せつな君」


 だが、雨音はまだまだ弱かった。

 なぎの声の方が、せつなにもひゅうがにも、強く届いた。


「たまに、連絡していい?」

「え……」

「せつな君がメリじゃなくても……友達だから。」



 なぎには権利があった。せつなに気持ちをぶつける理由と、それだけの権利を持っていた。

 しかし、それではいつまでも、前へ進めない。新しいメリを作る。自分で。れいとと。熊谷やひゅうがが、ぎんたやななみが、家族が助けてくれた。

 変わるのは怖いし、理不尽で唐突な運命には戸惑い、いつもうまくいかない。昔の方が良かったと思ったり、これからが上手くいく保証はない。それでも、その時にできる精一杯をやりたい。


 そして、何より、せつなを、心から支えたい。そばにいなくても、何をしていても、何もしていなくても、何も知らなくても、わからなくても、いい。自分はいつでも味方だと、伝えたい。せつなの友人だと、伝えたい。たくさん考えた伝えたいことはもはや、たったひとつになっていた。


 せつながふ、と笑う。


「君にはかなわないなぁ」

「え……」

「なぎ、もちろん。いいよ。いつでも連絡して。僕たちはこれからも友人だ」

「……!」

「ありがとう。なぎ。君の選択を、友人として、元相棒として、心から尊敬するよ。君に甘える僕を許して欲しい。……なぎ、ひとつ、お願いがある」

「え、な、何……」

「僕からも、いつかきっと、連絡する」

「!」

「それじゃあ、なぎ。……またね」


 そう言ってせつなの去ってゆく背中をなぎは見送った。

 霧雨。四月の夜だ。まだ刺すような肌寒さを感じる。せつなの姿が建物に消えると、ひゅうがが近づいてきて、頭からばさりと、なぎにジャケットをかけた。

「がんばったな」

「……」


 それからふたりはすぐにPPCへ向かうべく再びバイクで走り出した。会話はなかった。

しかしその頃、PPCには、予定よりずっと早く代表取締役が会社に戻っていた。




——————




「白樺れいとに連絡がつかない?」


 PPC本社、代表取締役のオフィス。秘書にそう聞いたのは波々伯部悦子だ。


 会見を兼ねたオーディションの発表の会場は、PPC本社からすぐのホテルの大宴会場が抑えられた。数時間前の発表だったにもらかかわらず、大手メディアはだいたいが既に集まっていた。

 波々伯部悦子ら上役陣が会場に移動せずまだPPCにいるのは、契約の問題だ。あらかじめ内定の話を通してあったるきは二つ返事で、契約書にサインをした。未成年であれば保護者に契約に同席してもらうが、彼の両親は来なかった。代理人だという人物と弁護士が立ち会った。非常に事務的な契約だった。残りはれいとの方だ。事前に彼にも、オーディションの顛末はそれとなくは伝えてあったが、白鳥せつなの情報のリークの件で彼は、会社に不信感を持っているかもしれないし、凪屋なぎがちょっかいを出していたことも悦子の耳には届いていた。しかし、本人がファーレンハイトに入ることを強く希望しているとも聞いていたので、まさか、連絡がつかないなんていう事態は想定していなかった。


「……渋滞の情報は出ていますか?」

 突如悦子から、今の話題とは関係がないような質問が秘書に降りかかる。

「え? えーと……今調べます。あ、空港の近くで。結構長いな。関係ありますか?」

「はぁ……まったく。私が連絡を取ります」

「白樺くんの番号は……」

「結構。連絡をするのは熊谷です」


 そう言うと、混乱する秘書を退出させて、社内の電話ではなく、自分のスマートフォンから、熊谷を呼び出す。

 意外にも三コールもせずに電話が繋がった。

『熊谷です』

「熊谷……あなた……いえ、あなたたちね。何をしているの。もう遅いのよ。すべてがね。白樺くんは? 私、あなたが白樺くんの保護者から未成年者の誘拐で訴えられるようなことがあれば切り捨てますよ」

