気の済むまで
「俺の知り合いの、お姉さんだよ。旦那さんが単身赴任で家にいなくて、こっちにいる間は俺が手伝いで万事屋をやってる」
なあんだ。ちょっとつまんないような。
電話の相手は彼女? そう聞いたら、一切の焦りなく答えた。たぶん本当のことだろう。
ふみくんのそういう話は聞いたことがないから、いろいろ質問してみたかったのに。
降りた駅からバスに乗り、ちょっとだけ山道を行く。住んでいたときもここまで来たことはなかった。
やがて現れたのは大きなお屋敷だった。外壁は新品みたいにきれいな白で、大きな門の奥には観音開きの扉が見える。
門扉の横に取り付けられたインタ―フォンを、ふみくんが躊躇いなく押した。
「坂田です」
その言葉はまるでオープン・セサミみたいだった。
自動で門扉が開く。続いて少し向こうの観音開きが開き、私はようやく、そこが玄関であること知る。玄関って、こんなに広くていいんだっけ。
出てきたのは美しい女性だった。「陶器のような肌」と形容では目にするけれど、実感したのは初めてだ。
「さっちゃん、おかえり」
ふみくんに向かって言った。
さっちゃん。
ふみくんのフルネームを思い浮かべる。坂田のさっちゃん、だろうか。なかなか独特なあだ名の取り方だ。
「わざわざ本宅まで。いいんですか」
「ごめんなさいね。さっちゃんから話を聞いたときは、人様にお貸しできる状態かどうか分からなくて」
「涼花からメール貰ったとき一緒にいたんだ。
かすみさん。名前まできれいだ。
年上の女性に丁寧に接するふみくんはなんだか別人に見える。
私は振舞い方に自信がなくてとりあえず背筋を伸ばし、カバンを両手で持つ。
吸い込まれるような、柔らかくて優しい瞳がこちらを向いた。
「涼花さんね。香澄です。来てくれてありがとう。どうぞ、こちらにいらして」
大きなお屋敷のなかに手招きされる。お邪魔します、と言うのさえなんだか恥ずかしい。平然としているふみくんが信じられない。
迷いなく歩を進める彼の脇に立ち、小声で言う。
「き、緊張するんだけど」
「あー、だよな。別に格式ばったひとたちじゃないから、友達の家に来たくらいの気持ちでいい」
いいわけないでしょ。
言いたかったが、ふみくんはリラックスしている。長い廊下を過ぎた先にようやくたどり着いたリビングの大きなソファに遠慮なく座り、隣に来るように促してくる。
そして、耳元で囁いた。
「あの人、妹が欲しかったんだと」
香澄さんは見当たらない。別の廊下のさきから、遠くわんちゃんの鳴き声が聞こえる。
「昔は弟を着せ替え人形にしてたらしいんだが、大きくなるとそれもできなくなったって」
だから、とふみくんが言うのと、小さな女の子とわんちゃんを引き連れた香澄さんが大量の浴衣を抱えて来たのが同時だった。
「気の済むまで、付き合ってやってくれ」
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