楽しかったよ
それから。
私は和室に連行され、追加で次々と積まれる浴衣に埋もれそうになりながら、香澄さんに着つけてもらった。
最初こそ「どれが好き?」と聞いてくれたけれど、「次はこれ」「これが似合うなら次は」と怒涛の着せ替えが始まり、鏡の前でくるくる回され、帯のアレンジも着物ごとに数種試された。
たまに、リビングで優雅に紅茶を飲んでいるふみくんのもとへと手を引かれ、香澄さんが感想を求め、どれに対しても可愛いと定型の言葉を返すのを聞いたりした。
結局、ほとんど全種を着たと思う。
「こんな若い柄もう着ないから、
浴衣は、西川家で代代受け継がれているものらしかった。そんな大層なものじゃないのよ、と香澄さんは言ったけれど、そういうことだろう。
これは母が、これは祖母が、とエピソードを話す香澄さんは、美しかった。
娘さんの一香ちゃんも、これが可愛い、次はこれを着て、とリクエストする。ゆくゆくは自分のものになるということが分かっているのかいないのか。
「やっぱりこれがきれいだと思うわ。ね、お母さん」
「そうね、涼花ちゃんに似合いそうな色。一香も大きくなったら着られるよ」
私の家には浴衣がないし、着方も分からない。
「と、いうわけで、こちらで決定です!」
香澄さんの、美しく整えられた指先がこちらを示す。
紅茶ポットをすっかり飲み干したふみくんは、隣で眠るサムくんを撫でながらこちらを見る。
私もそうだけれど、ふみくんも疲れている。一香ちゃんに至っては別室で眠っている。香澄さんだけが元気だ。
「……いいじゃないですか。三時間前にも見た気がするけど」
「そう。涼花ちゃん背が高くてなんでも様になるから、選択肢が多くて困るの」
「涼花は? 納得?」
文句など言えるはずもない。ぶんぶんと首を縦に振ると、香澄さんが親しげに微笑んだ。
薄紫地に紫とピンクの朝顔模様の浴衣だった。
私の顔色に合うらしく、大人っぽくていい、と香澄さんと一香ちゃんの推薦も得られた浴衣だ。
紫なんて普段着ない。着方が分からないから。なんだか私じゃないみたいだった。
「当日はちょっとお化粧もしましょうか。アレルギーとかない?」
「な、ないです。けど。いいんですか?」
「いいのいいの。やらせて? ふふ、見繕っておくわね。懐かしい。さっちゃんもやったわよねこれ。
香月?
誰だろう。口ぶりからして西川さんのお家の人だろうか。
ふみくんを見れば、どうしてか固まっていた。数秒の無言ののち天井を向いて、さらに沈黙。
「……四人で行ったような」
「そうそう。二人はお家の浴衣を着たから、香月とさっちゃんだけうちで着たのよね」
「きょう会いますよ。飲みに行くんです」
「いいわね。よろしくお伝えして」
香澄さんはにこにこ話すのに、ふみくんは薄く笑うだけだった。洋服に着替えてやがて一息ついたころ、香澄さんが言う。
「夕方になっちゃった。車で駅まで送らせて?
「え! や、そんな申し訳ないです! 歩いていきます、バスもあるし!」
「さっちゃんは? ついでに乗ってらっしゃい、久々にさっちゃんを乗せたいって言ってたわ」
「ありがとうございます。涼花、送っていただこう」
観音開きの玄関扉を開けると、目のまえにはすでに車が停まっていた。
スーツを着た女性がいて、ドアを開けてエスコートしてくれる。なんて光景だろう。
こんな世界、普段の私だったら見ることもないのに。
「あ、ありがとうございます!」
「足元、お気をつけくださいませ」
「俺そんなこと言ってもらったことないな?」
「史宏さんは毎回嫌そうに乗ってらしたので。こんなに可愛らしい反応をいただけると運転手としても張り合いがございます」
「その節は申し訳ございません……」
「なんて。冗談ですよ。状況が状況でしたから、嫌々でも仕方ありません」
ふみくんが隣に座り、ゆっくりと、車は動き出した。驚くほど揺れない。
「乗ったことあるの?」
「昔な」
それ以上言わなかった。話したくないのかもしれないと思う。
再会してからのふみくんは、以前よりずっと喋るようになっていた。不愛想が少し抜けて、人と接するための表情を得たみたいだった。
私と同じだな、と思う。
兄に連れ出され、人とうまく関われなかったとき。
兄や新矢が、私と外界との橋渡しになって、私は自然に笑うことを覚えた。自分の話をちゃんと伝えることを知った。適切にやれば、自分の感情を出しても怒られないことも。
多分それは、素が出たってことなんだろう。
幼いころの私が見ていたふみくんは、きっと生来の彼の表情でなかった。
「ねえふみくん」
話しかければ、不愛想ではない無表情がこちらを向く。
「大学生活、楽しかった?」
ふみくんはやっぱり少し考えて、それでも笑って言った。
「楽しかったよ」
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