『心外です』

 悦子の読みは、至極簡単な答え合わせだった。誰でもわかる。凪屋なぎが、せつなの脱退に伴い、新メンバーを探している。白樺れいとに目をつけた。しかし、白樺れいとは、ファーレンハイトに加入したがっている。なぎは彼を説得する何かキーを持っていて、それを使えば白樺れいとの気が変わると思っている……。また、それとは別にひゅうががバイクでなぎと空港に行ったことも予測済みだ。これは、せつなが本日アメリカに発つと連絡してきたからである。れいとに、契約を交わされ、会見がはじまればもう終わりだ。熊谷はそれを妨害しているわけだ。多分この男にとっては、実際に訴訟を起こされても、何の効果もないだろう。熊谷がうわべしか社会のモラルや相対性を尊守尊重していないことを悦子は知っていた。危険な男だ。何でもやる。だから、何でもできるなぎとふたりにしておきたくなかったし、せつながストッパーのはずだった。


『誘拐だなんて、とんでもない。今ホテルに向かってます。足のない白樺君の送迎を自主的にしているだけです』

「詭弁ね。結構。もう時間稼ぎは終わりよ。彼は本社に連れてきて。契約をしないといけないの」

『失礼。ホテルの方でいいのかと、勘違いしていました。ええ、では、そのように』


 電話が切れる。悦子の盛大なため息は、ドアの外の秘書にも聞こえただろうか。ドアが開いて、悦子が出てきた。何がなんだか理解できずにただ待っていた秘書を急かす。

「ホテルに行きましょう。そこで白樺れいとを捕まえます。契約は後回しでいいわ。会見よ。あと、熊谷を見つけたら問答無用で取り押さえて。生死問わず」

 え、と秘書から鈍い反応があった。物騒な発言だ。本気なのか、それとも。


——————


 電話が切れる。それを見計らって、れいとが話しかけた。相手は熊谷だ。

「あんた正気じゃねぇな……」


 すっかり暗くなった街を走る車内、ふたり。

 熊谷とれいとだ。

 経緯はこうだ。なぎがひゅうがと空港に向かったちょうどその頃、熊谷はいつもの社用車でれいとの自宅へ行って、彼を車に乗せた。代表取締役が思ったより早く会社に戻ることがわかって、それではひゅうがとなぎが間に合わないと気づいたからだ。それだけではない。空港付近で渋滞が起きていることもわかった。ここで一番有効な足止めが、会見のメイン、れいと本人の足止めだ。るきの方でも良かったが、れいとの方が手っ取り早いのでそうした。スマートフォンを預かって、車に乗せて、あとは、その辺をぐるぐる走って時間稼ぎをしていた。れいとは大人しく後部座席に乗っていた。


「ええ、そうかもしれませんね。でも、代表取締役に気づかれました。もう、ここまでです。ホテルへ向かいます」

「……どうして俺なんだ」

「なぎ君に聞いて下さい。……いえ、言葉などいりませんね。なぎ君に、会ってください。わかるはずです。私はわかりました」


 淡々とした会話だった。熊谷はミラーはおろか後部座席を気にする様子もない。れいとは考えた。別に抵抗するなり、拒否するなりしてもよかった。大人しく熊谷に従った。なぜだろう。ファーレンハイトに入って、金を稼ぐ。そなためにオーディションに来たのに。何かが狂った。公平さや、バランスを見失っている。……なぎに会ってから。


「それともうひとつ。……保険を。会社の密通者についてです」

「……?」

「犯人は、多目的ホールに出入りして、カメラやマイクなどの機材を操作していても不審に思われないような人物です。オーディションの最終選考からは、あそこは最終選考メンバーの他には、関係者しか出入りしていません」

「おい、何の話だ……」

「怪しい人物がひとり、思いつきませんか?」

「……」

「会社に恩を売っておいた方がいい、ということです」


 この熊谷の発言が、れいとにとって遅効性のアドバイスとなったが、今はれいとは、ピンとこなかった。疑われているのは気分が良くないが、犯人さがしの気分でもなかった。


 車はホテルの地下駐車場について、パスを持っている者だけが入れるスペースに駐車した。ふたりとも降車して、そして熊谷がれいとにスマートフォンを返した。PPCからの着信がたくさん入っている。るきからの留守電も入っている。(れいとは連絡先を交換するつもりはなかったが、るきがほぼ強制的に連絡先を交換した)再生すると、るきにしてはめずらしく、煽るようなこともなく、怒っていることもないメッセージが入っていた。どこにいるのか。ふたりともファーレンハイトに入れることが決定した。俺はわかってた。お前とならきっと上へ行ける。早く来い。……そんな内容だった。

