幻影


 チャイムの音で目が覚めた。


 倒れ込んだまま、いつのまにか眠っていたらしい。

 俺の上にまたがるちゃぶ台に脚をぶつけながら、どうにか半身を起こす。近くに転がっていたスマホで確かめれば、時刻は十時だった。


「……朝」


 趣里の姿はない。いつもなら朝食をつくりにとっくに起きているはずだが、休日なのでいつ起床するか分からない。


 初めの一回以来、チャイムは鳴っていない。まさかいたずらか?

 怪訝に思いながら起き上がろうとすれば、すっかり着替えてしゃんとした趣里が寝室から出てくる。


「いまチャイム鳴った? よね?」


 いつもの調子で尋ねる趣里に、うなずくだけで答えた。玄関口に出ようとする趣里の背中を追い、ふたりで玄関扉の前に立つ。

 ドアスコープを覗き込んで振り返った趣里が首を横に振る。誰もいないらしい。

 趣里が、開錠すると同時に勢いよく扉を開く。そこには誰もいなかった。

 しかし、声だけはした。


「わあっ!」


 開いた玄関を覗き込む顔は涼花だった。

 すぐ横の壁にもたれかかっていたようだ。驚きの表情は趣里を見て怯えたそれに変わり硬直する。

 趣里も趣里で、戸惑っているようだ。


 趣里を押しやって外廊下に出た。とりあえず、扉を閉める。恐縮した様子の涼花が慌てている。


「ご、ごめんふみくん、一人暮らしだと思って……」

「ああいや、いいんだ居候だから。どうした、なにかあったか?」

「……相談があって。すぐに話したかったんだけど、昨日は台風だったでしょ。止んだからじっとしていられなくて来ちゃった。連絡はしたんだけど、寝てた? お休みの日にごめんなさい」

「別にいい。俺は毎日休みだからな」


 ちょっと待ってろと涼花に言い置いて、部屋にもどる。

 趣里がいるところでは涼花が寛げないだろう、駅前の喫茶店にでも行くべきだ。顔くらいは洗って着替えなければならない。思案していたら、寝室から趣里がでてきた。

 来た時と同じ、大荷物を持って。


「あ、ごめん、おれ出ていくから、涼花ちゃん入れちゃって大丈夫よ」


 言いながら、居間の端に置いていたパソコンを回収している。


「出ていくからって、どうすんだ」

「適当にホテルでも取るよ。おれがいるの、彼女は怖がるでしょ」

「駅前まで出てどっかに入る。出ていかなくていいだろ」


 昨日まで、出ていけと言っていた。俺は趣里との距離感を改める必要がある。けれど、このタイミングはないだろう。

 こんな別れ方はないだろう。


「おれたぶんさ」


 趣里は話し合うつもりなどないようだ。

 一方的に喋りながら、パソコンをカバンに詰め込んでいく。


「本当に史宏くんに死んでほしくなかったんじゃないと思う。死なせないようにすることで、ずっと情けない自分を救ってただけなのかも」


 こちらを見もせずに。


「自分のため、だけだったね」


 じゃあね、と言って、趣里は玄関へ向かった。

 追い縋るように後ろを歩くが、振り向きもしないので少しだけ腹が立つ。一方的すぎる。


「趣里」


 趣里は、俺が涼花の前では喧嘩などできないことを分かっているのだろう。やはりこちらを見ず、返事もしないで進んで行く。肩を掴もうとして、しかし間に合わなかった。


 玄関扉が開かれる。廊下にいた涼花が少し身構えた。

 話しかける趣里は、いつものように優しく笑っているのだろう。


「ごめんね涼花さん、おれ出ていくから、遠慮しないで上がってね。おれん家じゃないけど」

「えっ、私そんな……」

「いい、涼花」


 涼花は俺を見て困ったような顔をした。

 趣里は俺にはなにも言わず、外廊下を歩いていく。エレベーターホールへと曲がって、その姿は消えてしまった。


「ごめんなさいふみくん。私が来たからだよね……?」

「違う。俺とあいつが、喧嘩したんだ」


 そう。喧嘩をした。


 奴は。いつも許容を返したから、喧嘩になったことがない。

 趣里に渡されたものは許容ではなかった。諦観のような感触がした。

 趣里は諦めたのだ、なにかを。あるいは俺を。

 甘えていた。俺も同じだ。


 趣里に、奴の幻影を見ていた。

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