向き合う方向


 私は、逃げた。


 逃げてはいけないのに。

 会わないといけないのに。

 こんなんじゃ、いつまでたっても弱いままなのに。

 頭の隅でぐるぐるとそればかり考えながら、走った。


 土地勘もなく一心不乱に走っていると、大きな公園の入り口にたどり着いた。

 逃げ隠れるように中にはいり、ベンチに座って縮こまり、息を整える。走ったからではない、過呼吸のような呼吸がめられない。

 うつむいた顔から垂れた液体が膝を濡らして、そのとき初めて、自分が泣いていることに気がついた。


 自覚してしまえば、諦めるしかない。


 人目も気にしていられず、泣いた。声だけは我慢したけれど、かみ殺し切れない嗚咽は漏れていたと思う。

 道行く人はきっと私を見ているだろう。でもそんなこと、気にしていられなかった。

 この恐怖を涙として外に出さないと、壊れてしまうような気がした。

 しばらくそうしていて、やっと息が整ってきた頃、声が降ってきた。


豊田とよた涼花すずかさん?」


 知らない声に、知っている名前を呼ばれた。

 少しだけ顔をあげれば、そこにはふみくんと一緒に住んでいた人がいた。


「おれのこと、わかる? 坂田さかた史宏ふみひろの友達。君のお兄さんとも、最近友達になった」


 うなずく。

 彼はポケットからティッシュを取り出して、袋のまま私にくれた。確か鞄にあった気がするけれど、断るのは多分、違う気がした。

 受け取ったら、安心したように笑ってくれた。


「良かった。神谷かみや趣里しゅりって言います。よろしくね」


 そう。ふみくんは確か趣里って呼んでいた。

 趣里さんは私の状態に驚いたふうもなく、穏やかに微笑んでいる。その冷静さに、少しだけ安心を覚える。


 正しい反応が分からずに固まっていたら、趣里さんはベンチの端に腰掛け、上半身ごとこちらを向いた。

 そして私とのあいだ、少し趣里さんよりに、水のペットボトルを置いた。


「ここから、おれは涼花さんに近づかない。信じてくれる?」


 うなずく。

 ふみくんが家に置いていたのだから、悪い人ではないはずだ。喧嘩したとは言っていたけど。


「うん。ありがとう。さて、なにか困っている?」


 固まる。


「……ここに座っていてもいい?」


 うなずく。


「ありがとう」


 言って、ふわりと笑う。優しい笑い方だった。なんとなく、ふみくんの笑い方に似ている気がした。

 よく笑うようになった、ふみくんと。


 私が落ち着くタイミングを見計らってくれたのだと思う。嗚咽が漏れなくなったころ、趣里さんが話しかけてきた。


「とったホテルがこの辺でね。リモートだから部屋で仕事してて。いまは昼休みの散歩」

「おうち、帰ってないんですか」


 私は慎重に息を吸って、なんでもないように繕って、どうにか声を出した。誤魔化せないほどに声は震えすぎていたけれど、それも押し殺して話す。

 そうしていないと、せっかく落ち着いてきたのに、こんな往来で、また泣き喚いてしまいそうだった。


 趣里さんは震えに気がつかない振りをして、雑談に応えてくれた。


「史宏くんの? うんまあそうだねえ、元々おれが押しかけてただけでさ、そんな仲良いわけでもないんだ」

「一緒に住んでたのに?」

「うん。おかしな話だよね」

「ふみくんは、仲良くない人と暮らさないと思います」

「うん。でもあの人は優しいから。なんでも許してくれるでしょ」

「……そうかも」

「ね。だから、彼のお目こぼしをもらってただけなんだ」


 なんでも、許してくれた。

 深夜にお兄ちゃんと押しかけたことも。

 朝に部屋を訪ねたことも。

 今日の無茶な頼みも。

 これまでのこと、全部。


「変な人なんだよ、彼は」


 なんでも、許してくれる。私が仏頂面を怖がったことはあっても、彼が怒ったことは一度もなかった。

 でも、今回のことも許してくれるだろうか。

 父に、会いに行きたいと言ったのは私なのに、見ただけで逃げ出してしまった、弱い私のことを。


「……探してるかも、私を」

「史宏くんが?」

「父に、会いに来たんですけど、姿を見ただけで私が逃げ出しちゃって。呼ばれたのも聞かずに走ってきちゃったから、多分いま、探してくれてる……」

「連絡しようか?」

「う……」

「まだしたくない?」


 うなずく。

 鏡で確認するまでもなく、きっと顔はぐちゃぐちゃだろう。せめて頬の熱が引くまでは。こんなところ見せたくなかった。ふみくんにも、新矢にも。


「落ち着くまでやめとこうか。いいでしょ、少しくらい待たせとこう。――あ。ちょっと待って。カフェラテ飲める?」


 うなずく。

 趣里さんが見つけたのは、キッチンカーで販売しているコーヒー屋さんだった。

 冷たいカフェラテをふたつ持って帰ってきた。ひとつを私にくれて、まだ同じ場所に座る。ペットボトルの境界線は動かさずに。


 氷の入ったプラコップに口をつければ、身体が冷やされていく。

 無口になると、また涙が出てきそうだった。嗚咽を殺して、まだ震える声を出す。