 自分の、人生が変わる。今日はその日なのだと思った。

 熊谷の後ろから、駐車場に一台、スピードをだした車が入ってきた。停車するかしないかぐらいのタイミングで後部座席から女性が降りてきた。

 悦子だった。

 熊谷とれいとの間に、足早に割り込む。

 熊谷はそれこそ、降参、のポーズをとったが、どうにも獰猛で慇懃な雰囲気だ。この男にとっては、悦子はおろか世界中の誰だって怖くないのだろう。

 悦子は熊谷をにらみつけた。

「白樺君、行きますよ」

 冷静に聞こえる。素晴らしい演技だ。だが、歩く速度から感情が伝わってくる。れいとについてくるように促す。

「熊谷、あなたはここから一歩も動かないで。言いつけを破ったら秘書があなたを轢き殺すから」

 そう言って、悦子はホテルの入り口へ向かう。れいともついていく。熊谷を見ると、目を合わせてはきたが、感情がわからない。


 人生が変わる。このままついていけばいい。

 しかし、れいとは、なぎの言葉を思い出した。


 れいと君、君と歌いたい! 君のために曲を作ったから、聞いてほしい。けど、今は行くところがあるから! 絶対に 間に合うようにするから

 待ってて‼︎


 れいとは、あの時、ドアの向こうから聞こえてきたなぎの声を一字一句、ひとつたりとも違わずに、鮮明に、思い出すことができた。





——————




 会見の会場のホテルは、先日有名な女優が結婚の発表をした際にも使われた場所で、華やかで絢爛で、まさに夢の舞台のようだった。すでに準備が整っていて、るきも袖に控えていた。あとは代表取締役と、れいとが来ればそれでいい。しかし、ファーレンハイトのマネージャーだとかいう人物や、会社の重役であろう人物に次から次へと話しかけられる。教官の黒瀬もいた。がんばれよ、と背中を叩かれる。

 るきはそわそわしていた。情報のリーク騒動でオーディションが中止になるのでは、とすっと張り詰めていたからだ。しかし、リークを逆手に、こうして今日、自分の、自分たちのための舞台が整えてられた。これからだ。ファーレンハイトに入れる。注目される。見返せる。人生が逆転する……。

 スタッフが騒つく。代表取締役だ。何か打ち合わせをしながら来たようで、その奥に、れいとが見えた。

「おい!」

 るきが近寄る。

 れいとがるきに気づいた。

 あたりの雑踏に反して、将来を約束されたスターふたりの周りだけが、静寂に包まれている。

「……行くぞ」

「……」


 るきの言葉に、れいとの返事はなかった。


 代表取締役が舞台袖を出て、会場に姿を現す。まばゆい照明。カメラの音が激しい。

何を言っているかはわからない。だが、ふたりが呼ばれる。スタッフに促されて、まずるきが舞台袖を出ていく。そして、れいとも続いた。


「ご紹介します。こちらが、五万人の中から見事選ばれたふたりです」


 ふたりは立ったままで、代表取締役が、今回のオーディションがどれほど凄いものだったのか、その中でふたりの実力がどれほど抜きん出ていたのかなどをつらつらと述べる。

 そして、ふたりがファーレンハイトに入る新メンバーであることが発表された。


 着席を促される。これからひとりひとり決意表明をするらしい。今さっき会場についたれいとには、この会見の流れがわからないので、るきに続くしかない。

 るきが、ファーレンハイトに入ることが決定して、どう思っているか。これからの目標はどうかとか、おそらく会社側と打ち合わせの上用意されたであろう原稿めいたことを口にしていた。緊張しているのか、いつもの威勢がない。

 次はれいとの番だ。

 ふたりとも、自分の席のその前には無数のマイクに、無数のひと。正面からのフラッシュ。けたたましいカメラのシャッターの音。何も見えないほどだ。まぶしい。あまりのひとに、何も考えられなくなる。現実感がない。これでいいんだ。ここから全てが変わる……。

