第4章 豊田涼花②
君と夏祭り
シンデレラみたい。
香澄さんも
鏡の前に立つ私がいつもと違うことはわかる。なんだか違う人みたいだった。
香澄さんは薄くメイクまでしてくれた。
デパートでしか売っていない化粧品はいい香りがして、ちょっとくらくらしてしまう。ヘアメイクまでしてもらって。
また
今夜限りの魔法だ。
この姿で
口の端が勝手に上がっていく。
石段を数段のぼると、木の下に彼がいた。私服の新矢はいつもより違って見える。手を振りながら歩み寄れば、にこりと笑ってくれた。
「可愛い」
わ、と顔に熱が上がってくるのを感じた。
なんとか取り繕って、いつもの口調でどうにか返す。
「ほんと? おかしくない?」
「全然おかしくない」
「綺麗に仕立ててもらったのはわかるんだけど、なんだか自分じゃないみたいで、慣れない」
お祭りには結構人がいた。七十周年だとさっき見た看板に書かれていて、地域で大事にされている催しなんだろう。参道沿いにずらっと出店が並んでいて、目移りする。
「ね、お腹すいてる?」
「空いてる。豊田は?」
「ぺこぺこ! いろいろ食べたい!」
「珍しい」
「こういうときは食べられる気がするんだよね。焼きそばとお好み焼きは食べたい」
「味一緒じゃない?」
「ちがうよ!」
二人きり、隣を歩く。
別に学校でだって一緒に歩くし、全然特別なことじゃないけど、きょうばかりはやっぱり特別だった。
周りに人が多くて、自然と距離が近くなるのもある。お祭り自体にわくわくもしている。学校のない日にこんな特別な場所に来られたのも。
高鳴る心臓のついでみたいに、私は言っていた。
魔法だ。
「ね、裾掴んでていい? 私草履で歩くの遅いから、はぐれないように」
「……いいよ」
返事は小声だった。しかもこちらを向かない。彼の半そでの白いシャツの、腰あたりの裾をそっと掴む。彼の体には触れないよう、ちょっと引っ張りながら。
「伸びちゃったらごめん。ありがと」
返答はやっぱり小声だった。たぶん、照れている。
私だって恥ずかしい。
「や、いいよそんなん……。伸びても着られるし。なにか食べる? あ、あれ可愛い」
新矢が指さしたのはフルーツあめの屋台だった。
りんご、みかん、いちご、ぶどう、パインなど串に刺さった果物が飴をかけられつやつやと照明を反射している。
丁度行列が終わったところだったので、すかさず二人でお店の前に立つ。
「えっと、いちごください」
「あと、ぶどうもお願いします」
屋台のおじさんは笑顔で串をそれぞれに渡してくれた。
一本四百円。
お祭り価格で高いけれど、こういうのはそういうものだから躊躇わず使え、とは兄が言ったのだった。このために特別に軍資金ももらった。
また、流れにそって歩き出す。
右手にはいちごあめ、左手には新矢の裾。
どれほど食べにくくても。左を離したくはなかった。
半歩先を行く新矢の肩が目線にある。
陸上をやっているだけあってそこまで重量はなさそうな細い身体だけど、それでもしっかり男の人の厚い肩だった。そこから伸びる血管の浮いた腕も、大きな手も、本当は、少し怖い。
新矢とお祭りに行くことになった、と、
私は新矢に触れることができない。
新矢だけじゃない。
体育の授業で、合同でダンスの練習をしたとき、男子が女子の後ろに立って肩の上で手を合わせるだけだったのに、私は泣き出してしまった。
保健室に駆け込んでどうにかやり過ごしたけれど、私は悪い意味で有名になった。新矢と一緒にいて悪く言われるのは、そういうところもあるのだろう。
「結構人多いんだな。立地的にもっと少ないかと思ってた」
「ね、混んでるね。なんだろ、周年だからかな?」
道の先にはステージがあって、大画面をバックにギターを持った女性が歌っている。
画面に映されているのは七十周年の記念映像のようだ。これまでのお祭りに来たらしき人々の写真が、映像になって流れていく。
「小さいころとか来なかった?」
「うーん、覚えてないなあ。出て来たのが小学一年生の終わりでしょ? あんまり覚えてなくて。来たならお兄ちゃんもいたはずだけど、なにも言わなかったな。新矢は? お祭りとか結構来てた?」
「友達と行ったのは中学生になってからかな。五人くらいで行って、種類食べたいからって店で買ったもの全部五分割してた」
「友達と初めて行ったのは去年だったなー。瑠羽ちゃんとふたりで」
「それまではお兄さんが許さなかったんだろ」
「そう! 中学までは、危ないからって行くならおれを連れて行け! って」
「仁王立ちしてるお兄さんが思い浮かんだ」
「実際してたよ。玄関で仁王立ちして。そのときは結局、友達とは行くけど数メートル離れてお兄ちゃんが付いていくってことになった」
「今日もいそう」
「ないない。仕事だからって帰ったから」
ないのだろうか。本当は、帰っていなかったりして。
なんとなく後ろを振り返るけれど、見える範囲に姿はなかった。
代わりに、ゴミ箱を見つけた。食べ終わったいちごあめの串を持て余していたのだ。新矢の分もぶんどって、段ボールにセットされたビニール袋に放り込む。
さて。次は何を食べよう。
普段は少食で兄を困らせているが、こういうときには食欲が出る。胃の容量は結局変わらないので、意気込みだけだ。
周囲を見回すと、ゴミ箱の隣は焼きそば屋さんだった。お好み焼きも売っているというお得感。
「食べる?」
