取り返しがつかない


 雨は降り止まないまま勢いを増し、夜には窓を強く叩くほどになった。台風は着実に近づいていて、ピークはきょうの夜半らしい。

 なんだか、台風はいつも、夜の寝ているあいだに過ぎていくような気がする。


 趣里が買ってきた懐中電灯を手の届くところに置いてから食卓を囲んだ。


 献立は中華だ。酢豚と中華スープ、春雨サラダ。

 パイナップルのことをどう思っているかと尋ねてきたのは今朝のことで、とくに印象は持っていないと答えたら、どうやら入っていない。おそらく、好ましく思っていると答えたら入ったのだろう。


 自分の信条は二の次で、できる範囲で相手に合わせる。

 なにに関しても趣里はそういう男だったが、こと料理になるとその傾向が大きいように思える。


 帰宅してからの趣里は、いつもと比べて話さない。一見して普通に見えるが、なんとなく上の空だ。

 言い過ぎた、と今更思う。患者のことなんて、それこそ俺が口を出す筋合いはない。


「川を、見てたのは」


 テレビを見ている趣里に話しかけると、ぎこちない表情でこちらを向いた。


「懐かしいなって思ったんだよ。昔、台風のなか歩いたことがあって、そのときも似たような川の様子だった。雨も同じように降ってて、懐かしいって、同じようなことがしたくなった。馬鹿みたいだよな、ガキの遊びだ」


 言い訳のような声音にならないように、雑談のつもりで話したのだが、相手の表情は思惑の失敗を示していた。

 あまり見たことのない真顔で、落ち着いた声で、返した。


「史宏くんはさ、なんでここに帰って来たの」


 ため息を吐く。

 こいつの目にはなにが映っているのか、俺には見当もつかなかった。


「……お前に話すようなことじゃない」


 距離感、という言葉が頭に降る。

 言っても良かった。夏祭りで喋ってしまったことの付属品のようなものだった。

 けれど話さないことがきっと正解なのだろう。正しい距離感とは、きっとこういうことだろう。


 距離を取る。

 俺はこれ以上、こいつを近くに寄せてはいけない気がする。


「――」


 趣里がなにかを紡ごうとしたその瞬間、帳が降りたように目のまえが真っ暗になる。じんわりと瞳孔が開く感覚があって、けれどまだなにも見えない。


「停電かな」


 趣里が立ち上がる。


「一応、ブレーカー見てくる。停電でも落としとかなきゃ」


 スマホのライト機能で行こうとするので、手探りで懐中電灯を探して手渡す。

廊下を踏んでいく音だけがする。

 しばらくして帰って来た趣里の口調には軽さが戻っていた。


「落ちてなかった。停電だねえ。明日休みでよかったな」


 懐中電灯を受け取って、上に水のペットボトルを置く。これで簡易なランタンになり、食卓一面くらいは見えるようになる。


 時刻はまだ、二十時にもなっていない。

 窓から入る日光もなく、見えるのは食卓だけ。テレビも消えてしまった。周囲には音がなく、近くの道路を走る車の音が時折聞こえるくらいだ。


 なにも話さず食事を続けた。停電の前、趣里はなにを言おうとしたのだろう。俺から尋ねるのも違う気がして、黙ったまま。


 同じく無言だった趣里が口を開いたのは、二人とも食事を終えたときだった。


 趣里がおもむろに、懐中電灯のスイッチを切った。自分の手先も見えないほどの暗闇に再び沈む。

 どうしたと問おうとした瞬間に、向かいから声がした。


「史宏くんが言った通りかも。君はおれの患者じゃないね」


 暗くて、趣里の表情は見えない。見せたくなくて切ったのだろうから、無理に電灯をつけることはしない。

 傘で隠したあのときと同じ表情をしているのかもしれない。


「……ごめんね。史宏くんが川に飛び込みそうに見えて驚いたんだよ。君の言う通り、患者みたいに思ってたのかも。史宏くんに、幻影を、見てた」

「俺はそんなに病的に見えるか」

「病的? まあ、普通と違う感じはあるよね。健康なひとは、公園のベンチでひとり泣いたりしないでしょ」


 そう言われると反論ができない。


「でも、病的ってほどではないかな。大丈夫だよ史宏くんは。きっと大丈夫。ただ、おれが……」


 おれが、と言ったきり、趣里はまた黙り込む。

 相変わらず顔が見えない。考え込んでいるのかもしれない。促さずに待っていたら、趣里が言った。


「おれが、忘れられないだけで」


 忘れられない。


 亡くなったという患者のことだろう。

 あまりに不謹慎だと分かっている。それでも、「忘れられない」という響きは甘美だった。


 俺も趣里も同じはずだ。


 記憶との距離を測ったなら、時間に応じて同じだけ遠く、同じだけ近いはずだ。それなのに、縋る指の向く先はこんなにも違う。

 趣里は、いつまで経っても思い出してしまう自分に嫌気がさしているのだろう。

 俺は、どこまでもあの感触と一緒にいられないことに耐えられない。

 忘れたいのに忘れられない。

 忘れていくのに忘れたくない。

 鏡の両面から、互いを見ている。


 趣里が立ち上がる気配があった。暗闇のなか、頭上から、声が降る。


「おれ、もう寝るね。早いけど停電だし」

「……ああ、皿は置いといてくれ。明るくなってから片づける」

「うん、ありがと」


 引き留めることはしなかった。

 歩く音、扉を開ける音、閉める音、敷きっぱなしの布団に沈み込む気配。それらの反響さえ終わり、静寂を確かめきってから、懐中電灯をつけた。

 明るくなった対面に、趣里はいない。

 そのまま背後へ倒れこむ。


 ――俺はお前の患者じゃねえっつの。


 軽口のつもりだった。少し苛ついていて、それから釘を刺したくて。自分にとっては単なる事実であるそれも、この状況のもとでは言い訳にしかならない。

 軽い気持ちで俺が、言っていいことではなかった。

 俺はあいつの話を聞いて、知っていたのに。


 明日、謝ろう。

 そう思っていたのに、できなかった。

 涼花すずかが来たのは、翌日のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る