「喧嘩したって、聞きました」

「うん。聞いたんだ?」

「少しだけ」

「全面的におれが悪い、って感じのことだよ」

「ふみくんは、自分が悪いって言ってました、よ」

「そうなの? そうなんだ。ばかだなあ、また自分のせいにして」


 言いながら、趣里さんは声を漏らして笑う。

 お兄ちゃんとは違うタイプの、ふみくんの友達。


「本当にね、おれが悪いから。史宏くんの言うことは信じないで」


 ふふ、と笑ったその衝撃で、瞳に溜まっていた涙がぽろぽろと落ちる。

 慌てて貰ったティッシュで拭うけれど、また決壊したみたいに、あとからあとから、まだ流れ落ちて来る。

 もう泣きたくないのに、自分の意思では止められない。


「泣きな。無理に止めないほうがいい」


 趣里さんの声は優しかった。もう嗚咽は治まっていて、心のなかの恐怖も和らいだのに、涙は落ち続ける。


「お父さんに、会いたかった?」


 ぶんぶんと、首を横に振る。


「会いたく、なかったです。怖くて。でも会わなきゃいけないって」

「なんで、会わなきゃ?」

「私、男の人が恐くて」

「うん」

「克服したくて」

「うん」

「原因がきっと父だから、父と会って大丈夫になれば、克服できるって、弱い自分から変われるって、思ったんです」

「会わなくていいよ」


 穏やかな声だった。

 涙で視界が悪くて、顔は、よく見えない。だけど笑っているのだろうと思った。きっと優しい顔で微笑んでくれている。心からそう信じられる、声音だった。


「会いたくないなら会わなくていい。もう離れて暮らしてるんでしょ? まして、姿を見ただけで恐ろしいんでしょう。会わなくていいよ」


 それから、と趣里さんは言う。


「涼花さんは弱くないよ。弱いやつは逃げ続けて、向き合おうとすらできない」


 なにかを考えるように上を向いて、趣里さんはカフェラテを飲み干した。


「いまから言うことはさ、聞き流していいよ。おれは涼花さんの事情をよく知らないし、頓珍漢なことを言うかも。そういうときはさ、なんか言ってんなくらいで忘れてよ」


 こちらを見つめる。私は緊張して身じろぎしてしまった。けれど趣里さんの表情が優しいから、怖くはない。

 涙が視界を塞いでも、怖くはない。


 変な男ではあるな、となんだか褒めるみたいに言った、ふみくんを思い出した。


「涼花さんは、強いよ。自分に立ち向かうって決めたときから強かった。涼花さんはもうあらゆることを知ってる。お兄さんは優しい、史宏くんは優しい、新矢くんも優しい。涼花さんの承諾しないことは絶対にしない人たちがいる。もう周りはそんな人たちに囲まれていて、みんながお父さんみたいに怖くないって、怖がる必要はないって、涼花さんはもう理解してる」


 理解している。いま私の近くにいるひとは、私を怒鳴ったりしない。殴ることもない。

 そう理解していることを、理解している。

 それでも心はどうにもならない。怖いのは、私が。


「それでも恐くて、自分は弱いんだって思ってしまうとき、自分で上書きするんだよ。私は強い、私は強い、私は強い、って。大丈夫。涼花さんはもう、それができる場所にいる。失敗したって立て直せる、安心できる場所に」


 あ、ほら、と趣里さんが前方を指す。

 公園前の歩道にいるのは、新矢だった。こちらに気が付いて、入ってくる。


 わかるでしょう? と、趣里さんが言った。

 呪文みたいに、隣で呟いてくれる。


「大丈夫。涼花さんは」


 新矢がこちらに走ってくる。


「大丈夫。君は、ずっと前から、強いよ」


 はらりと涙が落ちて、目の前が晴れる。

 新しい視界で、気が付いたのだ。

 新矢の姿を見て、心の奥からせり上がってくるのは安心感だった。好きだ、の前に、安心がある。趣里さんの言葉が頭に焼き付いている。


 大丈夫。


 私は、もうすでに、強い。彼の近くに歩いて行ける。

 私は立ち上がり、新矢に走り寄って、その身体に抱き着いた。


 途端、怖気が走るのはもう仕方ない。涙もまた出てくる。流れて、新矢の服を汚してしまうかも。でも彼は私を剥がさない。

 抱き着かれたまま固まったように立ち尽くして、しばらくしたら、優しく、本当に柔らかい手つきで、私の背中に手を回した。


 いつでも逃げられるような、それでも温度は感じられる、力加減だった。

 泣きたくなる。彼はいつでも、こうやって私に優しくしてくれる。


 しばらくして私が手を緩めると、新矢はすぐに手を離した。

 向き合う。散々に泣いてしまったから、顔はぐちゃぐちゃだろう。みっともないから見られたくはなかったけれど、もうそんなことも気にならない。

 立ち尽くし、困惑しているような新矢が、おずおずと聞いて来る。


「大丈夫か?」


 うん、と返す。その質問に、嘘を付かないでいられるのは初めてだった。


「うん。もう、大丈夫」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る