透明な『誰か』


 翌日、同じ時間帯に同じように散歩をしていると、同じように彼がいた。ただ、今度は泣いていなかった。

 再び話しかけた。


「大丈夫ですか」


 彼はこちらを見た。昨日会った人間だと気が付いたらしい、会釈で返してきた。隣に座ると、少し警戒心を含んだ表情をしたが、一瞬のことだ。


 坂田史宏と名乗った。


「水、ありがとうございました」


 外見の印象よりは柔和な声だった。


 数日前に会社が倒産して、求職中なのだという。手当も出るので急いで再就職する必要もなく、ぶらぶらしていると言った。モラトリアムだ、と思う。見た感じ若い人だし、確かに急ぐ必要もないのだろう。


「この場所気に入った? 昨日もここにいた」

「気に入ったというか。あの木が」


 指さしたのは目の前にあるイチョウの木だった。公園ができるより前からあるようで、あたりの樹木では最も大きい。

 いまは初夏の日差しをいやというほど浴びて、青々と葉を茂らせている。


「似たようなきれいな木が、通ってた大学にあって。よくその近くに友達数人と座り込んでだべってて。懐かしいなと」

「そうなんだ」


 この木を見ておれが思い出すのは、車の教習のことだった。

 外周のときによく使う道路があって、その中央分離帯にイチョウが植えられていた。

 かなり大きくて、秋には大量の黄色い葉っぱが、信号待ちをしている車に降り注いでドライバーの邪魔をした。


 別に良い思い出でも悪い思い出でもない。だから「イチョウだなあ」くらいしか思わない。彼はそんなイチョウを、きれい、と評した。


 だから思い出は、いいものだったんだろう。


「泣いてたのは、あの木と関係がある?」


 え、と戸惑いが返ってくる。


「あ、ごめん。答えなくて大丈夫」


 クセだ。大学で臨床心理学を学んで、卒業後は一年ほどカウンセラーをしていた。向いてなくて辞めてしまったが。


 お前は患者に加担しすぎる、と上司によく言われていた。

 それは情が深いとか、優しいとか良いことではなく、境界がうまく引けないという、ただの欠点だ。


 かなしいひとがいればかなしいし、うれしいひとがいればうれしい。


「明日もいる?」

「雨が降らなければ」

「おれも。じゃあ、またね」


 それからよく話すようになった。言った通り、雨が降らなければそこにいた。飽きもせず、スマホも見ずに木を見つめている。


 見ていたのは木ではないのだろう。

 彼の話す思い出話は常に、誰かの輪郭をなぞっていた。


 あれをした、これをした、こんなことがあったと話すその場面にはいつも『誰か』がいた。なんの脈絡も前置きもなく、当然のように、隣にいるのが前提のようだった。あまりに自然にそこに存在したのは、彼にとってそうだったからだろう。


 だから、その人物がどんな人だったかは分からない。


 おそらく普段から、『誰か』のことをそう呼んでいたのだと思う。言いなれた名前のように、「奴」となめらかに発音した。

 けれど詳しくは語られない。あまり親しくはないような、友人なのかすら怪しいような淡白な物言いだった、のに、ひどく近い距離にいるように聞こえた。不思議だった。


 輪郭をなぞり続ける。


 彼は木ではなく、その『誰か』を見ていた。おれと話しながらも、記憶と会話をしていたのだろう。


 道半ばで諦めたカウンセラーの真似事であると思いながらも、毎日通った。彼と話すことは楽しかった。歳が近いこともあって打ち解けて、敬語もなくなり、おれは家で食べていた昼食を弁当にしてベンチに持参した。


 ひとりで食べるのを不憫に思ったのかもしれない。

 彼も隣でコンビニ弁当を食べた。不健康そうなメニューに思わず、自分の作った総菜をいくつか食べさせた。


 なんだか変な気分だった。

 彼が初めに見せた警戒心は見掛け倒しのようだった。


 初対面から一週間少しで、おれたちは以前からの友人のように接しあった。

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