再訪


 帰宅すると趣里はすでに仕事を終えていて、テレビを見ていた。コンロでは蓋のされたフライパンが火にかけられている。


「カレーの匂いがする……?」

「タンドリーチキン。フライパンだけど」

「ああ、作りたいって言ってたな」


 元から俺のものではないようなキッチンなのでどうでもいいのだが、調理台下の引き出しには、いつのまにかスパイスの瓶がひしめき合っていた。

 気が付いたときに「どうした」と訊いたら、経緯ではなくスパイスについて一種類ずつ懇切丁寧に説明してくれたが、なにも覚えていない。


「あ、高円寺姉妹」


 チャンネルを回していた趣里がリモコンを置く。画面にはオレンジの衣装が映っていた。


「好きだな」

「うーん、ついつい見ちゃうよね」


 高円寺姉妹で思い出した。


「二週間後に、このマンションの別の部屋が空くって、香澄さんが言ってた。隣ではないけど同じ階だと」

「え、そうなの? どうしようかな」


 うーんと考え込む。距離感うんぬんの前に物理的に狭いので、移動してくれるなら有難いのだが。


「史宏くんは、まだいるの」


 そう聞き返されて、今度はこちらが考えることになった。


「……まだ、決めてない。でも、もうそろそろいいかもな。仕事見つけて、どっか行っても」

「仕事、この辺で探すの?」

「いや、ここからは離れるつもりだ」

「もういいの?」


 答えあぐねて、しばらく黙ってしまった。やっとのことで答える。


「……それは、お前、踏み込みすぎだ」


 少し笑いながら言ったから、突き放すような言葉にはならなかった。趣里もそれ以上は聞かず、ただ言った。


「じゃあ、いつか教えて」


 俺は曖昧に返事をした。言える日が、来るのだろうか。

 来るといい、と思う。


 スパイス料理なら辛いほうが好きだ、といつか言ったのだった。趣里のことだからそれを覚えていたのだろう。タンドリーチキンは本格的で、よくは分からないがたくさんのスパイスの味がした。


 明日も仕事がある趣里は早々に寝てしまった。一人きりのリビングで、カバンから楽譜を取り出す。

 部屋に誰も入れられなかった、香澄さんの気持ちがわかる気がした。奴を知らない趣里には、なんだか見せたくない気がして、ずっと鞄に入れたままにしている。


 表紙をめくれば、知らない曲の楽譜が印刷されている。

 さらにめくっていくと、いつも弾いていたあの曲があった。

 随分と練習したらしい。ページにはいくつもの書き込みがあり、場所によってはもう書く場所がなく、うねうねとした線が指摘の箇所を示して錯綜していた。


 奴の字は、容姿から想像されるままの美しいものだ。幼いころは書道もやっていたらしいから、そのおかげだろう。

 この一冊に、奴の面影が詰まっている。


 目を閉じる。

 ピアノの音は、もう思い出せない。


 まどろんでいると、いつものようにあの光景が見える。どんどん遠ざかって行きながら、同じ映像を繰り返す。


 奴がいる。

 遠く遠く、もう手の届かないところで。

 曖昧な輪郭で笑っている。

 顔が見えないのに分かるはずがない。俺のただの願望かもしれなかった。


 なあ。


 俺は奴に呼びかけていた。こちらを向く素振りも、返事もない。聞こえていないように見えるほど、なんの反応もなく笑いかけてくる。

 訊きたいことがあった。


 俺は忘れていく。奴を置いて歩いていく。あの夜の海で、覚悟したはずのことが現実になっていく。


 あんなに美しかった。あんなに優しかった。

 奴の愛が、確かに俺の人生を形づくった。

 それなのに。


「お前は――」


 目を覚ます。深夜二時だった。頭痛がして、こめかみを親指で押す。


 訊きたいことがあった。


 たいした意味は無い、深いものなんてなにも。だって結局は無意味だ。そういいわけをしながらボディバッグを持って、家を出た。


 夏の深夜の空気は多分に湿気を含んで重い。動くたびに、空気もねっとりと、その形を変えているようだった。


 エレベーターに入ったところで、ふと気がつく。思ったより動揺しているのか、簡単なことすら分からなくなっている。――バスなんて、こんな時間にあるわけがなかった。

 タクシーを呼びつけて、行き先を告げる。


 海浜公園。


 五年前、二月の、あの夜以来、行ったことはなかった。奴が死んでからも、まして就職したあとなんて。

 ひとりで行く気力はなかったし、誰かと行くつもりもなかった。


 走るタクシーのなかで、トークアプリを開く。

 俺が帰るまでに趣里が起きるかもしれない。文字を打って、通知が鳴らないようミュート設定にして送信する。


『西川に会いに行ってくる。朝には帰るから、心配するな』

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