更新される記憶


 仕事が終わっただろう時間。

 スーパーに寄ってから帰ります、と連絡が来たから嫌な予感はしていた。ホテルから帰って来た趣里は大荷物に加えてパンパンの買い物袋二つを手に持っていた。よく歩けるものだ。


「あーやっぱ冷蔵庫カラ! なんで? おれと一緒にいたときはそれなりに史宏ふみひろくんも自炊してたよね?」


 まっさきに冷蔵庫の前に行って、そんなことを叫ぶ。


「適当なもん食ってるとお前が怒るからだよ……」


 冷蔵庫はすっかり、趣里のテリトリーになっていた。


「まあ、一人暮らしって栄養偏るよねえ。ホテルにキッチンないから、おれもだいぶしんどかった。自分の料理食べたくて」


 もう遅いから簡単にね、といつものように言って、趣里は料理を始めた。手伝えるかと言ったら珍しいと笑って、じゃあこの辺角切りにして、とパプリカやら玉ねぎやらをまな板に置いた。


「玉ねぎ、目痛いでしょ。気休めだけど換気扇点けるね」


 換気扇が音を立てて回る。慣れてしまえば気にならなくなる生活音も、聞き始めは騒音だ。趣里の声が遠くなった気がした。


「涼花となに話したんだ?」

「んー? 大したことじゃないよ。ふみくんは優しいねえって話」


 手を止めて睨むようにじっと見ると、悪戯がバレたように笑う。


「うそうそ。や、本当だけど」


 趣里は鍋に沸かした湯に、切って冷凍ストックにしていた青ネギときのこを入れていく。そういえば、そんなものもあった。


「おれは話を聞いただけ。賢くて優しい人だね、ちゃんと周りを見て、自分の感情も理解できてた。ただ少し、焦ったんだよ。理想の自分と実際の自分が違う人って、自分を過小評価しすぎなんだよね。本当は十分やれてて前に進んでるのに、まだだって無理に進もうとしちゃう」


 再度沸いたところで火を止めて、鍋に醤油や酢などの調味料を放り込んで蓋をした。

 計量せずボトルから目分量でぽいぽいと味付けを構築していく様は、いつ見ても見事だと思う。俺にはできない。


「だから、大丈夫だよって、言っただけだよ」

「会いに行かせたのは、失敗だったか」

「結果的に上手く行かなかっただけ。失敗とかないよ。会いに行ってどうにかなるって、涼花さんなら立ち直れるし、立ち上がらせることができるって、算段つけてついて行ったんでしょ。見失うのは想定外だっただろうけど」


 コンロは一つしかない。部屋を決めるときに香澄さんに確認されたが、どうせ湯を沸かすくらいしかしないから構わないと答えたのだった。

 趣里は鍋をちゃぶ台に移して、フライパンを置いた。


「大丈夫だよ。彼女は傷を癒せるほどに優しくされたし、今も安全なところにいる」


 傷を癒せるほど。

 その感覚には覚えがあった。


 警戒心の塊のようになった野良猫も、食事をやって撫でて、毛布で包んでやれば喉を鳴らしながら眠るのだ。


 安心を渡されれば、神経も癒される。それが本当なら、大丈夫なのかもしれない。

 なんにせよ、俺がなにかできる場面はないだろう。


「はねるかも。ちょっと向こう寄って」


 油を引いたフライパンに、ひき肉を投入する。

 今更だがキッチンは狭い。男二人が並んで作業するようにはできていない。

 これまでは、趣里の近くに入るのは気が引けたのだった。お互いによくも知らない人間だ。肩の触れるような距離に来られるのは嫌かも知れないと思っていたし、俺自身近づきすぎるのは警戒していた。

 二週間以上一緒に暮らしていれば、そんな警戒心も薄くなっていく。


 距離感、という言葉が脳裏によぎってため息をつく。


 野菜を切り終えればお役御免となった。

 フライパンで野菜とひき肉をいため、趣里がまたなにやら味付けをしている。

 完成したのは、ガパオライスとスープだった。簡単にと言いながらいつも手が込んでいる。


 ちゃぶ台を挟んで向かい合わせで座る。

 こうして食事を摂るのは、停電の夜以来だった。あのざらついた雰囲気が嫌でも思い出される。それは趣里も同じなのかもしれなかった。

 テレビのチャンネルを回しながら、趣里が言った。


「おれ一回、地元帰ろうかな」


 毎週やっているバラエティ番組にしたようだ。俺は番組に興味がないので、どれでもいい。


「いつ?」

「今すぐじゃないよ。ちょっと仕事の休みを取って、まあ、来月とかかな」


 俺もいたあの辺か、と聞けば違うと答えた。今の仕事に就いたときに転居したらしい。


「おれ、涼花さんに言ったんだよ」

「なんて言ったんだ」

「ちょっと、そんな怖い顔しないで」


 どうやら、悪いことを言ったわけではないようだ。


「弱いやつは、逃げ続けて向き合おうとすらできないって。言ってから気が付いた。おれ、葬式も行けてなくて、ご家族は体調が戻ったらいつでも来てって言ってくれたけど、ずっと行ってない。だからせめて、お線香を、あげに行こうかなって」

「行けそうなのか」

「うん。たぶん大丈夫だよ」


 忘れてたんだ、と趣里は言う。


「逃げてたことさえ忘れてた……」


 テレビから、笑い声が湧く。なにに笑ったのか、見ていないから分からない。

 俺は趣里を見ていた。趣里はテレビのほうを向いているが、笑わなかった。


「忘れることで自分を救ったんだろうね。生き物はそう造られてる。捨てたほうがいいものは捨てる。捨てるべきじゃなくても。忘れるほうが健全なんだ。けど、忘れられないことだってある」


 多分ね、と趣里は言った。


「おれも史宏くんもずっと苦しいかもね。でも、それが一緒に生きるってことなのかも」

「そうだな」


 俺は言った。同意をしたわけではなかった。けれど同意を返した。曖昧な相槌でしかなかった。

 趣里の言葉を、脳内で必死に噛み砕く。


 忘れていく、どうしようもなく、失くしていく。

 それが悪いかどうかなんて、考えることさえ無駄だと思えるほど、強制的に。

 忘れたことさえ忘れるほど、遠く。


 俺はまだそれを、救いだ、とは思えなかった。


 夜の海で触れた、奴のゆびの感触は、もうこの手にない。冷たかった気がする。薄く白かった気がする。記憶は実感ではなく印象で喋る。本物は、もうそこにはない。

 あの手は灰になって、俺は忘れて。


 ――さっちゃんは、忘れるんだろうなあ。


 責める言葉ばかりが、空から降り落ちる。

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