 れいとが少しかがんで、マイクに近づく。

 自分の名前を言おうとしたその瞬間だった。




「待って‼︎‼︎」


 真っ白な光の中から、なぎの声が、はっきりとれいとに届いた。





——————




待って‼︎‼︎


 大きな声だった。当然、関係者しか入れない席だし、質疑応答はラストの予定のため、この声は予定に無いもので、その場の全員がどよめいた。フラッシュやカメラの音が止まる。場が静まり帰る。




 なぎがいた。


 れいとが立ち上がる。代表取締役と、るきもなぎに気づいた。

 れいとたちの正面のドアから入場したなぎは、報道陣を避けて迂回して、それを背にれいととるきの座る席の前に来た。

 報道陣も一歩遅れてようやく、この、乱入者がメリの凪屋なぎだと気づいた。次に発言をしたのは代表取締役、波々伯部悦子だった。


「凪屋くん。……。…あなたね」


 悦子は、なぎのことを知っていた。三年前のあの日を。熊谷、白鳥、七星……PPCの名だたるアーティストが、なぎを一目置くようになった、あの日を。あれがどれほどの偉業だったかを。だからなぎに対して、何をしているのか、とか邪魔だ、とか怒っても仕方がないことも知っていた。呆れるしかない。


「あの! ごめんなさい! 俺! どうしてもれいとくんに会いたくて、会って伝えたくて‼︎」


 息が上がっている。彼は……彼らは間に合ったのか。報道陣の後ろの壁、照明の届かない非常用出口のすぐそばに、悦子はひゅうがを見つけた。腕組みをしてこちらを見ている。

ざわざわと報道陣は予定外の乱入者に気を取られるも、それをもスクープにしようと、写真が撮られる。なぎの後ろ姿をカメラが捉える。しかし今度はるきが立ち上がる。


「てめっ……またかよ! まじで何なんだよ! 邪魔すんなって何回言わせる気だよ!」


 当然の反応だった。るきの反応が、正しいリアクションのはず。

 しかしそれを悦子が静止する。


「凪屋くん、申し訳ないけれど、彼らふたりはファーレンハイトに入ります。今、この会見を邪魔しないで欲しいの。彼らにとって、これからの人生のスタートなる華やかで厳かな場所よ。どうかわかってくれるかしら?」


 悦子はしっかりとなぎの目をとらえて、厳格に宣言を下した。しかし、それがなぎに通じないとわかっていた。悦子を、るきを無視して、なぎはれいとに話しかける。

「れいと君、俺、君と歌いたいんだ」


「俺は……」

「わかってる。ファーレンハイトに入りたいんだよね。いいよ。けどその前に、俺が作った曲を聞いて欲しいんだ。俺歌うから。歌いに来たんだ、ここに」


 報道陣がさらに騒つく。これでは二回目のリークの内容が真実味を帯びる。オーディションの予定を繰り上げて、会見を始めた意味がなくなる。今度こそなぎを静止すべく、悦子がなぎの方へ向かおうとした。


「報道陣の皆さんどうか、なぎ君を待ってやって下さい」


 舞台袖から現れたのは……熊谷だった。悦子は今日ほど自分の秘書を使えないと思ったことはない。轢き殺せと言ったのに。

「なぎ君に時間くだされば、PPC内部の情報をリークした犯人を捕まえる劇的な瞬間を撮れますよ」

 そう言うと、るきの方へ来て、るきの腕を掴んで、端へどかすように連れて行く。るきは当然、なんだよ! とか抵抗をしたが、熊谷がそれを許さない。るきは舞台から降ろされた。 あとは、悦子だ。

 悦子は代表取締役として、この場をなんとか取り戻さなくてはならない。メディアはセンセーショナルで売れるモチーフが好きだ。熊谷の一言で、会場はすっかりその気だ。なぎの一挙一動を見張る。悦子に、チャンスはなかった。しかしこういう場面での立ち回りでのし上がってきた女だった。利用できるものは利用する。熊谷は……後でみっちり絞ることにした。


「凪屋くん。五分ですよ」


 なぎがはい! と大きく返事をした。

 悦子が下がると、れいとと向かい合うのはなぎだけだ。ふたりの舞台だ。ふたりの世界だった。れいとは、なぎの後ろの報道陣などすべて消えて、この世がまるであの世のように真っ白なだけの空間になって、そこに自分となぎだけがいる……そんな気持ちになった。


