言葉が要らない感情
「なに話してたんだ」
新矢を家に送って、再発進した途端に兄にそう聞かれる。助手席に座り直してシートベルトを締めながら。
「……別に」
「いいけど。嫌なこと言われたら、言えよ」
「新矢はそんなこと言わないし。ていうか、お兄ちゃんこそ新矢に嫌なこと言わないでよ。今回のことは、全部私が頼んだんだから」
「……まずそれを承諾したことがさあ」
「もううるさい。小言は全部私のことにして」
でも、と思う。兄に心配をかけたのは、事実だ。
いくらなんでも、悪いのは私だった。
バツが悪くて、目の前のダッシュボードを見つめたまま、言った。小さな声しか出なかった。
「……ごめんなさい」
エンジン音の中から、兄は十二分に聞き取った。
「さすがに怒ってる。もうしないでほしいし、危ないって分かってることをするなら言ってほしい」
「はい」
「でも坂田を頼ったのは偉かった」
「うん」
「理解してるなら、この話は終わり」
「うん」
アパートに向かう車内は、外と同じくすっかり暗い。カーナビの明かりだけが光っている。しばらく沈黙が続いて、話し出したのは兄だった。
「帰って来て、良かったのか」
「うん?」
「実家。もっといても良かった。それから、今後のことを考えたって」
「今後は、ないよ」
「良いのか」
「うん……。お兄ちゃんさ、よく言ってたよね、お母さんのこと、好きか、って」
うん、という兄の小さな声は、加速したエンジン音に掻き消される。
「好きだよ。好きだけど」
そこまで言って、私は口を噤む。
なんの気負いもなしに言おうとしていたけれど、直前で恥ずかしくなってしまった。兄は不思議そうに、こちらをちらりと見る。誤魔化しは効かなそうだ。仕方がないので言う。
「お兄ちゃんと一緒のほうが、いいから」
兄は何も言わない。私はさっきから、ダッシュボードしか見ていない。赤信号で止まる。
沈黙のままの隣を見れば、兄は目元を拭っていた。
「運転中にやめてくれ……」
「ごめん」
兄は大きく息を吐いて、信号が青になった交差点を進む。そこから二分ほどで、車はアパートの駐車場に入った。
「お待たせ、着いた」
エンジンを止めれば、カーナビもなにもかもが光を落とした。鍵を抜く隣の兄を見つめる。
完全な暗闇だ。
兄がくれる安心だ。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのが当たり前だった。いつだって私を守ってくれるのが兄だった。
いつだって。
生まれたときから、私を連れ出したときも、いまも、きっと、死ぬまで。
兄は、私の兄でいてくれるのだろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
戯れというほど軽くはなく、最終回答が欲しいと思うほど重くはない気持ちで、私は尋ねていた。
「私のこと、愛してる?」
すぐに答えが返ってくると思ったが、兄は外したシートベルトを持ったまま、こちらを見て硬直し、沈黙した。
暗い視界で待っていれば、あい、と聞こえて、また沈黙。
やがて聞こえたのは小さな嗚咽だった。兄が泣いている。嗚咽の隙間に差し込むように、ゆっくりとした声が聴こえる。
「愛して……」
言い終える前に、兄に抱きつく。
そうすれば、まるで反射のように、まるで生まれついてそんな機能を持っているかのように、兄は抱き締め返してくれた。
私は、大好きな兄に謝った。
「ごめんね、知ってたよ」
兄は、いつだって優しかった。
かつて、兄の決断を理不尽だとなじったときも、ここに来てからの嫌なことのすべてを兄のせいにしたときも、体調が悪いときも、夏祭りについてきたときも、いまも、兄は、いつだって優しかった。
受け取れているつもりでいた。けれど、ただ受け取るのと、抱き締めるのは別物だった。
兄の優しさを抱きしめる。
これまで貰ったすべてと一緒に。
「愛してるって。言われなくても、知ってるよ」
言葉で告げたっていいのだろう。けれど、言わなくたって分かる。言われなくたって知っている。
言葉で確認するまでもなく、紡いだ日々が、いつまでも答えとして、この腕の中にある。
私が兄に渡していて、兄が私に渡しているもの。
ずっと循環していた。疑いようがない。
この感情が、愛なんだ。
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