第32話 イクラのお寿司を食べたことがある人ぉ?

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 中間テストが終わったばかりの五月中旬のある日曜日。


 川辺に止まった大型バスから保護者と手を繋いだ保育園児たちが一緒に降りてくる姿を俺は見守っていた。


 園児三十人弱と保護者、先生でちょうど大型バス一台で乗り切れる程度の人数だった。


 保育園児たちにとっては遠足。暴川上流漁業協同組合にとってはヤマメの放流業務であると同時に地元への社会貢献活動だ。


 かねて準備を進めていた保育園児によるヤマメ稚魚放流イベントの当日である。


 もし日程が一週間早かったならばテスト前にあたるため俺は参加できなかったところだ。


 偶然ではなく、昨年度の中間テストの日程がいつであったかを年度内に俺が祖父に知らせ、中間テスト後に放流イベントが行えるよう保育園と日程調整をしてくれていたためだった。


 いつも保育園に寄って水槽をいじっていた俺は恥ずかしながら園児たちから『ヤマメ先生』として顔を知られていた。漁協としても俺がイベントに参加できたほうが園児に親しみを持たれて良いという考えだ。


 バスから降りてきた、たんぽぽ組の子供たちが先生と保護者に誘導されて俺たちの近くにやって来た。


 水際近くに運動会で使うような六本足のテントが建てられていて俺と祖父、十人程の漁協職員がテントの前で園児を待っていた。


 テントは横に幕が張ってあり中が見えないようになっている。


 園児たちに川遊びをさせるとびしょぬれになる子が必ず出るので、お着替えをするための更衣室代わりだ。着替えは保護者が持っているはずだ。


 保護者の顔は知らなかったが園児たちの顔は大体記憶にある。


 二月頭に水槽展示を止めて以来三か月近く保育園には通っていなかったが向こうも俺の顔を覚えてくれているようだ。俺を見つけて手を振ってくれる園児が何人もいた。


 此花貴音の妹である此花琴音ちゃんもその一人だ。


 琴音ちゃんの隣には彼女と手を繋いで姉の貴音が立っていた。


 貴音がニヤニヤと笑いながら俺に向かって手を振った。


「公私混同をするな」


 俺の隣に立っていた建さんに、なぜか俺は小突かれた。


 誤解だ。此花とは別に親密な関係ではない。今年はクラスメイトですらなかった。


 とはいえ、俺がこの場にいるだろうと思ったからこそ保護者として此花が妹に付き添っているのも間違いではないだろう。


 まず保育園の園長先生が挨拶をして漁協の組合長である俺の祖父が話をする。


 その後で俺がヤマメについてのお話を園児たちにしてから小さなバケツに何尾かずつ水と一緒にヤマメの稚魚を入れて園児に配り、全員を水際に並ばせてから一斉にバケツの水を川にあけるという段取りだった。


 俺たちが話をしている間に他の漁協職員たちが手分けをしてバケツに稚魚を分けている。


 テントの脇に水が入った農業用のオレンジ色の大型FRPタンクを積んだ軽トラックが止められておりタンクには水とヤマメが入っていた。タンクの脇に寝かせて積んである酸素ボンベからビニールホースでタンクの水に酸素がブクブクと供給されている。


 俺は小型の透明プラケースにヤマメの稚魚を何尾か泳がせた物を園児たちに見えるように持ち上げると、「このお魚を見たことがある人、手を上げて」と園児たちに話しかけた。


「「「はーい」」」


 園児たちは全員一斉に手を上げた。


「どこで見た?」


「「「保育園」」」と声が返る。


「何という名前の魚だっけ?」


「「「ヤマメぇ」」」


「あたり。じゃあ卵からヤマメが生まれるところを見た人ぉ?」


「「「はーい」」」と、みんな手を上げた。


「見て、どう思った?」


 手近な子に聞く。


「ぶるぶるしてから、ぴょんと出てきた」


「そうだね。他には?」


 別の子にも聞く。


「うまく泳げないで下に転がったままだった」


「何でだろう?」


「お腹が重いから」


「お腹にイクラがついてた」


「卵がイクラだった」


「そうだね。イクラのお寿司を食べたことがある人ぉ?」


 イクラというキーワードが出たので俺は話題を変えた。


「「はーい」」と、園児たちからまばらに・・・・手が上がった。


 園児にイクラはまだ早いと親は考えているということか?。


「じゃあ、イクラのお寿司を食べたことがある大人の人ぉ?」


「「「はーい」」」


 ほぼ全員の先生と保護者たちが手を上げた。


 けれども声が小さい。


「元気がないなあ。イクラのお寿司を食べたことがある大人の人ぉ?」


「「「はーい!」」」


 今度は大きな声が上がった。


 けらけらと子供たちが笑う。


「お寿司に載っているイクラは鮭という魚の卵です。鮭食べたことある人?」


「「「はーい」」」


 子供も大人も全員が手を上げた。


「ヤマメは鮭の仲間で水が冷たくて綺麗な川に棲んでいる美味しい魚です。沢山の人が魚釣りをして食べるために持ち帰ります。でも、あんまり一杯釣られると川からヤマメがいなくなっちゃうので、ここにいるおじさんたちがヤマメの子供を川に放してヤマメがいなくならないようにしています。皆さんには今日そのお手伝いをしてもらいます」


 そんな感じで俺は園児たちに話をした。


 漁協から地元の新聞社とテレビ局にイベント実施について投げ込みを行ったので何人か記者とテレビカメラがやってきていた。


 園児が並んで一斉にバケツをひっくり返す様子を撮りたいというリクエストだ。


 園児に行列を作らせてヤマメが入った小さなバケツを一つずつ手渡していく。


 バケツを受け取った園児を誘導して順番に水際に並ばせた。


 長靴をはいたカメラマンが川の中に入り込んで岸に並ぶ園児たちを撮影している。


 俺が音頭をとった。


「3、2、1、放流」


 園児たちが一斉にバケツの魚を放流する。


 初めて本物の川に放された稚魚たちは、すぐ泳ぎだすものもいれば、その場にジッと留まってなかなか泳ぎだそうとないものもいた。


「がんばれー」と、園児たちは稚魚が泳いでいく姿を応援した。


 純粋だ。仕込みではなく本心からの言葉だった。

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