嫌いではない
生まれた土地から離れて、五階建ての小さなマンションが私たち二人の帰る場所になった。二階の角部屋で、『円』の形の2DKを振り分けて住んでいる。
家のことや当時のことは、覚えているような覚えていないような。
強く記憶に残っているのは、泣いていたこと。
この部屋に来た当初は毎日泣いていた。
突然知らないところに連れて来られて、兄は詳細の説明をしなかった。理不尽に耐えられず泣いて、怒りの対象であるはずの兄に慰められ縋って泣いた。
泣き疲れて眠って、その繰り返し。
成長するとだんだん分かってくる。
兄はその時の私の年齢に応じて説明の仕方を変えた。断片的な情報を自分の記憶と繋げて、小学校を卒業することには十分、私たちになにが起こって兄がどう対処したのかが分かっていた。
ただ、たまに兄と話すときにかみ合わない場面も多い。
幼かった私の印象が濃いものや、今の私が想像で補っているところもあるのだと思う。兄は嫌がってあまり話してくれない。私が過去を気にするのを嫌がっているようにも見える。
だから、兄経由で母の言葉を伝えられたときは驚いたのだ。
「会いたいって言ってる」
ぶっきらぼうに投げられただけの言葉に、家のことだろうなと思ったけれど、さすがに主語までは補えなかった。
「誰?」
「……母親、お前の」
兄にとっても母のはずなのだが。しかし兄が、母を「母親」として認識したくない、拒否していることは重々承知しているから言わないでおく。
母が私に会いたいと言っている。
その事象に、喜びとも悲しみとも怒りともつかない、戸惑いだけを感じた。
私は多分、母のことが嫌いではなかった。
随分長く会っていないし、話していない割には。嫌いではなかったけれど、手放しに好くこともできない。
母を捨てたのは兄と私だけれど。甘んじて捨てられることだって、捨てることと同義だと思う。
「なんで?」
「父親が入院したんだとさ。その間だけでもお前の顔見たいって」
「私が? 行けばいいの?」
「もし行くならおれが車は出す。行かないなら、おれから断っておく」
「お兄ちゃんは」
その目をじっと見る。気まずいのかバツが悪いのか、兄はうつむいて私ではないどこかを見ていた。
こちらを見てほしかった。
「会ってほしい?」
眼球が左右に動いた。考える時間が結構あって、
「会って……」
やっとそうつぶやいたのに、ほしいともほしくないとも言わず、
「好きにしろ」
とだけ返って来た。
しばらく考えて、私は「行く」と返事をした。
兄は、「わかった」とだけ言った。
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