徳総大学
記憶ってどんなものなんだろう。
普段はどこにも見えないのに、あるきっかけで呼ばれたみたいに顔を出す。私はそれに恐怖する。
こっちに来ないでほしい、どこかへ行ってほしいと叫ぶけれど、それは私の一部だからどこにも行かない。
男性の――父の怒鳴り声は私の脳に刻まれて、どこにも行かない。
名前を呼ばれた気がした。
薄く目を開けたら、そこには男性の太い腕があった。
驚いて身を起こせば、隣には兄がいた。私の動きに驚いたのだろう、布団についていた手は、いまでは両手そろってこちらに向けられている。
「あ、お兄ちゃん……」
「ごめん、驚かせたな。大丈夫か?」
兄はティッシュを数枚とってこちらに渡してくれる。分からなくて受け取らないでいると、目元を拭いた。
私は泣いていた。
「寝ながら泣いてた。いやな夢でも見たか?」
「……覚えてない」
「思い出さなくていい。メシ、できたってさ」
できたってさ。
周囲を見ると、マンションではない木造の家。ベッドではなく布団。実家にいることをようやく思い出した。
昨日の夜来たのだった。夏休みに入ったから――二週間滞在する。
「落ち着いたら来い」
言い置いて、兄は台所へと向かった。朝ごはんのにおいがした。お母さんが作ってくれたようだ。
こすらないように涙を拭いて、スマホのインカメラで赤くなっていないか確認する。大丈夫。笑ってみる。ちゃんと笑えている。
起き上がり、布団を軽くたたんで、台所へ行く。
「おはよう」
食卓には和定食が並んでいた。兄はすでに席についていて、母がお味噌汁を差し出してくれる。しわがれた、手だった。
「おはよう。寝苦しくなかった?」
「うん、大丈夫。……ありがとう」
母に会うのはたぶん十年ぶりとかで。あんまり覚えてもいなかったけれど、こんな人だったっけと思った。
こんなに小さくて、細くて、弱々しいひとだったっけ。
もっと大きい気がしていた。もっとしっかり立って、頼りがいがあった気がする。
それが、幼かった私の主観でしかなかったのか、それとも空白の十年で母がしぼんでしまった結果なのか、私は兄に聞けないでいる。
なんだか知らない人に見えて、感動の再会とは程遠い、よそよそしい空気が流れている。
私も母も席に着くと、図らずも私を真ん中にしたコの字型の位置取りになった。視界には対面する兄と母が映るが、二人は目を合わさない。会話をしようとすると口論に発展するので、お互いにしゃべらないようにしているのだと思う。
自然、私がしゃべらないと空間に声がない。
「お味噌汁美味しいよ、ありがとう」
「そう? 口に合って良かった。ほらシラス、
「……うん。そうだった、ね。あ、でもお醤油欲しいかも。取ってもらっていい? お兄ちゃん」
「ん、はい」
好きだった記憶がないシラスに醤油をかける。
むしろ兄のほうが好きだった気がする。でも幼いころの記憶に自信はなく、母の言う通りだったのかもしれない。
明確に覚えていることもあれば、跡形もなく忘れていることもある。形跡すらないのにどこかにしっかりと刻まれていることも。
母の作ってくれるごはんの味にはまだ慣れないけれど、なんとなく、懐かしい気がした。
朝食を食べ終えると、兄は家の周りを散歩しに出て行った。昼前になり母がパートに出かけてから、頃合いを見計らって戻ってきた。
兄は仕事の都合上、五日間だけ滞在する。その後は休みの度にこちらに来てくれるという。つかず離れず。たぶん兄なりに、気を使っているのだろう。
私はと言えば、とりあえず部屋で夏休みの宿題をしている。計画表をつくり、新矢や瑠羽ちゃんと進捗を共有しているけれど、部活のない私が一番捗るのは当たり前だった。
「涼花」
子ども部屋はひとつしかない。開いたままのドアから兄がひょいと頭をのぞかせた。
「おれちょっと友達に会ってくる、けど、大丈夫そ? 夕方帰ってくる」
「うん。ふみくん?」
「や、また別の友達。おれだって坂田しか友達がいないわけじゃねーの」
「ふふ、そうだった。行ってらっしゃい」
手を振って兄は出て行った。母は夕方から夜に帰宅するらしい。晩御飯は昨日の残りがあるはず。
少し考えて、私はスマホをとった。メッセージを打ってみる。
『ふみくんの大学って、徳総大学?』
返信はすぐに来た。そういえば無職になったと聞いた。暇なのだろうか。
