旧友


 店に入ると、すでに二人は席についていた。

 五年間ろくに会わなかった割に変わっていない。大学の同級生だった二人は、涼花すずかや千愛ちゃんとは違うのだ。


 相変わらず藤枝ふじえだの対面に高山たかやまが座っている。俺は高山の隣に腰を下ろした。目の前には、誰もいない。


「変わんないね」


 少し顔の赤い藤枝南波美みなみが、挨拶もそこそこにそんなことを言う。手には、すでに半分ほどに減ったビールが握られていた。


「五年じゃそう変わらん」

「ちゃんと見て。髪が伸びたよ。南波美」

「それ五年の変化じゃねえだろ……」


 店員を呼び止めて、適当に注文する。かつてバイトをしていたこの店も、随分と顔ぶれが変わっている。学生バイトを中心に回していたので当然か。


尾崎おざきさん、もういないんだって。さっき店長さんに聞いた」


 尾崎さくら。ここの社員だった女性だ。


「辞めた?」

「ううん、異動。彼氏さんの転勤を機に結婚して、系列のカフェに行ったんだって」


 尾崎さんとも、就職以来連絡を取っていない。


「ていうかさっちゃん久しぶり。一回も帰って来ないでさあ」

「忙しかったんだよ。ろくに休みもなくて。働き通しで」

「ブラックじゃん」

「今どき珍しいくらいのブラックだよ。潰れたけど」


 高山も藤枝も、それぞれここで、別の会社に就職している。暮らしは順調のようだ。


 普段は藤枝のことばかり見て口数の少ない高山が喋ったのは、藤枝がトイレに立ったときだった。


「南波美ね、婚活してたんだけど、疲れてやめちゃったんだ。香月かづきみたいな人が全然いないって」

「そりゃいないだろあんなやつ」

「まだ駄目なのかな。結構立ち直ったんだけど。ふとしたときに探しちゃって、次の瞬間にはもう泣いてる、みたいなことが良くあったんだけど。最近は私も全然、慰めてない」


 葬式の日、藤枝は誰より泣いていた。その後は気丈に振舞っているように見えたが、高山の前では弱みも見せていたのだろう。


 それでも。

 あのときのままではいられない。


「もう、忘れてもいいと思うんだけどね」


 藤枝がトイレから出て来た。こちらに辿り着く前に、高山は内緒ね、と言った。


 三十手前にもなると、基本的に徹夜がきつい。学生時代はここから二次会や三次会へ行ったが、すでにそんな体力はなかった。


 かつてのように、高山は潰れた藤枝を抱えて帰った。俺は一人で駅までの道を行く。

 少しだけ変わった住宅街。バイトでよく通った道だから、一人で歩くのは慣れていた。慣れているはずなのに、喋りたくなる。


 隣にはもう誰もいないのに。

 話しかければ、誰かが答えてくれるような気がした。


 スマホが鳴った。画面には藤枝の名前が表示されている。耳に当てて開口一番、酔っぱらった声が聴こえる。


『さっちゃん! 言い忘れた!』

「は? なに」

『幸せでいなさいよ』


 その言葉に息が止まった。久しぶりに聞く、単語だった。


『あたしはちゃんと幸せだから。さっちゃんも、ね』


 幸せ、なんて。


 あんなに泣いていたのに。

 忘れていくのか。それでいいのか。


 咄嗟に思ったそれを、俺はどうにか飲み込んだ。

 吐いた唾はすべて、自分に降りかかってくる。


「なあ」


 言われたことがあったのだ。


 ――ずっといるよ、香月は。だって一緒にいたから。香月が亡くなったのと同じに、ずっと一緒にいたことだって覆せない現実だから。忘れてくだけでね、なくなったりはしないの。


「なくならないって言ったけど、俺は確かに、なくしたんじゃないか? なくしたからこんなに苦しい、なくしたからこんなに――」


 空き地には建物があった。


 それは確かに覚えているのに、なにがあったかは思い出せない。俺の頭からはもう失われてしまった。外部に教えてもらっても、取り戻すことができない。


 忘れていくことは失くすことじゃないのか。

 この喪失感はなんだ。

 確かにそこにあったはずなのに。


 不必要な言葉が出る前に電話を切った。

 そこで俺は、手の中にあった感情に気がついた。発見したそれの名前を、呆然と呟く。


「こんなに、寂しい」


 隣にいたはずだったのに。

 返事は、もう誰からも来ない。

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