夢幻


 夢を見た。よく分からない夢だった。

 遠く遠く、心の奥底で奴が笑っている。


 俺はベンチに座り、一人分空けた隣には趣里がいて、目の前の広大な花畑のむこうでは、奴が笑っている。

 動画を見たのに、奴の顔はぼやけていて、よく見えない。


 なのにどうしてか、笑っていることだけは分かる。同じように、どれだけ走ってもこの花畑を越えられないことも理解していた。だからおれは、大人しくベンチに腰を下ろしたままでいる。周囲には暗闇が沈んでいた。


 奴は言った。なにを言っても絶対に聞こえないほど距離が離れているのに、はっきりと正面から聞こえた。


「さっちゃんは、忘れるんだろうな」


 リフレインする。その声に責める気配はない。けれど責められているように聞こえた。

 奴にそんな意図はなかっただろう。

 隣に座る趣里が言う。


「忘れるほうが健全なんだよ」


 それは真実かもしれない。

 すべてを持ったままでいることはできない。どれほど嫌でも忘れていく。

 記憶は虫食いで、思い出は中途半端に補正された状態で上書きされていく。もう元の記憶には触れられない。それなのに。

 すべてを忘れ去ることはできない。


 今度は俺が言う番だった。


「全部忘れたい。なのになにひとつ忘れたくなかった。もう思い出せない。奴の声も、顔も、綺麗だった笑ったときの表情も。ぼやけて輪郭が定まらない」


 奴はまだ笑っている。

 俺は遠くのそれを見つめていて、だから趣里のことは視界に入っていなかった。声だけの趣里が言った。


「高円寺姉妹ってさあ」


 隣で女性芸人について話している。いつもの趣里だった。食卓の彼だ。料理の話や、仕事の話もしている。

 趣里を見ずに奴を見続けた。

 話は入ってこない。奴の顔を見たかった。見えない。こちらを向いていてもそれはぼやけていて、どうやっても形にならない。俺が覚えていないからだ。文脈も気にせず、俺は言っていた。


「でも忘れていくんだ。なのに忘れ去ることはできない」

「それでいいんだよ」


 都合のいい夢だ。趣里は高円寺姉妹の話をやめて、的確に返事をした。


「ずっと一緒に生きていくんだ。忘れることはあっても、なくすことはない。それだって、正しいんだよ」

「だけどつらいんだ。奴はもういないのに、いつまでも奴の笑顔が頭から離れない。もう覚えてないのに」

「それは一生つらいよ。おれも史宏くんもずっと苦しいかもね。でもそれが、一緒に生きるってことだよ」


 奴はまだ笑っているが、顔が見えない。

 それでいいんだ、と趣里が言う。それが、と。



「それが愛してるってことなんだよ」



 都合のいい夢だ。


 花畑の向こう、奴のさらに奥から光が漏れた。それはどんどん大きくなって、奴の姿は、逆光でさらに見えなくなる。


 でも。

 でも、と思う。


 こんな想いで良いのか。この程度で、あの愛に報えるのか。

 また奴の声がした。きっとこの音さえ実際とは違う。幻想だ、と思う。


 ――幸せになって。形なんてどうでもいいから、人を愛して。幸せの只中ただなかにずっといて。


 お前を愛していたと、どれだけ俺が叫んでも。

 もう、奴が新しく笑うことはないのに。

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