新矢について
父の顔は分からない。けれど本当は覚えているのだろうか。
夢のなかで私は、父に怒鳴られる。何に怒っているのかわからない。多分、私がなにかしたのだと思う。この人の気に入らないことを、なにか。
幼稚園児だった私は泣きながら土下座をしていた。謝るというとこれしか知らなかった。隣で母が同じ恰好をしている。母がつらそうなのが嫌だった。
父の怒号が聴こえる。覚えてもいない声で私と母を怒鳴る。
私は母が好きだった。このときは確かに好きだった。
私は、父が……。
一層大きな声で罵倒され、夢の中の私は現実ではできなかったことをした。
反論しようと口を開き――。
――目を覚ました。
クリーム色の天井が見える。一瞬違和感を覚える。木造の茶色い天井じゃない……違う、これが正しい。
ここが、今の私の家だった。
心臓の位置が分かるくらいに鼓動が大きい。私はとりあえず息を吐き、目をつむる。
心臓が落ち着いて来るのと同じ速度で、頭痛と腹痛を自覚する。
「あーーー……」
紛らわしに声を出してみても、どうにもならない。
念のため、ベッドサイドから体温計を掴む。しばらく脇に挟んで表示されたのは三十七度二分。微妙である。
リビングからは兄の立てる物音が聴こえる。朝ごはんの匂いもする。
「お兄ちゃーーーん……」
呼べば、部屋の扉を開けて顔を出す。
「どした」
「きょう休む」
「どした」
「頭とお腹痛い。熱は多分ない」
「飯は」
「あーとーでー……」
頭に響くのであまり喋りたくない。こういうとき、兄は淡々としている。
「分かった。学校には連絡しとく。
「うん……お兄ちゃんてさ、ほんとに新矢のこときらいだよねえ」
「嫌いってわけじゃない」
ぶっきらぼうに言って、扉を閉める。
嫌いってわけじゃない。
それはそう、そうなのだろう。本当に嫌いであれば家に来ることを許容したりしないと思う。
兄は私の交友関係に口を出さないが、新矢にだけは眉を顰める。
なぜかいつだってぶっきらぼうに接する。ご飯を食べさせたりはするくせに。
嫌いじゃないけど、気に食わない。そんな感じだろう。
扉がノックされた。
「連絡した」
「ありがと。先生、何か言ってた?」
「お大事にって。それだけ」
だから寝てろ、と言い置いて、兄は離れて行った。
先生も慣れたものだ。
靄がかかるように鈍い頭の片隅で思い出して、枕もとのスマホをとる。メッセージアプリに固定してあるトークをタップ。
『ごめん、きょう休む』
『おっけ。大丈夫?』
『大丈夫、あしたは行けると思う』
お決まりの、『お大事に』のスタンプがつく。
そのままベッドに横になった。頭とお腹が痛くて体がだるい。身体のどこかが悪いわけじゃない、それはわかっている。多分夢のせいだ。
嫌なことを思い出すと、身体も従順に反応する。
再度ノックされて、返事をしたら開いた。
「朝飯は冷蔵庫に入れておいた」
「ありがと」
「じゃあ、行ってきます」
兄が手を振るので振り返した。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
この挨拶が結構好きだった。
昔は、兄が仕事に行くのを見るたびに泣いたものだけど、さすがにいまはそんなことしない。
行ってらっしゃい、行ってきます。
それができなかったころがあった。
母はいつも疲れていて、しかも暴行のあとを隠すためにそう外には出なかった。
父は機嫌のいいときだけそう言って出て行ったが、誰か一人でも返事をしなかったら殴るために引き返してきた。
あまり覚えていないけれど、記憶の断片を現在の頭で整理するとそういうことになる。
行ってらっしゃい、気を付けて。
安心して、心のそこから無事を祈って、送り出す。
ちゃんと家族をしている。そこがいい。
扉が閉められる。しばらくして玄関を施錠する音がして、部屋はずっと静かになる。
スマホが通知音を鳴らした。
『行ってきます』
窓から下を見ると、自転車に乗った彼がいる。陸上部らしく短く揃えた黒髪。新矢がこちらに手を振っている。
振り返して、ついでにメッセージ、『気を付けてね』。
スマホをみた新矢はスタンプを返す。
あ、まずいかもと思ったときはすでに遅く、エントランスから兄が出て来た。
新矢の勢いのある挨拶に、多分しかめっ面をしながら、手を上げて応える。
振り返ってこちらを見て、「寝てろ」と口パクをしてさっさと歩き去って行った。
ごめんのスタンプを送る。新矢はこっちを向いて、満面の笑みを返した。ペダルに足をかけ、兄とは反対方向に走って行った。
新矢
中学校からの同級生だ。当時私は学校を休むことが、今よりずっと多かった。
小学生のときから、男子生徒とうまくいかないことが多かった。今思えば私の怖がるような反応が目についたのだろう。
よくからかわれて泣いて兄が学校に迎えにきて、その後数日は学校に行けない、なんてことを繰り返した。
兄は学校に行けとは言わなかった。転校してもいいとさえ言った。ここに来た時みたいに、ふたりだけでどこかに移ればいいだけのことだ、と。
なんとか小学校は卒業したが、中学になってからまた駄目になった。
大人らしくなる男子生徒を、私は以前よりずっと明確に怖がるようになった。自分より大きな背、自分より太い腕。
殴られれば抵抗するすべはない、と脳裏によぎるたび、恐怖で動けなくなった。
早退することも多くなったが、兄はやはり、行けとは言わなかった。私も学校に、行きたくないわけではなかった。
けれどどうしても行けなかった。
せめて心配をかけたくない、と勉強だけはした。動画サイトで自分にあう授業動画を漁った。おかげで、勉強にはなんとかついていけた。
いつからだろう。ある時期から、登校すると、同じクラスの新矢という男子生徒が必ず寄ってきた。中一のときから彼は背が高くて骨ばっていて、怖くて嫌だった。
こちらもあまり愛想のある態度をしないので、ほかの男子生徒がそうであるように、すぐに飽きてどこかへ行ってしまうと思っていた。
けれどそうはならなかった。
新矢は少しずつならしてくれた。挨拶から始まって、少しずつ話す言葉を増やして。
中学三年のときには、家の前で一緒にいるところを兄が見て、兄のほうが固まっていた。無理強いされていないかと何度も確認されたが、新矢に限ってそんなことはないと説明した。
そんな説明をする自分がおかしかった。こわいのは怖いのだが、彼が安全であることは、自分でも理解しているようだった。
受験を経た高校も一緒になった。周囲は私についてきたくて新矢が勉強をした、なんて言っているけど、たぶんそんなことはない。もとからやればできる人だった。
新矢の背中が見えなくなるまで見届けて、私は言われた通りベッドにもぐりこむ。
熱は下がった気がする。身体の痛みはあるので痛み止めを飲んで、朝ご飯は、食欲がないのでお昼に回す。
今でも、こうして体調を崩して欠席することが時折ある。それでも随分減ったのだった。それが新矢のお陰でもあることを私も、兄も分かっている。
――嫌いってわけじゃない。
それは多分そういうことだった。
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