「れいと君。聞いてね」


 なぎが、にこりと微笑む。そして歌い出した。れいとのために、れいとと歌いたいと考えて作った、あの曲だった。


 光の衝撃を受けたのは、今度は、れいとの方だった。



 はじめて会った時を思い出す。朝日の降り注ぐ多目的ホール。凍えるほどではないが、まだたしかに肌寒い朝の光の中で、なぎは歌って踊っていた。


 楽しそうだった。


 自分が音楽には感じた事のない感情を、それは体現していた。声をかけずにしばらく見ていた。

 それから、自分の歌を聴いたあとのなぎの瞳を見て驚いたのを覚えている。丸い球体にめいっぱいのきらめきを取り込んで、自分を絶賛していた。

 昼間に会った時はどうだった? 夕暮れの河川敷で会った時は?

なぎはいつだって、自分に対して、素直に感情を示してくれていた。喜び、落胆、戸惑いや決意……。

 なぎが何を考えているのかがいつだってすぐに、よくわかった。今も。

 一緒に歌いたい、それは、れいとのみならず、この会場の全員に、なぎの歌を聴いている全員に、真っ直ぐに伝わっていた。

 自分の意思を、感情を表明できるものだけがリアクションをもらえる。自ら動かなければ、誰も動かせない。

 今度は、れいとが答える番だった。

 報道陣のライトで眩しい。なぎを探す。なぎの顔を見る。


 笑っていた。


 楽しそうに、歌っていた。


 一緒に歌おう、と言っている。


 れいとは、はじめて、誰かと一緒に歌いたいと思った。いや、なぎと一緒に歌いたいと思った。


 きっと、楽しいと、そう、思った……。


 なぎの歌が終わる。


 なぎは走ってきたこともあって、息が上がっていて、歌い終わった後にようやくはふはふと深呼吸をした。そして気づいたら、目の前にれいとがいた。歌っている間は、遠かったはずなのに。いつの間にか、目の前にいる人物を、なぎは無言で見上げた。


 笑っていた。少しだけ。

 れいとの笑顔を、なぎは初めて見た。


「決めた」

「え?」

「あんたと歌う」


 会場の一同が、騒然とする。


「ファーレンハイトには入らない。メリに入る。あんたと……歌いたい」


「え……?」


 空調の音に消え入るような、ほとんど静寂に近いような、ただただか細い声だった。

その時凪屋なぎから漏れ出たのはまぎれもない困惑、そのものだった。まったく想定もしていなかった、カケラも考えなかった言葉を今、目の前の人物から聞いたからだ。


 でも今度は、違う。前とは、違う。

 れいとの言葉を理解した凪は、驚いて、その後すぐ笑って、でもその目尻には涙が浮かんでいた。




——————






「はぁ⁉︎」

 るきの声だった。

「何言ってんだよ! オマエ…それでいいのかよ! 人生かかってんだぞ!!」


「!」

 その声に反応したのはなぎ。

「そっ、そうだ! そうだよ! いいの⁉︎ 俺……や、メリで、だって、れいと君……」

「何度も言わせるな。あんたを選ぶ」

「あ、え、う、うん、あの……」 


 悦子は頭を抱えた。これでは二度目のリーク情報を本当にしただけだ。


「あの時は演技だったけど、今度は本気だ」

「あの時……あ……」


 れいとの声に、空気が変わる。

「えと……?」

 唐突なれいとの発言に、なぎは戸惑う。


「情報をリークした犯人は俺たちの作戦にハマって、俺たちが演技で言ったことをリークした……。多目的ホールには誰でも出入りはできるけれど、部外者が頻繁に出入りしてたら目立つ。出入りしていてもおかしくない人間が犯人だと思う」

