応酬


 意識がゆっくりと登ってくる。

 最初になんとなく認識したのは、鬱陶しく張り付いたシャツの重みだった。汗でじっとりと濡れている。身体にダルさと不快感が加わってくる。

 次に、ぼんやりと、光を感じた。微かな、しかしはっきりとした光。


 夜明けだ。


 目を開ければ緩く白んだ景色のなか、趣里がいた。

 いまここに来たのだろうか。寝巻のような軽装のまま、こんなところまで登って来たのか。

 彼のこめかみからは汗が流れていて、走って来たかのように息が切れている。

 あまりにも情けない顔をしていたから、からかい半分に尋ねる。


「……どうした」

「あんなメッセだけ置いてどっかいくとか、最悪……」


 体を折って膝に手を置いて、肩で息をする彼は、吐き捨てるようにそれだけ言った。

 なぐさめればいいのだろうか、思ったけれど、何となくそれは違う気がして、笑った。


「そんなに泣くな」


 泣いてねえし、と即時に答えた。それを受けてまた笑う。けれど立ち上がる気にはならなかった。

 俺の右肩にはいまだに、奴の墓石がぴったりとくっついている。


「心中でもすんのかと思った」

「しない」

「だろうね、西川くんが哀しむよね」

「そうじゃない」


 死ににきたわけじゃない。もう、そんなことはできない。


「……話したかったんだ、奴と。話せば何かわかると……思った」

「ふうん」


 次の瞬間、趣里が俺の左腕を掴んだ。

 無理やり立たされて、体勢を整える隙も無く進まれる。転びそうになるのをかばう形で、俺は一歩を踏み出した。そのまま趣里は強引に歩いて行く。


 霊園を抜け、山道に降りる。


 おい、と非難めいた声を出しても、止まらない。何も言わない。振り返りもしない。

 仕方がないので好きにさせる。そのころにはすっかり俺は自分の身体の主導権をとっていて、趣里に引っ張られるまでもなく歩いていた。

 それでも、握られた手首が、離されることはなく、離してほしいとも、思わなかった。


 山道を降りると、海岸が目の前に出てくる。

 まだ少し暗さの残る県道は、時折トラックが走る程度の交通量だ。道路を渡って、趣里はずんずんと入っていく。


 奴と歩いた砂浜だ。


 さすがにいまは夏だから、誰もいないなんてことはない。すでに波に乗っているサーファーがひとり。ゴールデンレトリバーの散歩をしている人もいる。


 趣里は相変わらず前を行っていて、表情が見えない。地面の固まったところを過ぎて、柔らかい砂に靴が沈む。歩く速度が緩んだ。

 何も言わない趣里にじれて、再び「おい」と呼びかけた。返事はない。


「趣里」

「史宏くんはさ」


 変わらず、手首を握られたまま。


「本当にその人のこと、好きだったんだ」


 返していい言葉を持っていなかった。

 好きだったんだ、という言葉を、趣里が発した無色の声音のまま反芻する。好きだったのか。わからない。ただ確かに、愛していた。


 あの感情はなんだったのか。

 なににしたって、結末はこれだ。


「……どうだろうな。なにも返せなかった」

「なんだそれ」


 ばかだなあ、と目の前の頭が言う。もう一度。

 ばかだなあ。返す必要なんてないよ。


「幸せだったろうな、西川くんは」


 それが鼓膜を震わせた瞬間、脚から力が抜けて立ち止まる。勢いのまま、趣里の手が抜けた。振り返った彼はこちらを見ている。


 奴は。

 幸せだっただろうか。


 奴は、俺の隣にいるために晩年を払った奴は、本当に幸福だったのだろうか。

 もっといい時間の使い方が、もっといい相手が。無尽蔵にある選択肢のなかで、どうしてわざわざ俺を選んだのか。

 だって、結末はこれだ。

 置いていく。

 俺はこうして置いていくのに。


 俺を幸福にしたあの日々は、確かに奴をも幸福にしたのだと、まだ口にできない。


「そんなの、聞いてみないとわからない……」

「そりゃそうだ」


 趣里は破顔した。寂しくて優しい笑い方だった。まるで慰められているように思えた。奴とは似ても似つかない。面影さえない。

 自分には適用されないその言葉を、代わりに俺に言い聞かせるように。


「でも、そう信じるんだよ」


 それでも、優しい笑い方だった。


「もう本人には、聞けないんだから」


 もう本人には聞けない。

 どこにもいない。


 だから、信じるしかない。確かめる術はもうないから、そう信じるしかない。どれだけ独りよがりであっても。自分のなかだけでも。

 そう思うと途端に泣けてきた。声も出せず、つっかえる喉が不規則に空気を吐き出し、やっとのこと何回目かで吸う。


「史宏くん」


 呼びかけた趣里がひときわ大きく笑った――気がした。



「っっしゃーーーーーーい!」



 無防備にさらしていた首根っこを掴まれた俺は、前方に突き飛ばされる。

 たたらを踏んだ一歩目がすでに波際で、二歩三歩とバランスを取ろうとするほど、深く海に入っていく。


 なんとか転ぶことは回避して、すぐさま振り返るといつのまにか目前にいた趣里が手ですくった海水を投げてくる。まともに受けて、目に水がはいる。別の意味で涙が止まらない。


「なんだよくそ……っ」


 目をこすりながら、見えない視界でなんとか海岸に向かって歩く。いまだに膝上まで浸かっている趣里は置いていく。


「ええ、ちょっと! 少しは遊んでこうよ!」


 無視をしてずんずん歩く。海水をふんだんに吸った砂のせいで踏み込んだそばから足が埋まっていく。

 背後で、ああ! と趣里が叫んだ。


「ちょっ! サングラス落ちた! 史宏くん探して!」

「はあ?」


 仕方がないので踵を返す。視界も結構ましになって来た。

 しかし。


「っっっせーーーーーーーい!」


 サングラスは嘘だったのだ。見ればその胸ポケットにしっかり差さっている。腰までつかるような場所で、海面から思いっきり掬いあげられた海水が降ってくる。

 もはや抵抗もなくすべてを被った俺は、笑顔で趣里を見つめた。

 腰を低くし、俺は思いっきり、趣里に海水をかぶせた。

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