第6章 豊田涼花③
完全な暗闇
兄に連れ出された日のことは、あまりよく覚えていない。
夜、眠っていたときに静かに担ぎ出されたようだった。抱き上げられるときの衝撃で薄く目を開いたけれど、目の前にいるのが兄だったので安心してまた目を閉じた。
静かな夜だった、と思う。
父の怒号も、母の悲鳴も聞こえない、静かで、暗い暗い、夜だった。
次に目が覚めたのは朝だ。
知らない天井を見て、不思議に思いながら隣を見ると兄が寝ていた。
半身を起こして見回すとまったく知らない部屋で、あの慣れた木造の家ではなく、白い壁紙の狭いアパートで、必要最低限の家電すらない、がらんとした部屋だった。
まるでドラマで見た、監禁部屋のようだった。
私は、火が付いたみたいに泣き喚いた。すぐに兄が起きて、私を抱き締める。
多分、突如放り出された見慣れない風景に、耐えられなかったのだろう。
連れ出された夜とは打って変わって、そのときのことは思い出せる。
兄は、私を強く抱き締め、ただ「ごめん」と言った。
私はそのまま泣いて、泣き続けて疲れて眠って、起きてまた泣いた。
ここに連れて来られた理由を、その時は分かっていなかったけれど。
私はとにかく、お母さんがいないことがどうしたって不安だった。
だけどお父さんがいないことに、どこか安心していた。
私が何を言っても、何を聞いても、ただ謝った。そして「きょうからここで暮らすんだ」と言った。
相談ではなく、確認でもなく、ただ結論を告げられたのだと、幼い私にもよく分かった。
そうして私と両親を切り離した兄は、けれど母が嫌いなわけでは、なかったような気がする。
一度だけ、母に電話をしたことがある。
使い方の分からない兄のスマホで、おぼろげになりそうな電話番号をどうにか拾い上げて、父のいないだろう時間帯に、電話をかけた。
電話口の母は私の声を聞いた途端に泣き出したようだった。私の安否を一通り確認して、兄の体調を一言で心配して、あとはただ、繰り返し言った。
「お兄ちゃんの言うことをきいて、仲良く暮らしなさい」
今どこにいるの。
戻って来なさい。
そんなことは一度も言わなかった。
言わずに、ひとしきり私の声を聞いて、電話を切った。
捨てられたと思った。
ショックで泣いて、泣き声を聴いて兄が来たが、わけを話すことはしなかった。兄がいないときに、兄のスマホからかけたものだから今思えば絶対にばれていたと思うが、兄はなにも言わず、咎めもしなかった。
かつての家ではいつも電気がついていた。父が母を叱っているのだった。
子供は早く寝なさいと言いながら日付が変わって夜明けになろうという時間になっても、居間の電気はこうこうと灯り、怒号と嗚咽が聞こえ、眠れないのだった。
父は些細なことで怒り、母はただ耐えていた。その声と物音を聞きながら、部屋に漏れ入る明かりが消えるのをただ待っていた。
明かりが消えれば終わりの合図。
静寂と暗闇が訪れて、私はやっと安心して眠れる。
ここに来てから、夜の暗闇は、当たり前みたいに差し出されるようになった。
ふたりで晩御飯を食べて、お風呂に入って歯を磨いて、並べたお布団に入る。
「おやすみ」
兄は、そう言って電気を消した。それだけが合図だった。
一瞬のうちに明かりが消え、視界が暗闇で覆いつくされる。
兄が隣の布団に潜りこむ音以外、なにも聞こえない。私はその時を迎えるとき、度々、安心して泣いた。
小さく嗚咽を漏らす私を、兄はゆっくりと抱き締めた。
どうした、と聞かれても、うまく言葉にできなくて、ただ首を横に振った。悲しいのではないのだと伝えたかった。それ以上はなにも聞かれなかった。
暗闇に安心した。兄の体温と、腕の中の狭さに安心した。吐く息に紛れて、心まで出てきてしまいそうなほどの安心だった。
溶けるみたいに深く眠った。
兄は私に、完全な暗闇をくれたのだ。
私はお母さんがいないことがどうしたって不安だった。
だけどお父さんがいないことになにより安心した。
そうして兄がいてくれることに、最上の幸福を覚えた。
高校生になったいまなら、兄がどうして私をあの家から連れ出したのか、どうして私にどれだけ責められても事情を話さなかったのか、兄がどれほど強く、優しい十八歳だったか、よく分かる。
その強さが、私にもあるはすだった。
守られるだけではなく、きっと誰かを守れるような強さが。
せめて、自分を変えられるような、強さが。
そう思いたかった。
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