夜の海
車は公園の駐車場に入った。
待っていようかと気を遣ってくれた運転手さんに断りを入れ、タクシーを降りた。
浜辺のほうではなく、反対方向にある登りの階段へ歩を進める。
はじめはコンクリートのしっかりした階段だが、しばらくしたらハイキングコースのような山道になっていく。
西川香月の墓は、海浜公園の向かいにそびえる山の、中腹に立っている。
そこに霊園があるのだった。
踏み入ってから、線香もなにも持っていないことに気がつく。笑ってしまう。なにも頭が回っていない。
奴の墓は大きいから、探さなくてもすぐに分かる。目の前に立ってみるけれど、暗がりのなか、慣れた目でどうにかシルエットが分かる程度だ。周囲を見回しても、人影は一つも無い。
会いに来てくれたらいいのに。
そんな弱音ひとつ、声に出せない。
墓石に指先で触れる。
夏の夜にそれは冷たくて固くて無反応で、生き物に錯覚できる感触などひとつもしないのに、それでも俺はそこに立ち尽くした。奴の前から動きたくなかった。
「なあ」
返る音はない。
「俺はお前を忘れていくんだ。薄情だ、あんまりだとどれだけ思っても、すべてを持ったままでは生きられない。なあ、お前は、西川」
免罪符にならない言い訳を並べる。
「俺を覚えてるか」
言ってから、違う、と思う。覚えるも忘れるも、奴にはもうない。
「こんな結末を知っていたのか、俺を薄情だと思うか、お前は……」
返る音はない。分かりきっている。それでも、返る音があってほしかった。
音でいい。声じゃなくても。言葉じゃなくても。ピアノの音でいいから。
「俺を選んで、幸せだったか」
答えがほしかった。
「なあ、俺だって」
奴の請うたことを思い出す。それさえ、些細な願いだった。
――一生でいいから、傍にいて。
「俺だって、一生で良かったんだ」
音が聞こえない。
「恋じゃなかったとしても。俺が、お前を大切に思えたらそれで。お前は幸せだったのか」
最後に、遺された俺が、お前とのすべてを持っていられなくても。
忘れていくとしても。
答えはない。
俺の脳裏では、輪郭のぼやけた奴が、変わることなく笑っている。
ただひたすらに、幸福そうに。
どうしようもなくなって、俺は奴の墓石へさらに近づく。いつかのように、奴の隣に座り込む。
スマホを取り出して、ある動画を再生する。フォルダを分けて、その動画だけを入れていた。
すぐに分かるように。間違って見てしまわないように。
再生すれば、あの夜の海で、笑う奴が現れる。
ぶれる画角でなんとか姿を捉え、ゆっくりとピントが合い、海風になびく髪、ひざに載せられたたくさんの服、車椅子に座る、奴が、
笑っている。
もう思い出せない。この動画にしか残っていない。
ずっと見ないようにしていた。失くしたものが俺にとって大きすぎるのだ。
思い出せない、ことに、失望する。
短い動画が終わり、顔を上げた。
遠く、遠くに、海が見えた。
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