彼女だって
香澄さんのマンションを尋ねたのは翌日だった。
俺はまた、奴の部屋に通され、段ボール箱を開ける。
中身は洋服だった。一番上にあった、ブルーのサマーニットを手に取る。奴のお気に入りだった。よく着ていた。それを、袋にそっと入れる。
捨てる。捨てるのだ。
もう誰も着られない服だ。他の誰のものにもしたくない本だ。一度捨ててしまえば、買い戻せるようなものではない。
惜しいとは思っても、これらすべてを、俺の小さな部屋には匿ってやれない。
香澄さん、と呼べば、手を止めてこちらを見てくれた。
「思い出せると思って帰って来たんです」
なにも言わず、続きを待ってくれる。
こういう、ささやかで膨大な優しさが、あの頃なにより俺を癒したのだった。ここは安心していい場所なのだと、いつしか理解していた。
それを積み上げて、奴は俺を作り変えた。
「もう全然思い出せなくなってることに気が付いて、それが嫌で帰って来たんです。同じ風景を見れば、なにか取り戻せると思った。でも駄目だった。あまりに多くのことを忘れているって、嫌でも自覚するばかりだった」
マンションの周りを歩いても、大学に行ってみても、桝月さんの車で走っても、それは同じだった。
ここだって変わってしまったし、記憶はもう薄くて比較のしようがない。
「仕方がないと、思うことにしました。香澄さんだって、あの
本当は持って行きたかった。できることならすべてを抱きしめたまま生きて行くべきだった。けれどそれでは、それ以上なにも持てない。
新しいものを持てない。
「いただいた楽譜。俺が持っていくのは、あれだけで、良いです」
自分の声が、わずかに震えている気がした。気のせいかもしれなかった。視界は滲まなかったから。
無意識に手に力が入ったようだ。爪が食い込んだ痛みで気が付くが、緩めることはしない。
「良くなかったって、もっと持っておけばって、そう思うかもしれない。それでも、良いことにします」
「ええ」
いいのよ、と香澄さんは笑う。肯定だった。そして受容だった。
「すべてを捨てたいわけじゃないの。私も、本当に捨てられないものは大事にしてる。誕生日にくれた手紙だとか、成人式にあげたネクタイピンとか。父と母は、もっと捨てられなくて、実を言うと実家にたくさん置いてあるのよ。ここにあったものまで運び込んでね……」
いいのよ、とまた言いながら、香澄さんは片づけを再開する。段ボールの中のものを愛おしそうに眺めては、袋にきちんと入れていく。
「後悔したら、またおいでなさい。私のを分けてあげる。そしてたくさん話しましょう、あの子のこと。同じ話を、何度したっていいから」
死んだ人間について話すとき、あの世にいるその人の頭上には、花が降り落ちるという。なるほど奴に似合いの光景だと思った。美しさが同程度で、似合いだ。
「俺が忘れてても、怒らないでくださいね」
「私が忘れてたら、教えてちょうだい」
ふたりで笑い合っていたら、部屋の前でサムが鳴いた。寝ていたから置いてきたのだが、起きたようだった。
扉を開けてやると躊躇なく入り、興味深そうに嗅ぎまわっている。
「サムは、入るの初めてね」
袋の中に顔を突っ込んで奴の服を嗅いでいる。やがてそれを枕にして、また寝始めてしまった。
「さっちゃん、ありがとうね」
座り直し、作業を再開した香澄さんが言う。
「この部屋に誰も入れられなかった。夫も一香も、サムさえね。あの子を知らないひとを入れたくなかった。でも、誰かがいてくれないと、怖くて。こうしてさっちゃんが一緒にいてくれないと、捨てられなかったの」
その日、段ボールはすべて空になった。
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