第28話 もう二十年前に知り合いたかったですね
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俺は此花と月水金と保育園に通っていた。
俺にとってはついで仕事だが一緒に公園を通り抜ける行為は、ある意味ボディーガードにあたるだろう。
一応、俺は此花をナンパから助けた存在であり愛猫も見つけた存在だ。
此花は俺に対して、いつも助けてもらっている
俺の自意識過剰かも知れないが、もしかしたら此花は俺にチョコを渡さないといけないと変な義務感を持ってしまうのではなかろうか。
義理チョコという悪趣味な文化は無くなるべきだと俺は思っている。
チョコぐらい欲しければ自分で買う。今やバイトもしていない小学生じゃない。
小学六年生から中学三年生の間にも、もちろんバレンタインデーはあった。
さすがにブラウニーを焼いて配るようなレアイベントは二度となかったが、クラスの有志の女生徒が「義理チョコほしい人?」と男子に声をかけてアソートのお買い得パック的な詰め合わせチョコを、みんなに配っている姿はあった。絶対に俺は近づかなかった。
わざわざ小分けして可愛い袋に入れてまで渡しに来てくれる女生徒も何人かいたが、いらない、と俺は辞退した。
「ありがとう。でも俺は大丈夫」
返す返すも、一体、何が大丈夫なんだろう?
可愛い袋の中身が本当に小分けしたアソートのチョコだったのかまでは知らない。受け取っていないし。
何が言いたいかというと俺にとってバレンタインデーも義理チョコもB子ちゃんに泣かれて以来トラウマだ。欲をかいてチョコなんか欲しがらなければ、それ以上の問題は発生しないだろう。
だから、俺がチョコを受け取ってくれないなどと泣かないで欲しい。
大丈夫だって言っているのに義理に付き合わない俺が悪いのか?
バレンタインデーの度に人前で女の子に泣かれるのはどういう因果か?
ついでに言えば、どうせご縁がないのだから義理チョコ以上に本命チョコという文化も無くなれば良いと思っている。
それはさておき此花に先回りをして、チョコなんかいらないよ、と言うのは変だろう。
熱湯風呂を前に、わざわざ押すなと言うようなものだ。振りに違いない。
俺が本当はチョコを欲しいからそう言っていると受け取られてしまう恐れがある。
もし此花が本当に俺にチョコを渡そうとは思っていないとしたらなおさらだ。俺からチョコを催促したみたいになってしまう。絶対に避けたい。
となると此花に対して、はっきりチョコはいらないと言う作戦は無しである。
であるならば、現在進行形で此花が俺に義理を感じ続ける今の状態を無くすしかない。
俺は保育園でのヤマメ展示を終らせることにした。
俺に保育園に行く用事が無くなれば毎日が火木と同じになる。俺は一人で帰るだけだ。
此花も一人で帰るだろう。俺に義理を感じる必要はなくなる。
漁協が保育園児と行うヤマメ稚魚の放流イベントは五月を予定していた。
だからといって五月まで保育園にヤマメの展示水槽を置いておけるわけではない。
もともとヤマメは冷水魚だ。飼育には十五度以下の水温が望ましい。
三月になると気温が十五度を上回る日も出て来るので飼育は難しくなる。
展示期間を最大限まで伸ばしても二月一杯までとするつもりだった。
今年は俺が帰り道に保育園に寄れているので水槽の管理が行き届いているが、昨年までは養魚場の職員の誰かが偶に覗きに来るだけだった。そのために管理が行き届かずに思ったよりも卵が孵化しなかったり孵化しても死んでしまう魚が多かったらしい。
そのため、とりあえず孵化をする様子までを保育園児に観察してもらうことで良しとして年末年始を跨がずに水槽を引き上げてしまっていたそうである。
今年は俺がマメに管理をしているために二月になっても展示ができていた。
昨年よりも一か月以上長い。
頃合いとしても、そろそろ終了して良いだろう。
水槽内には仔魚ではなく完全に稚魚となった十尾程のヤマメが泳いでいたが遊泳力の高いヤマメにとって水槽は既に手狭であった。
園児たちは、ぺたぺたと水槽に触ったり叩いたりするので、音や振動に驚いて勢い良く泳いだ稚魚はガラス面に鼻先をぶつけて傷ついていた。
傷口から雑菌が入って死ぬ恐れが高い。
養魚場のリスク管理としては、この水槽の稚魚を養魚場に連れて帰って他のヤマメ稚魚と一緒に飼育するわけにはいかなかった。養魚場内に病気を持ち込んでしまう恐れがあるためだ。
本来は殺処分一択である。
昨年までは園児たちの目に届かないところで多分そうしていた。
さすがに個人的にも思い入れがある稚魚なので今年は生かして持ち帰って養魚場ではなく祖父母と住む家で俺が飼おうと思っている。
もちろん、単純に家に保育園の水槽セットを移設しただけでは春以降水温が上がってしまうので意味がない。
水槽用のクーラーとか色々と入用になってくる機材があるが俺は魚飼育が趣味であるし、アルバイトもしているのでそこは何とかするつもりだ。
翌週にバレンタインデーを控えた金曜日、此花と保育園に向かって歩いている最中に俺は、水槽管理は今日までになるという話を此花にした。
正確には明日、建さんと車で水槽を引き取りに来るつもりなので、それが最後だ。
此花は驚いた顔をした。
「放流するまで置いておくんだと思ってた」
「水温が上がると死んじゃうからね。保育園で飼うのはそろそろ限界なんだ」
「なるほど。琴音が寂しがるね」
寂しいのはヤマメがいなくなることだろうか、それとも俺が保育園に行かなくなることか?
後者だと思いたい。少しは保育園児たちに懐かれたつもりなのだが。
とはいえ、前者であってくれないと展示をした意味がない気もする。
「でも、保育園に行かなくなったって家までは送ってくれていいんだよ」
此花はそう言って笑った。
以前も言われた覚えがある言葉だ。
「バイトあるから」
俺の返事も以前と変わらない。
「そっか」と此花は引き下がった。
「今日までありがとう」
「どういたしまして」
結論から言うと此花から俺へチョコレートは届かなかった。
そりゃ、そうだ。此花に彼氏がいるならば、もう義理が無くなった相手には義理チョコでも渡しちゃ駄目だろう。彼氏に怒られる。
あのまま保育園に一緒に通い続けていたら此花は俺に義理チョコをくれたのかくれなかったのか、そんな話はしていないので真実は分からない。歴史にIFはないのだ。
バレンタイン当日も俺はいつものように遅刻ギリギリで教室に入ったし帰りは誰よりも早く速攻で教室を出た。
どこかのタイミングに教室内でクラスメイト同士の義理チョコのやりとりがあったのかどうかはわからない。巻き込まれたくないので休み時間はトイレか図書室に避難していた。
だから、その日は此花とも鶴瀬とも他の女生徒とも話はしなかった。
男子ともかな?
まあ、俺にとっての日常だ。
放課後、バイト先の養殖場でパートのおばちゃんから分かりやすい義理チョコをいただいた。
赤い包装紙の板チョコを一枚。
少なくとも間違いなく俺のために用意されていた義理チョコなので部外者なのに受け取ってしまって居たたまれないという思いにはならずに済んだ。ありがとうございます。
「麟くん、チョコいくつもらった?」と聞かれたので「これ一個」と正直に回答した。
「あらあら私が若かったら絶対に麟くんのことほっとかないのに」
「もう二十年前に知り合いたかったですね。俺まだ生まれてませんけど」
ひゃはははは、と、おばちゃんと二人で笑い合った。
こういう発展性のないその場限りのやりとりは苦ではない。
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