第2章 豊田涼花①
ふみくん
彼はいつでも不機嫌なしかめっ面をしていて、幼いころはそれが怖かった。
いくら兄の友人だといっても、背の高い年上の男性が口数少なく、ずっと何かを睨んでいるように見えれば恐ろしい。
だけどいつでも、文句ひとつなく家に上げてくれた。
兄に連れていかれて、アパートの玄関扉の前で待つあいだ私はずっと、階段を見つめていた。
誰かがのぼってくる音がすると緊張して、恐くて、でも期待して、出てきた頭の先が彼のものだとわかったときの安堵感と喜びと開放感を、いまでも覚えている。
彼は言うなれば、私のもう一人の兄だ。
「元気そうだった?」
自室の扉を開け放して、ベッドの上からリビングにいる兄に尋ねる。
一泊二日の帰省というやつから帰宅した兄は、思ったほど機嫌が悪くなかった。
道中大きなスーパーに寄ったのだろう、たくさんの食材を冷蔵庫に収納している後ろ姿が見えた。
「誰?」
聞き返されて、私は少し言いよどむ。
この場合、きっと答えるべきは「お母さん」なのだろう。けれどそれほど気にならない。
記憶が薄くなって顔も思い出せないほど会っていない身内より、会わずに少し経った友人のほうが気になる。
「ふみくん」
距離感にしては親しい呼び名が、いまだ正しいのかは分からない。
彼は――友達だと言う割に、兄とは名字で呼びあっていて。そのせいで彼は私のことを名前で呼ぶようになってしまった。
なんて返すのが正しいのか分からず、恐怖と人見知りも手伝って、呼び返したことがなかった。
やっと呼べたのはあの町を出て数年後、中学生になったあとだった。彼の用事のために再会して、そこから数か月に一度、兄と三人で会うようになった。
なんて呼べばいいんだろう、怒られないようにするにはなんて言ったらいいんだろう。考えてしまってなにも話せなくなった私に、彼は随分と柔らかく、ふわりと笑ったのだった。
五年ぶりの彼の笑顔は。
見たことのない、表情だった。
私が困っていることを察した兄が要らない茶々をいれた。反射的にそれを繰り返してしまって、定着したのだ。
「ああ。元気そうだったよ。会社潰れたって平然と言っててうけたけど。なにかあっても平然としてるの、やっぱ面白いよなあ」
「会えるかな」
「しばらくいるって言ってたから、大丈夫じゃね? 連絡してやろうか」
「いい。自分でする」
兄はレンジで何やら温め始め、待ち時間でこちらに来た。敷居の前で立ち止まる。
兄は、私の許可なくこの部屋に入ることはしない。いつも境界線を守っている。私はというと、兄の部屋に許可なく入るけど。
「終業式いつだっけ?」
「次の木曜日」
「いつくらいから行く? ていうか、行くの」
「行くよ。日にちはお兄ちゃんの都合もあるもんね、ちゃんと決めとく」
行くの?
何度目の確認だろう。行かせないつもりではないと思う。その目をじっと見ても、真意は分からない。
「分かった。……もう寝る?」
「うん、寝る」
「おやすみ。冷房つけっぱにしとけよ、熱中症になるから」
「はあい、おやすみなさい。お兄ちゃん、電気消して」
はいはい、と気だるげな返事をして、壁にあるスイッチをぱちんと押してくれた。タオルケットにくるまった私を見届けて、扉を閉める。
リビングからの光が、扉の隙間から少しだけ漏れてくる。それでも部屋は随分と暗くて、私は安心する。
別にいいといつも言っているのに、兄はキッチンの電気を消して、自室からの光で視界を確保する。隣の部屋の光はここまで入ってこない。部屋は真っ暗になった。
暗いと安心する。
十年前のあの日。兄は私に、完全な暗闇をくれたのだった。
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