さよならの足跡②


「どしたの立ち止まって。お邪魔さまですよ」


 はしまきを持った趣里が、いつのまにか隣にいた。

 俺はなにも答えられず、目に焼き付けるように画像を見ていた。数秒で違う画像に切り替わってしまう。


「なんでもない」


 歩き出す。動悸がする。

 見ないようにしていた。五年間で撮った、数少ない写真も動画も。

 おぼろげになった記憶との、差異を思い知るから。

 記録された奴は鮮明で、俺を責めることもなくただ笑っている。


 忘れていくのに。


「あれ、どこいくの」

「どこか座ろう」


 流れを突っ切り、出店の裏側へ行く。ちょうど縁石の上が開いていた。


「大丈夫なの? 彼らは」

「問題なさそうだった。覗かれるのは嫌だろ」


 サングラスを外して、趣里に返す。趣里はその手で自分にかけた。

 膝の上に袋を置いて、パックを出す。輪ゴムで一緒にまとめられた箸を割って――。


「手、震えてるけど」


 隣ではしまきを食べる趣里に指摘され、箸を置いた。動揺している。


「なんかあったの」

「なんでもない」

「なあんかこっち来てから喋んないな史宏くんは」

「違う、向こうでお前と話してたときが異常だったんだ」


 ため息をついて両手で顔を覆う。趣里の視線を感じた。ふうん、となんでもないように言って、

「……おれがなんでカウンセラーやめたかってさ」


 隣が喋り出す。俺は顔を上げて見た。

 趣里はこちらを見ずに、サングラス越し、じっと何もない目の前を見つめている。


「患者が死んでさ。病気とか事故じゃなくて……いや、それだって病死だし事故死かもしれないけど。彼女は、面談の次の日に死んで。おれは患者を死なせたのはそれが初めてで」


 横顔に映る趣里の表情は、いつもと変わらない。居間で雑談をしているような口調で。少し、微笑んでさえいる。


「上司に言われてたんだよねえ、お前は患者に加担しすぎるって。要は入れ込みすぎて境界線が引けてないってことなんだけど。休職してベッドで生活しながら、こういうことかあって思った。他の人たちは、つらくても笑って次の日も職場に来て、他の患者の話を聞いてた。おれだけが呑み込めなかった。立てなくなった。自分事みたいに思いすぎて」


 だからさあ、と趣里は言う。やっとこちらを向いて、目が合った。


「他の人が乗り越えられてるのにおれはなんで無理なんだ、とか、思っても仕方ないんだよねえ、だって無理なんだもん。仕方ないよ。仕方ないって思っていいんだよ」


 ここに帰ってくる前、趣里とずっと話していた。

 家の近くの公園のベンチに座っていたら来て、無遠慮に話しかけてきて、なぜか人の警戒心を解くのがうまくて、余計なことをいくらでも話したのだった。

 ここまで来ればタネも仕掛けもある手品だ。


「ましてや、人生そのものみたいな愛をくれた人なんでしょう」


 俺のことを知っているから、いくらでも言い当てられる。

 観念して口を開いた。

 言葉にして、人に話すのは初めてだった。


「忘れていくことに、耐えられない……」


 趣里はこちらを見て、黙って聞いている。


「もう思い出せない。奴の声も、顔も、綺麗だった笑ったときの表情も。ぼやけて輪郭が定まらない」


 奴のことをひとつも忘れずにいられるとは、最初から思っていなかった。

 ただ、奴が死んだときに空いた、喪失感を伴う穴、それは埋まると思っていた。

 五年前の三月に、歩き出した俺は確かに、これが癒されると思っていた。いやでも忘れていく。いやでもなくしていく。それは仕方がないことだと理解していた。


「ひとつも取り落とさないなんてできるはずがないとわかってた。声も、顔も、奏でた音も、疑いようもなく忘れる。すべてを覚えておくなんてできない。だけど、褪せて虫食われて想像で補わなきゃならなくなった記憶が、こんなに生々しくまだ残って、それでずっとここに居続けるってことを理解できてなかった」


 穴は、いつのまにか随分と浅くなっていた。けれど塞がることはなく、クレーターのような跡だけが残っている。

 失くしたそのままではいられないくせに完全に元に戻りもしないそれが、回復ではなく風化によって浅くなっていくそれが、今だって俺に訴えつづける。


 お前は忘れたのだ、と。


「大学の友達が言ったんだよ、忘れていくことがあっても、なくすことはないって。だけど本当にそうなのか? 俺はやっぱりなくしたんじゃないか? 忘れることはなくすことじゃないのか? さっきそこの画面に、写真が映ったんだ。奴が映ってた。俺はその顔を見て、自分がなにもかもを忘れていたんだって思い出した」

「……そういえばさ、写真とかないよね。家に一枚くらい飾ってるかと思ったんだけど」

「最初は、手元に置いてたんだよ。けど仕事が忙しくて久しぶりに見る度に、忘れていってることを思い知るから、やめた」


 仕事にかこつけて穴を見ないようにしていた。

 けれど失職して、仕事を注ぎ込めなくなった穴は、洗濯物を干しているとき、布団に入り眠りにつく狭間、すす、と近寄って存在感を増し、その空虚を主張してくる。じっとみつめると、穴に放り込んでおいた、見ないようにしていたものがぞろっと顔を並べる。


 お前はなくしていくのだと訴える。


 見ないふりはもうできなかった。

「……悪い、冷めるよな。食えよ」

 震えの治まった手で、再度箸を持つ。趣里ははしまきをかじりながら、


「おれはさ、身近な人がなくなるたびに、失くしたって思ってた。友人さんの言ってることは正しいと思うよ。一緒にいた過去は消えない。忘れてもなくすことはない。だけど、一緒にいたはずの未来は、確かになくしたんだ。そりゃなくしたさ。だって本当はあったんだから。一緒に、隣にいて、笑ってた未来が、今日が、あったはずなんだ。でもなくなった」


 だからさあ、と趣里は言う。


「寂しいよなあ」


 そうだ。

 隣にいるはずだったのに、もういないから。

 ――こんなに、寂しい。


 彼は星の見える空を見上げた。サングラスをかけた目では、きっとよく見えないだろう。


「で? 史宏くんは、会いに来たんだ。西川くんだっけ、その彼に」


 すべてを持っていけないのなら、なにも持っていきたくないと思ったりする。だけどここには確かに与えられたものがあって、手に染みついて放せない。それも事実だ。


 会いに来た。忘れる前に。

 取り戻せるものなら、すべてを取り戻したかった。

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