言葉の反響


 二週間が経とうというとき。彼が言った。

 やはり目の前のイチョウを見つめていて。


「地元に帰ることにした」

「地元? どこだっけ」


 彼が言ったのはここから随分と離れた地名だった。


「そこで就職先探すの?」

「いや、多分職場は別で探すな」

「なんでまた。めんどくさくない? 手続きとか。お金もかかるし」

「まあ、それはそうだけど」

「ああ、あの人に会いに行くとか?」


 いや、と彼は言った。そしてあまりにも平坦に、続けた。


「奴は、もう死んでて」


 詩でも読むかのようだった。

 なんだか納得してしまった。彼は輪郭をなぞっていたわけではなく、意図的に触らないようにしていたのだ。

 どうあっても『奴』の皮膚に触れないように言葉を選んだのだった。触れれば、涙が溢れることを知っていたから。


 なんで泣いてたの、なんて、もう聞けない。


 彼は上背があって、人より恵まれた体格に似合わず、そして顔面の無表情さに似合わず、所作は柔らかかった。以前に一度指摘したら、後天性だと言った。

 それだけで、彼の身に起きた特別なことについて考えた。だからだろうか。


 彼が口にする言葉はどれも特別である気がした。


 続きを待った。待っている間に、木を見つめるその目は溺れかけた。

 やがて響いた声は、やはり自身が泣いていることを知らない。


「会いに行きたいんだ」


 清廉に、はっきりと、そう言った。


 その瞳は、もうこの世にいない人間のすがたを映している。

 そういうこと、なのだろうか。

 なんてことはない。そういう人間はいくらでもいる。

 カウンセラーをしていた一年足らずでも、そういう患者は多くいた。


「奴がくれたのは、人生そのものみたいな愛で」


 愛。愛だなんて。


 随分と似合わないことを言うものだなと思った。無表情で、不愛想に、臆面もなく、甘ったるいことを口にする。けれどやはり、その響きは随分と彼に馴染んでいる。

 不思議な感触だった。


 おれはなにも返せなかった。頭にチラつくのはかつて亡くした患者のことで。思考が現実を置いていく。彼はまた、似合わないのにやけに馴染むことを言った。


「あれ以上愛されることは、もう一生ないだろう」


 それは感想なのか諦めなのか傷なのか呪いなのか。

 自分のことを考えていたおれは、聞きそびれたのだった。

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