ピクルス
涼花を手招いてリビングに通す。
テーブルの上は昨日の惨状が広がったままだ。食器類をひとまずシンクに移動させる。
「コーヒー飲めるっけ」
「うん」
「甘くする?」
「うん!」
キッチンで用意をしていると、涼花が遠慮がちに聞いてきた。
「一緒に住んでた、んだね……?」
「居候してたんだよ、あいつが押しかけて来て。豊田から聞かなかったか? あいつとも会ってるぞ。結構気が合ってそうだった」
聞いてない、と涼花は不満げに言った。
豊田のことだから、どんな人間であろうと涼花に男の話はしないだろう。
「喧嘩したって」
「そう」
喧嘩。あれをそう呼んでいいのだろうか。
「俺が悪いんだ」
「喧嘩で、どっちかだけが悪いってことはないと思うよ」
「じゃあ、喧嘩じゃない」
挽いた豆をドリップする。もう少し時間がかかる。
「不思議な雰囲気の人だね。お祭りのときも少し話したけど、あんまり怖くない」
「確かに、変な男ではあるな。元々カウンセラーだったらしいから、なんか人を警戒させない方法とか知ってるのかもな」
コーヒーを入れたマグカップを、涼花の前に出す。
一人で暮らしていたときにはカップもひとつだった。趣里が来てからひとつ増やした。染み込んでいる、と思う。すでに。
今なら、取り返しがつくのだろうか。
それならいいじゃないかと思ったりする。俺が悪いままで。趣里を傷つけたままでも。
「で、話って」
うん、と涼花は言って、マグカップを両手で握り締めた。
「なにかあったか」
涼花は、兄にはなんでも話す。
良い顔をしないから恋愛の話まではしないだろうが、他の話はすべてしているはずだ。豊田から、涼花になにかあったとは聞いていない。
彼女の口から放たれた決意は、俺には予想ができなかった。
「お兄ちゃんには、内緒にしてほしいの」
「……内容による」
むう、と涼花が不満そうな顔をする。
そんな顔をしたって駄目だ。
「お父さんに会うから、一緒にいてほしい」
「お父さんって、入院中の?」
思わず聞き返すが、涼花の表情から、誰のことを言っているかは明確だった。
「うん、そう。私のお父さん」
瞳はまっすぐ俺を見ていて、けれど強がっているのがよく分かった。
唇をぎゅっと結んで、手に力が入って、肩があがっている。緊張しているのか、恐怖か。
「豊田には?」
「お兄ちゃんには言ってない。絶対止めるでしょ」
俺も止めたいところだが。
誰に似たのか涼花は大人しいが、たまにこうして頑とした態度に出ることがある。ここで俺が断ったところで、豊田には言わず一人で行くのだろう。
なら、受け入れたほうがいい。
ひとつため息をつく。豊田が以前言った言葉が、脳裏に浮かぶ。
保護者。
それは難しい言葉だと思う。
なにをもって保護と呼ぶのか。止めることも止めないことも、保護とは言えない気がした。
俺はしぶしぶ了承し。
用件をすませた涼花はすぐに帰って行った。電話で良かったろうに、わざわざ来たのは高揚しているからだろう。あまり良い傾向ではない。
(……こっそり豊田に知らせておくか?)
だが、それを知った豊田が大人しくしているとは思えない。
あの兄妹は似たもの同士だ。この状況では必ず衝突する。
そんなことを考えながら、昨日の食器を洗い終えた。時計を見れば丁度昼時だ。いつもなら趣里の料理を二人で食べている時間だが、当然ながら趣里はいない。
冷蔵庫を開けてみると、作り置きのピクルスがあった。スティック状に切ったキュウリとニンジンが液体に浸かっている。趣里が仕込んだものだ。
取り出して、冷蔵庫の扉もそのままで蓋を開けて、一本をかじる。
連絡をしようかと、スマホを取り出す。
画面を見つめて――ポケットに仕舞った。
俺に言える言葉は、ないように思えた。
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