兄と彼の関係
玄関のチャイムが鳴った。
時計を見るともう夕方だった。ずっと寝ていたらしい。
痛みの代わりに怠さだけが残る身体を引き摺って、壁にかけた鏡の前に行く。手早く髪を梳いて、顔と服をチェックする。
再度チャイムが鳴った。
足音を立てないように近づいて玄関扉に引っ付く。
覗き穴から確認したら、予想通り新矢がいた。
彼の家はこのマンションを通ってしばらく行ったところにあり、通学路なのだ。私が休むと、新矢は自然に連絡係になってしまう。
扉を開けて迎え入れる。兄の厳命で、新矢は私の部屋には入れない。居場所はいつもリビングだ。
「良くなった?」
持ってきてくれたプリントたちの説明を一通り終えて、慎重に踏み込むようにそう言った。心配をかけている。新矢にも、兄にも。
「うん、ありがと。明日は行くね」
飲み物を出そうと冷蔵庫を開けたら、用意してくれた朝食がそのまま入っていた。
小さなオムライスにサラダ……食べるのを忘れていた。夕飯に回してもいいけれど、朝から食べていないことを知られると。
(お兄ちゃんに怒られる……)
「ねえ、お腹すいてない?」
「空いてる、けど、なに?」
新矢がキッチンに入ってくる。私はそれにちょっと動揺する。
狭いキッチンでは、どうしても距離が近くなる。なんでもないのを装って、冷蔵庫から取り出したお皿を見せると、彼の顔はわかりやすく輝いた。
「お兄さんのごはん」
兄は、料理がうまい。
もとは壊滅的だったが、ふたりで暮らし始めてから必要にも迫られてどんどん上達していった。
幼いころの私が散々、まずいだの焦げて苦いだの泣きながら文句をいったかららしいが、覚えていない。ひとつも、覚えていない。
凝った料理は面倒がって作らないものの、手先が器用なのもあって、一般的なものは大抵作れる。
新矢にはたまにこうやって私のごはんを食べてもらったり、タイミングによっては兄のつくる晩御飯を一緒に食べたりするので、その味は知っている。「正直ちょっとファン」らしい。
「じゃああっためるね。そっちで待ってて」
「あ、おれが……」
狭いキッチンで、新矢が私に手を伸ばす。
真横にある電子レンジをめがけているとすぐにわかっても、私はとっさに避けてしまった。背中が冷蔵庫にぶつかる。
新矢の背は中学のときからさらに伸びて、百八十近くある。目の前に、しかも対面に立つと壁みたいになる。
顔を見られなくて、うつむいたら自分の手先が震えているのが見えた。新矢もそれに気が付いたのだろう、ごめん、と言ってリビングへ戻ってくれた。少し気まずく、レンジが音を出すのを待った。
「はい」
お皿を新矢のまえに出す。彼は縮こまっていた。頑張って、体ができる限り小さく見えるようにしている。
「ふふ、いいってそんなしないで」
「や、怖がらせてごめん……」
新矢は私のことを結構知っている。昔のことも、たぶん兄に聞いたのだろう。
私がクラスの男子を怖がっているのをわかっていて、ことあるごとに間に入ったりして、恐怖を緩和させてくれる。
自身が怖がらせるのもわかっていて、こうして気を使ってくれる。
「ごめんね」
「
「うーん、そうでもないと思う。でも、結構大丈夫になった」
「うん」
「はい、召し上がれ。私のごはんを」
「お兄さんの作った豊田のごはんな」
面白いくらいのスピードで食べていく新矢を目の前に、私はきょう出たらしい宿題をこなしていく。
公立とはいえ進学校で、それなりにレベルは高い。「バイトとかしなくていいから、勉強していいとこ行け」と言ったのは高卒の兄で、だから私は、学校を休んでも勉強は欠かさない。
「夏休みどうすんの」
「うん……やっぱり行こうと思う。せっかくだしさ」
「な、おれもそっち行くからさ、夏祭り行かねえ?」
「夏祭り? そんなのあるの」
「うん、あるって調べた。豊田の地元だったら、学校のやつらもいないし」
「遠いよ」
「用事がないわけじゃないんだ。オープンキャンパスがあってさ、そこに行こうと思ってる」
「オープンキャンパス?」
「
「行くの?」
「とりあえず見るだけ」
いたずらっぽく笑う。
たぶん進学先の候補ではないのだろう。ただ新矢の家は裕福で、そういう準備に余念がない。いくらでも見てこい、と送り出しそうな気がする。
うーん、と悩んでいたら、玄関がガチャガチャと音を立てる。兄が帰って来たらしかった。早い。これは私を心配して早めに帰って来た気がする。
「考えといて」
洗えなくてごめん。完食してくれたお皿を指して言いながら、新矢はカバンを背負い、足早に玄関へ向かう。
当然鉢合わせるのだが、接触は短いほうがいい。
「……おう」
「お邪魔しました!」
「おう」
そんな会話とも言えない交流が聞こえてきた。
新矢と兄は絶妙な距離感を保っている。新矢は兄を慕ってくれているが、兄は愛想のいい反応をしない。別にできないわけじゃないくせに。ふたりにすると妙な空気が漂うため、あまり同じ空間にはいさせられない。
ため息をつきながら兄が入ってくる。
「ただいま」
「おかえり……あ、ごめん、ごはん作ってない!」
「いいよそんなん。宿題? しとけ」
言いながら自室にカバンを置いて、キッチンに立つ道中に食器を回収していった。私ではなく新矢が食べたとは気が付くまい。
「体調は?」
「もう大丈夫」
「ん。なら良かった。メシはちゃんと食えよ、あいつが食ったろこれ」
「え! なんで?」
「皿がまだあったかいし。あいつ口にケチャップつけてた」
「言ってあげてよ!」
「わざわざ教えてやる義務はおれにない」
「ええ……。教えとこ」
見るか分からないが、トークを入れておく。口にケチャップを付けて颯爽と自転車を走らせる彼を想像すると可愛くてちょっと笑えた。
「あ、ねえ。ふみくんの大学ってどこだっけ」
「大学~? 知らん。聞いたことはあるけど忘れた。なんかあんの」
「オープンキャンパスがあるんだって。新矢が行くって言ってて。徳総大学」
「あーなんかそんな名前だった気がする。……ていうか、新矢が来んの」
野菜を切っていた音が止まる。私は宿題に集中するふりをして、兄を見ない。
「うん。見るだけって。で、夏祭り行こうって」
「絶対そっちが本命だろ」
ため息をつきつつ、調理を再開する。
「まあ、いいよ。行ってこい」
ついで、また確認が入る。
「やっぱ、行くのか」
「うん。ごめんね迷惑かけて」
「そんなんは全然良くて。ただ、義務感とかならそんなん背負う必要はないっていうか。なんか、あんの。いや言いたくないなら全然いい」
「義務感とかはないよ。ただ、私のこういう弱いところって、たぶん家関係でしょ。なんとかできるならそれがいいなあって」
「……お前は弱かねえよ」
「うん」
兄が気にしているのは、きっと私の所在だろう。
中学まではここにいてくれ、と兄は常々言っていた。その意味もよく分からないまま、私はうん、と返事をしていた。
中学を卒業するとき、どうする、と尋ねられた。「帰るか?」ということらしかった。
考えることもなく、行かない、と言った。
私の帰る場所はここだから。どこにも行かない。そうか、とだけ兄は応じた。
兄の心配するようなことはない。
ただ私は、自分のために、強くなりたいのだった。
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