雨粒の向こうに
俺がマンションを辞するとき、香澄さんは思い出したように言った。
「そういえば、これも聞きたかったのよ」
「なんですか?」
「趣里くんには、香月のことどれくらい話してるの?」
単語の繋がりがいまひとつ掴めなかった。
趣里には奴のことをほとんど話していない。大学時代の話は散々したが、奴のことに焦点をあてて喋った記憶はないし、『西川香月』の名前すら、趣里が知っているかどうか。
「趣里くんに香月のことを聞かれたのよ。その時は話さなかったんだけど、さっちゃんが彼に話しているところまでは、話題にしていいのかしらって」
「趣里が?」
しばし思考する。そんなことまで探りをいれる必要があるか。
しかも俺ではなく、わざわざ香澄さんに。
「……俺から言っておきます。別に、香澄さんが話していいと思ったことは言っていいでしょ、弟のことなんだから」
香澄さんに手を振って、玄関扉を閉める。
外廊下でさえ五年前と変わりがない。
あの五年のことを、誰にだって話してもいいと思うし、誰にも話したくないとも思う。秘密にしていたいわけじゃない。ただそれは、共有ができるなら、だ。
見世物として晒すつもりはなかった。面白半分で探られていいものじゃない。
マンションを出ると、強い風が吹いていた。
台風が来ているというのは本当らしい。すでに雨が降っていて、どんよりと暗い空から、大きな雫が風に飛ばされてくる。
『いまから帰る。何か買ったか?』
趣里にメッセージを送る。返信はすぐに来た。あいつは仕事中でもスマートウォッチをつけていて、腕に通知が来るのですぐに気づくらしい。
『非常食セット、カップ麺、カセットコンロ。まあ停電しても数日は生きられるよ』
だいぶん買い込んでいる。なら、俺はおとなしく直帰するとしよう。
「うわ」
香澄さんから俺の家に行くまでの間には、車三台分ほどの短い橋がかかっている。その橋の歩道を行きながら、眼下の川を覗くと、すでに増水して随分な勢いだった。
土色の水が、いつもでは考えられない水位にまで迫ってきている。
うねる川を見詰める。何かを思い出しそうだった。
大事なことではない。どうでもいいような、取るに足らない場面だったと思う。
ここは奴と暮らしていたマンションの近くで、商店街へ行く道だ。最寄り駅はマンションをはさんだ反対方向だったから、通るときは大抵、商店街に用があるのだった。
……ああ、散歩を、したんだった。
くだらない子どもの遊びだ。親元にいるときは、台風が来そうなときに外に出ようものなら叱られたのだと、奴が言ったのだ。
俺はというと、そういう心配をしてくれるのは母だけだったから、彼女が病に臥せってからは誰にも咎められず、好き勝手に外出していた。
大事に育てられた奴は、文字通り箱入りで。
――だからさ、ちょっと。ちょっとだけ、行ってみない?
大学、一年目の夏休み。二か月もある休暇を持て余した俺は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも同行したのだ。
マンションを出て橋を抜けて、屋根のある商店街ではなくわざわざ筋違いの道を行って、雨に濡れて風に吹かれて、奴が満足したところで、引き返した。
雨が降っているのに傘を差さなかった。
持ってはいたが、途中で奴が畳んだのだった。俺はしばらく一人でさしていたが、強風にあおられてバキバキに折られてしまって。それがなんだか面白く、どういうわけか楽しかった。
二人きりで。
馬鹿みたいに笑いながら、ここを歩いた。
大したことじゃない。どうでもいい、取るに足らない場面だ。
だけどもう二度とない。
あのときと同じように雨に打たれたくて、傘を下げた。
俺はいま、あのとき見たのと同じ土色の川を見ている。そして同じように雨に打たれている。けれど同じではないのだろう。
奴はもう、いないのだから。
同じ夏は二度と来ない、と、決まり文句があるように。
あのときと同じ時間は、もう二度と流れない。
目を瞑る。
聞こえるような気がするのは、しかし幻聴だろう。
――さっちゃん。
「史宏くん!」
馴染みの薄い呼び方が聞こえた。ゆっくり顔を上げようとしたその瞬間には趣里が俺の胴体にダイブしていて、押し倒される形で二人して歩道に転がる。
「は?」
しばし固まったあとに、起き上がりながら怒りの口調で趣里に問いかけるが、彼は俺の上で、真剣にこちらを見つめている。
「大丈夫?」
問いたいのはこちらのほうだ。そんな間にも、打ち付けられた背中に雨水が染みる。
「とりあえず、どいてくれ」
「っと、ごめん」
趣里は大人しく立ち上がった。上手に俺の上に転んだものだから、ひざから下くらいしか濡れていない。
奇行に及んだこいつより、巻き込まれたこちらのほうがおびただしい浸水被害を受けていることに地味に腹が立つ。
衝撃で飛んでいった傘を追いかけて拾って、それすら持って来ていない趣里に、空間を半分分けてやる。こっちはもうびしょ濡れだから、全部こいつに渡してもよかった。
趣里はなにも言わずこちらを見て、誤魔化すようにあいまいに笑った、ような気がした。不器用に取り繕った笑みのように見えた。
違ったかもしれない。とにかくわずかに、顔を歪ませた。
「家で仕事してたんじゃないのか」
「そう。メッセージもらって、すぐ帰るっていうから気にしてたんだけど、なかなか帰ってこないから、ベランダから見たら……」
体感時間よりずっと長く、思い出に浸っていたらしい。趣里が心配するほど。感傷に浸っていた自分がなんだか恥ずかしく、茶化すように返した。
「ベランダ見たら居たから、嬉しくて駆けて来たのか? サムみたいだな」
「違くて。川に、入ろうとしてたから」
「入るわけないだろ。こんな増水した川。見てただけだ」
「見てた?」
「そう。川。見てた。水すげえって」
ながいながいため息だった。なんだと思ったら安堵のため息らしかった。
確かに、欄干に片手を添えて、少し乗り出していたかもしれない。
こちらも軽くため息をついた。
これは安堵のそれではなく、文字通りの呆れ、それから怒りだ。
無実の罪でタックルをされたことに苛々していた。ただでさえ温い空気に雨が染みて湿度が上がり、水を吸った服の不快感を増す。
その感情が、先ほど香澄さんから聞かされたことにも結ばれる。
「……詮索してみたり、自殺しそうと思ってみたり」
こいつはやっぱり、俺が死ぬのだと思っているのだろう。
「俺はお前の患者じゃねえっつの」
趣里の手に、開いた傘を握らせる。
降る雨と地面の水たまりに晒されて、どうせ被ったように濡れている。そのまま傘下から出て、先に帰路を歩く。
しばらく行っても追いかけてくる気配がなかったので振り返れば、立ち尽くしたままの背中があった。
傘だけは、きちんとさしている。
「おい、帰るぞ」
違う。固まっているだけだ。
話しかけてようやく、こちらに歩き出した。
傘で顔を隠していたから、どんな表情だったのか、見えない。
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