要らなくなるとき


「さっちゃんって、人との距離が結構壊れてると思うの」


 聞いてみたわけではなく。


 趣里との状況を話してみれば、香澄さんはあっけらかんとそう言う。茶化すでもなく、笑うでもなく、ただの指摘としての、淡々とした口調で。


 リビングの、巨人が座るようなソファは相変わらずばかみたいに沈み込んで、上半身のバランスをどうにか保ちながら、出された紅茶を飲んでいる。

 一香いちかは保育園に行っている。サムは香澄さんの足元に伏せてぐっすり寝ているから、珍しく静かだ。


「壊れてるって……」

「だって、趣里くんとは友人というか、顔見知り程度だったんでしょう? そんな人を普通は家に泊めないと思うの。しかも、こんな長期間」

「確かに得体は知れないですけど。別に危険人物ではないし、名前くらいは知ってたし……。長期間は、部屋が決まらないので、仕方なく……」


 ため息を吐かれた。


香月かづきとの同居もそうよ。私たちはさっちゃんが了承しないんじゃないかしらって思っていたのに、あなたあっさり受け入れるんだもの。しっかり四年間。しかもあなたたち、喧嘩らしい喧嘩をしなかったでしょう」

「俺は怒ることもありましたよ、奴が応戦しないだけで……」

「確かに香月はさっちゃんに怒らなかったわ。でも、相手が怒らなかったら喧嘩にならない、なんてことはないでしょう? 一方的に怒って出ていくことだってできたわけでしょう。出て行けば路頭に迷うような状況ではなかったわけだし」

「それは……まあ」


 お茶請けのクッキーをかじり終えてから、香澄さんは宣告した。やたらしみじみと。


「さっちゃんは香月に、距離感を壊されたのかもしれないわねえ……」

「…………」

「悪いってことじゃないのよ。でも、こう……危機管理というか」


 積極的な否定ができない。

 確かに奴は、俺との距離感が近すぎた。それが普通だったとは流石に思わないが、では普通の距離感とはどんなものかと問われれば、不正解を導き出すかもしれない。

 いまみたいに。


「普通、知らない人と一緒に住むなんてできないんだから。しんどくなってきたなら一旦距離を置くでもいいんじゃない。って言っても、しばらくあの物件に空きはないけれど」

「……空く予定が出たら教えてください」


 優しく頷いて、香澄さんは飲み干したカップを置いた。俺のカップはとっくに空になっている。


「よし。じゃあ始めましょうか」


 案内されたのは、かつて奴が使っていた部屋だった。

 香澄さん一家の住まいとなった今でも、この部屋だけは特定の用途には使われず、いわば物置になっている。


 奴の遺品が詰まった、物置に。


「捨てられなかったの」


 五年ぶりの帰郷。最初にマンションを訪れたとき、部屋に案内してくれた香澄さんはそう言った。悲しそうではなかった。微笑んでさえいた。


「香月の持っていたもの、触ったもの、そういうものは、捨てればもうなくなってしまうんだもの。もう一つも生まれないから、一つも捨てられなかった。この部屋だけはそのまま遺していたの。でもだんだん、そうも言っていられなくなる。食べ物は腐るし、靴は劣化するしね。少しずつ捨てていったわ。大きな家具も、あるとき一度に捨てたの」


 残ったのは、服やかばん、本などの日用品だった。

 その整理をしたいのだと言われていたのだ。俺が空いていて、香澄さんも空いていて、一香がいない日。都合を合わせて、やっと今日になった。


 奴が、かつて居て、暮らしていた部屋には、すでに生活に必要な家具はなく。ただ、まばらに置かれた棚や段ボール箱のなかに、奴の痕跡が詰まっていた。


 五年も経てばあらゆるものが薄れるはずなのに。

 奴の、もう記憶にない匂いが、それでも香る気がした。


「欲しいものがあれば持っていっていいわよ」


 袋を丁寧に広げながら、香澄さんはそう言ってくれた。

 笑っている。強がりだ。泣かないように、無理に笑顔を作っていることが分かる。あえて指摘もしないけれど。


 手近にあった段ボールを開いて、中身を検分していく。大学の教科書、文庫本、アルバム、楽譜。

 一番使い古されているのは楽譜だ。何度も開いた跡がついて、ぺらぺらと捲ると頼りないほどに製本がぐらついている。


「これ、頂いてもいいですか」


 楽譜は読めない。読もうとしたこともない。だから俺が持っていても仕方がないのだろう。けれど、奴はいつも、これをピアノに立てかけていた。

 ずっと弾いていたあの曲も、収録されている。


「いいわ。なんでも。いくらでも」


 だけどね、と香澄さんは言う。


「要らなくなったら、捨てなさいね」


 香澄さんはこちらを見ず、箱を開けては中身の洋服を袋に入れていく。時折止まっては、その服を見つめる。彼女は捨てられるのだ、と思った。

 ひとつも捨てることなんてできないと思っていたこれらを、もう、捨てることができるようになったのだ。


 俺と違って。


「……要らなくなることなんて」

「さっちゃんが大学を卒業して引っ越したときにね、私は言ったでしょう。どこに行ってもいいのって。もう、帰ってこなくてもいいのって。あれは本心だった。帰ってこなければ、さっちゃんは香月のことを忘れて、きちんと生きていってくれてるんだって思うことができた。でも、あなたは帰ってきてしまった。悲しそうな顔は変わらないまま」

「……すみません」

「責めてるわけじゃないの。でも、そうね。五年たっても、忘れられないんだって思ったわ。それくらい、香月はあなたの近くにいたのね」

「物理的な距離が近かっただけですよ。理解できていたわけじゃない。俺はずっと奴の感情を知らなかったし」

「香月は、知らせないようにしてたの。話してしまえば、もう契約は続けられなくなる。続いたとしても、これまでの関係とは別物になる。だから、ああしたの。失敗しちゃったけどね」


 香澄さんの前の箱が空になって、次の箱を手繰り寄せた。また開いて、中を見て、ひとつずつゆっくりと、処分していく。

 俺はそれから目を離せなかった。

 どうしてこんなにも軽やかに、捨てることができるのだろう。信じられないことのようにも思えたし、それが当然のようにも思えた。


 生きている人間は。

 死んだ人間とは一緒にいられない。


「香月は、さっちゃんがこうなることを一番、恐れたのかもしれないわね。自分のことなんてなにも気にせず生きていって欲しいって、ずっと言っていたから」


 香澄さんがこちらを見る。俺はずっと聞いているだけなのに、ひとつも作業が進んでいない。手が動かない。すべてが惜しく思える。

 一つを捨てれば、二度と戻らないすべてを捨て去ってしまうように思えた。


「いくらでも、持って行っていいの。全部持って帰ってもいい。この箱のままどこへでも送ってあげる。……だけど、一生持っていては駄目」


 その視線が、強くて。目が離せなくなる。

 俺が黙っていると、香澄さんはまた、いつものようにふわりと笑った。


「この部屋ね、一香にあげることにしたの。まだだけどね、いつかの話。彼女にも、自分のスペースは必要でしょう」

「……道理ですね」

「うん、そう。場所は限られているんだもの。すべてを置いてはおけない」


 さっちゃんもね、と、清々しい表情で笑う。



「すべてを、持っては行けないのよ」



 結局、持って帰ったのは一冊の楽譜だけで。

 片づけて――ほとんど香澄さんが――なお、一香を迎えに行く時間になっても、段ボール箱は積まれたままだった。

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