プロローグ
隣人
「で? 少しは仲良くなれたか、お兄ちゃん?」
揶揄うように言えば、電話の向こうから、げっそりとやつれたような声が返る。
「……名前呼ばれるたびに心臓掴まれたみたいになる……」
「お兄さん呼びは無事回避したのか?」
「そう……お兄さんだけはやめろつったら『ゆうじさん』て呼び出した」
「涼花のほうが混乱しそうだが」
「涼花はさ……新矢のこと『ゆうじくん』って呼んでるから。一番混乱極めてるのは涼花と一緒にいるときのおれ。『ゆうじくん』って話に出るたびにちょっと待ってって停止してもらって回復ターンが必要」
「かわいそうに涼花」
新矢くんの名前は『新矢
豊田の名前は『豊田
下の名前の読みが同じだから、会話だとややこしい。正直面倒くさいので、俺はこのまま『豊田』『新矢くん』と呼ばせてもらう。
「まあ、結婚式には呼んでくれ。ご祝儀は弾む」
「まだだからっていうか『まだ』とかじゃないわ。でも、もし別れることがあったら絶対に新矢が悪いからガチキレる」
「めんどくせえ兄貴だな」
言いながら、おたまで味噌汁をかき回す。味噌を入れるまでは終わっているのだが、その後どれくらい火にかければいいのか分からない。
「坂田は? どうよ新居」
「都会寄りに来たから狭くはなったな。その分、便利ではある」
「おれも今度遊びにいこ。そんで趣里くんにご飯作ってもらお。はは、そんでどんな感じ? 高円寺姉妹」
「その呼び方やめろ」
味噌は完全に溶けたし、沸騰しそうだしこれくらいでいいだろう。火を消して元栓も閉めておく。
「まあ予定空けといてよ。仲良くしろよな」
「そっちがな。いい加減にしないと涼花に嫌われるぞ」
「それはない。なぜなら愛されているので。じゃ!」
豊田が電話を切った。
そのとき、丁度インターホンが鳴る。玄関扉を開けてやると、そこには土鍋を掲げるように持った趣里がいる。
「おまたせ。炊き立て! お味噌汁どう?」
「いまできた。多分」
「史宏くんの多分こわいんだよな」
言いながらクロックスを脱いで、玄関に持ち込んだ趣里用のスリッパに履き替える。すでに何度も上がり込んでいるので勝手知ったる様子で台所に立ち入り、土鍋を味噌汁の隣に置いた。コンロは二口ある。
「お、いいじゃん。出来てる出来てる。」
では、と言いつつ、趣里は持ってきた袋からいくつかの瓶を取り出す。
就職が決まった。だから引っ越すと言ったら、「おれも引っ越す」と宣ったのが趣里だった。不動産屋へ引き摺られて、「隣同士空いている物件探してください」と笑顔で言ったのだった。
結局探している価格帯にそんな物件はなく、趣里は同じマンションの上階に住んでいる。
こうして、時折食事を持ち寄って、たまに醤油を貸してくれと来て、都合が会えば連れ立って遊びに出たりする。
高円寺姉妹、である。
今回は、帰省したときに、地元の佃煮セットを買ってきたのだという。せっかくだから良い米を炊いてご飯のお供として満喫しよう、という趣旨だった。
そんな近況を香澄さんに報告したら笑っていた。微笑ましい、という笑い方ではなくただ面白くて爆笑している様子だった。
どうしてそうなるの、と言いながら。
「でも、さっちゃんらしいわ」
俺がいなくなるということを理解できていない様子の一香は、ぽかんとしてこちらに手を振る。香澄さんがその腕に抱いた。
「どこに行ってもいいわ。きっとあなたならうまくやるでしょう。会いたくなったときだけ、帰っておいでなさい」
はい、とだけ返事をして。
そのあと、一人で西川の墓に行った。
「あ、写真。飾ることにしたんだ……って綺麗な子だな」
キャビネットの上には、奴の写真と楽譜を置いている。以前は見る度に責められているような気がしていたが、もうそんなことはない。
「まあ、一応」
要らなくなったら捨てなさいねと、香澄さんは言った。
そんな日が来るとはまだ思えない。後生大事に抱え続けるのかもしれない。擦り切れた記憶をなんども繰り返し、褪せた映像をそれでも見続けて。
それでいい、とも思う。
それが、愛するということなら、抱き締めるということなら、いいのだと思う。
少なくとも、いま隣にいるこの人間であれば、否定はしないだろう。
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