視線に気が付いたのだろう、新矢が聞いて来る。控えめに頷く。
「あ、でも食べきれないかも」
「大丈夫。場所、取っててもらっていい?」
「おっけ!」
食べる場所を探せば、みんな屋台から少し離れたベンチや縁石に座っているようだった。空いているところを探して腰を下ろし、隣にバッグを置く。
しばらくして新矢が、ビニール袋を提げてやってきた。
「いくらだった?」
「いや、いいよこれは」
「そういうの、駄目」
「ちょっと待って」
隣に座る。教室やリビングで椅子に座るのとは違う。あまり広く座れないので、互いの腕が当たってしまう。
そんな距離で新矢が私に渡したのは、カラの容器だった。
「持ってて」
両手で、新矢に向けて持っておく。彼はビニール袋からお好み焼きを取り出す。容器いっぱい溢れんばかりに入っていて、中のキャベツが容器からはみ出している。思っていたよりずっと大きい。一人ではとても食べきれない。
「どれくらい食べられる? あ、焼きそばもちゃんと買ってあるから、それ考慮して」
「……ここから、ここまでくらい」
「最初の威勢はどこいった」
新矢が笑う。私が指したのは四分の一程度の大きさだった。
私はちょっとふくれた。瑠羽ちゃんと一緒にお弁当を食べるとき、私も彼女も同じくらいの量だ。私が特別食べられないわけじゃないはずなのに。
「いちごのほうがぶどうより大きかったもん」
「はいはい。こんくらい?」
端っこは可哀相だと思ったのか、真ん中から切り取って私の容器に入れてくれた。
お好み焼きは脇に置いて、次は焼きそば。
「どれくらい?」
「えー……このへん、くらい」
海みたいに波打つ麺の、端のほうを丸く指定する。ちょっと見栄を張ってみたけれど、それでも三分の一にも満たなかった。
「はい。紅ショウガいける人?」
「いかせてください!」
かくして、私の手の中の容器には、お好み焼きと焼きそばの盛り合わせが完成した。
「ほら。ほとんど俺が食べるだろ。だから、これはいいの」
「……とんち」
「全然ちがう。一休さんに失礼」
ここは素直にありがたくいただこう。
「ありがと。いただきまーす」
屋台でつくられるソース味って、なんだか家で食べるのと違う気がする。鉄板で焼くからかな? と思っても違う気がするので、今度兄に聞いてみよう。知ってるかな。
遠くでは、男性に変わった歌声が響いている。いま流行っているラブソングだった。周りを見れば、なんだかカップルが目に付く。たぶん、私がそわそわしているからそう思えるのだ。
隣では、焼きそばとお好み焼きの両方を持った新矢が、大きな口で次々とソース味の塊を消していっている。
新矢は、私に優しい。すごく優しい。こうしてふたりで出かけてもくれるのだから、たぶん私のことを嫌ってはいない。
……いまのところ。
でも未来は、分からない。怖がりの私を、新矢が嫌になって見限ってしまわないだろうか。
――そういえば、花火があがるのだった。
音がして、天空から光が降って、周囲の歓声が聴こえてから、そう思った。
「お、綺麗だな」
新矢も食べるのを中断して、空を見上げてからこちらを向いた。私は花火は見ていなくて、新矢の表情だけを見ている。
「ねえ」
私は、きっと踏み出す必要があって。楽しい夏祭りのいまなら。
香澄さんが、魔法をかけてくれたいまなら。
できるの、かな。
「手、握ってもいい?」
新矢は、やっぱり優しかった。笑ってくれる。
半分以上中身のなくなった容器を横に置いて、手を差し出してくれる。
打ち上げられる花火なんて見もしないで。
「どうぞ」
背の高さと比例して大きい手は、私のものとも、兄のものとも違う。
恐る恐る触れる。熱い肌に驚いて、それでもなんとか手のひらに、自分の指先を乗せる。
そうしたら、新矢の手が動いて、私の手を包み込んだ。
……魔法があっても、どうにもならない。
目の前が滲んでいく。咄嗟に顔を下げるが、誤魔化しきれない。もう反射みたいになっているのだ。自分ではどうしようもできない。恐い。
なにが恐いわけでもないはずなのに。
すぐに、どうにかしないといけない。
救いなのは、みんな花火を見ていて、泣いても注目を集めないことだけだった。他は全部絶望的だ。笑わなきゃいけない。笑って、この場を白けさせないように。
新矢に見放されないように。
焦っていると、新矢の手が離れる感触があって、顔を上げてしまった。目が合った彼は、予想に反して優しく微笑んでいる。
私の前で、膝をついて。
両手のひらをこちらに向ける。
頂戴、をする格好だったので、触れはしないように指先を渡すと、新矢はその全体をそっと握った。
「これは駄目?」
頷く。握る手を爪先に移動させた。
私の反応に合わせて、どんどん触れる範囲を少なくしていく。結局、小指の先までたどり着いた。
「じゃあ」
新矢は小指だけ出した片手を上げる。
「これは?」
私は、彼の長い小指に、自分の小指を触れさせる。指切りの形になって、そっと力をいれて組み合わせる。
いつのまにか、涙は流れていなかった。
「大丈夫?」
なんでこんなに優しいんだろう。
怒って帰ったって仕方ないのに。
「……大丈夫」
違う意味で泣きそうになって、その涙はどうにかせき止める。
小さい面積から伝わる体温は、強くなった証拠みたいに思えた。
うん、じゃあ。と新矢は言う。
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