『そう。どした?』
『オープンキャンパスあるんだって』
『夏休みか。行くのか?』
『行きたかったけど、もう申し込み終わったんだよね』
『もうこっち来てるのか? 予定は?』
『夏祭り行くくらい。あとは暇してるかな』
『徳総大学、行くか?』
え、と声が出る。そんなことができるんだっけ。すぐに補足説明が来た。
『大学も夏休みであんま人はいないだろうけど。別にばれないし、卒業生と行けば迷わないだろ』
『怒られない?』
『もしそうなっても、怒られるのは俺』
ならいいか、ではないけど。すぐに支度をして、兄に連絡だけして家を出た。
指定された駅の改札前にはすでにふみくんがいた。前に会ったのは二か月くらいだろうか。
兄と一緒で、私の怖がりもふみくんにはほぼ出ない。いまの私にとっては、二人目のお兄ちゃんのようなものだ。
「急に誘ってごめんな。俺も来たくて」
「なにか用事でもあるの?」
「いや、別にないが。ただ、懐かしくて」
ふみくんが大学を卒業したのは五年前だ。彼がお父さんに会いに行くと言って私たちと再会したのが卒業直前の三月だったはずだから。
大学は駅からすごく近かった。
外からでも、ビルみたいな建物や小さな校舎みたいなものが点在しているのが見える。高校と似た門があって、開け放たれている。
なんてことないような顔をして超えれば、誰にも咎められず敷地に入ることができた。
「試験の会場とかで度々利用されるし、学外の人でも利用できる図書館もあるから。大抵人はいるし、開いてる」
「あ、英検の会場だった。地元の大学」
「だろ。この辺は普通に授業する教室がある。あれはサークル棟」
「サークル棟……小説で読んだことある」
「俺は入ってなかったけど、興味があればなにかのサークルに入ってみたらいい」
あれは食堂、あれは研究棟で教授の部屋がある。ふみくんは指で示しながらひとつずつ説明してくれた。
「広いねえ。外観だけ見てるのに。まだあるの?」
「ここにあるのはあと少しだな。少し離れたところに体育関連を集めたキャンパスがあって、バスで行くような距離に理系学科を集めたキャンパスがある」
話しながら、最後に辿り着いたのは敷地の隅にある広場だった。
端には大きなイチョウの木があって、自由に青々と葉を茂らせている。
「ここは?」
「中庭。……って、学生は呼んでる。全然中じゃなくて隅だけどな。授業やるところと結構離れてるからあんまり人が来ないんだ」
グラウンドのように整備された部分では、何かのユニフォームを着た集団がレジャーシートの上でお弁当を食べている。
ふみくんがベンチに座るので、私も隣に座る。
「ここに来たかったの?」
私が問うと、ふみんくんは柔和に笑った。
いつから、こんな笑い方をするようになったのだろう。
高校生だったときはいつも不愛想で、笑うと言ったってぎこちなく口角をあげるだけだった。
それから私はここを離れて、次に会ったのは大学生の終わりのころだったはず。その時にはもう、柔らかく笑うようになっていた。そしてよく喋るようになっていた。
ふみくんの身になにが起こったのか。それはきっと特別なことだろうけれど、私から聞くのは違う気がした。
ただ一つ、思い出す。
ふみくんのお父さんを訪ねて乗った車の中で、憔悴したような表情で彼は言ったのだった。
大切なやつが死んだ、と。
「そう。ここにな。在学中によく来てたんだよ。つるんでたやつはどいつもサークルにも入ってなくて、俺以外はバイトもしてなくて暇人だったから。懐かしいな」
「大きな木があって、いい場所だね」
目の前の大木を見つめるふみくんのポケットで、着信音が鳴った。画面を見て彼は立ち上がり、断って電話に出た。
耳に届く音声は女性のものだ。なにを言っているか分からないけど彼女かな。そう邪推してみたものの、ふみくんは敬語で話している。
「いまは大学にいて。いや、友人の妹と一緒です。あーそうですメールの。……はい? え? あー……聞いてみます。本宅のほうですね?」
電話を切らないまま戻って来た。スマホからは女性の声がしている。子どもを叱るような。
「涼花。嫌なら断っていい」
ふみくんはそう、前置きした。
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