「は、はぁ……」

 なぎは、いまいちれいとの言う事についていけなかった。空港でのせつなとの別れ、ひゅうがと渋滞を抜けてきて、今一生懸命歌って、れいとが返事をしてくれて……。

犯人のことなんてどうでもよくなっていた。れいとは違う。混乱するなぎに、れいとが説明する。


「ファーレンハイトに入る予定だったのに……それを蹴るんだ。別の手柄を立てて、会社に報いるべきだし……あぁ、いや、そういうことか。あんたのためか。乗るしかねぇな。いいか? あんたも……俺とふたりで会見をめちゃくちゃにしたけど、内通者を見つけるのに一枚噛んだっていうのなら、少し居心地もマシになるだろ」

「ん……? んと……つまりれいと君は、犯人わかったの?」

「わかった」


 なぎのそばにいたれいとが、再び机の方に戻る。マイクを持つ。高らかに犯人の名前を読み上げた。



「なぁ、黒瀬教官!」





 会場内がどよめく。黒瀬、と名指しされたのはオーディションのレッスン担当の社員で、なぎも習ったことがある。会社には十五年は勤めている。

 悦子が舞台袖の方を見る。黒瀬がいる。周りにいるファーレンハイトのマネージャーやスタッフも、信じられない、という顔をしている。


 違うなら、弁明があるはずだ。怒るはずだ。しかし……。


 黒瀬は走り出した。スタッフを掻き分け、マスコミの横を通り抜ける。ぶつかった人や物が倒れ、一気に会場が混乱した。非常用出口へ向かう。非常用出口は施錠されていない。このまま逃げる算段だったのだろう。次の瞬間、鈍い音と悲鳴が同時にひびいて、黒瀬は盛大にドアに激闘した。そして床に倒れた。誰かがドアを施錠していたのだ。

 スタッフが駆け寄り、黒瀬を確保する。


 一件落着、ではない。悦子は頭痛がした。これは不祥事だ。悦子がマイクを取り、会見が御破算で、オーディションの件、ファーレンハイトの新人加入の件やメリの存続の件、それらについてはまた後日、ということを案内した。

 熊谷がなぎ、れいと、るきを舞台袖へ退避させた。なぎはいまだにぽかーんとしていて、れいとはスッキリした様子だった。熊谷がるきをファーレンハイトのマネージャーに預けて、なぎとれいとだけを連れて会場を後にして、ふたりを車に乗せた。


「……」

 心ここにあらず、といった顔のなぎを見て熊谷がくすりと笑う。車が走り出す。

「ふたりとも、今日は帰ってください。明日、学校が終わったら迎えに行きます。詳しくは明日話しましょう。それと、なぎ君」

「え、あ……」

「良かったですね」

「……!」

 熊谷の一言でようやくなぎは、自分の成し遂げた事を実感した。そうだ、れいとが、メリに加入すると言ってくれたのだ。




「やっ……やったーーーー‼︎」


 ようやく我に帰ったなぎが、大きくガッツポーズを取った。

 れいとが話かける。だいぶ距離が近いのに大声で。

「れいと君、れいと君、ありがとう。俺がんばるね。がんばろうね! よろしくね! 俺……」

「わかったわかった。うるさい。ボリュームを抑えろ」

「あ‼︎ 犯人、どうしてわかったの⁉︎⁉︎ ていうか黒瀬教官……あんな……」

「あいつ以外いないだろ……っていうのはウソ。あー……そこの……」

「メリのマネージャーの熊谷です。改めてお見知り置きを。これからは白樺君、君のマネージャーでもありますから」

「熊ちゃんが? はぁー……そっかぁ……でも、良かったぁ。れいと君の疑いかが晴れて」


 三人は和やかな雰囲気だが、明日以降の会社は、事務局は、大変なことになっているだろう。流石に出社が憂鬱だ。新生メリのことも合わせて、かなりの残業になる。


「そういや、あれ、あんたの曲……」

「! どうだった⁉︎ はじめて作った曲だよ! 気に入った? 一緒に……」

「音程外しすぎだ。オクターブも少し高い! ……ボイトレからやり直しだ」

「え、え〜……?」


 後部座席で、ふたりが楽しそうにしている。かつてのせつなとなぎを乗せて運転していた時もそうだったが、熊谷はこの光景をミラー越しに見るのが好きだった。明日のことなどどうでもいい。かつて自分にもあった、光の衝撃の、その余韻を思い出す。

 今は未来ある若者ふたりに、これから目一杯の祝福が訪れるように祈った。

 




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